第9話 世界を越える実験

 メモ書きを見た途端、抑えていた感情が奔流のように琴乃を襲った。

 沸き上がる感情が涙をあふれさせる。


 だが先程のように泣き声は上げない。

 口元には穏やかな笑みを浮かべている。手にしたメモを見つめ、ただただ涙を流していた。大きな瞳から溢れた涙が静かに頬を伝う。


 琴乃がメモを胸に抱き、涙で光る双眸を閉じる。

 蔵之介と琴乃の間に静かな時間が流れた。


 琴乃の弱々しい声が静寂を破る。


「蔵之介さんは、本当に遠いところに、いるんですね」


 スマートフォンやパソコン越しでの、会話やメッセージでは実感できなかった距離感。

 蔵之介が書いたメモ書きを目にしたとき、あり得ない現実を目の当たりにしたとき、本当に遠く離れているのだと感じた。


「琴乃さん、落ち着いた?」


「伯父様は意地悪です」


 映像越しに上目遣いで睨んでいる。


 伯父様かあ、怒っているなあ。

 琴乃の様子に蔵之介は少なからず後悔して言葉を返す。


「意地悪をしたつもりはなかったんだ。映像越しとはいえ、琴乃さんの可愛らしい顔を見ることができて、年甲斐もなく舞い上がってしまったようだ」


 そう言って、『本当にごめん』、と見えるはずのない彼女に向かって頭を下げた。


「舞い上がって、あんな意地悪な手紙を書いたんですか?」


「ごめん」


 蔵之介が頭を下げた。

 

「蔵之介さんは寂しがり屋なんですね」


「どうだろう?」


 琴乃にそう答えて頭を上げると、ギフトパネルのなかの琴乃は先程のメモ書きを見つめていた。


「寂しがり屋だって、知っていましたよ、私は」


「琴乃さんの前でそんなことを言った憶えはないなあ。態度にもだしていなかったと思うけど?」


「でも、知っていました」


 どこでバレたんだ?

 蔵之介が思案していると、琴乃がさらに言う。


「お母さんが言っていました。『蔵之介さんはとっても寂しがり屋だから意地悪しちゃだめよ』って」


 琴乃が穏やかにほほ笑んだ。

 そして、寂しそうに微笑む。


「私も寂しがり屋なんですよ」


「知っていたよ、ずっと昔から」


 幼い頃の琴乃が目に浮かんだ。

 母親が見えなくなるとすぐに泣く。母親の後を追いかけてばかりいた。母親から離れようとしない子どもだった。


『琴乃さんは憶えていないだろうけどね』、と心の中でつぶやく。


 画面の向こうで琴乃が両手を勢いよく合わせた。

 パンッと、小気味よい音が響く。


「もう大丈夫です。実験を再開しましょう」


「前向きな琴乃さんって素敵だよ」


 からかうような口調の蔵之介に琴乃がピシャリと言う。


「蔵之介さん、次の実験!」


 いつもと変わらない琴乃の様子に蔵之介は胸を撫で下ろして言う。


「今度は琴乃さんの方から何か送ってくれるかな?」


「送るって、この黒い穴のなかに何かを放り込めばいいんですか?」


 琴乃が黒い穴の周りをゆっくりと歩き、角度を変えて観察をする。


「そうだね。そうしてくるかな。くれぐれもその黒い穴には触れないようにね」


「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」


 それくらいは容易にできると言いたげな口調で答えた。


 ギフトパネルに映る琴乃が辺りをキョロキョロと見回している。

 突然ノートを一ページ切り取って何かを書き始めた。


 別に何も書かなくてもいいのになあ。

 蔵之介はそう思いながら琴乃が書き終わるのを待った。


「書き上がりました」


 琴乃はそう言うとノートから切り取った紙片を四つに折って、髪留めで挟んだ。

 続いて、


「じゃあ、投げ込みますね」


『エイッ』という掛け声とともに、髪留めで挟んだ紙片が宙を舞う。

 紙片は髪留めがおもりとなり、真っすぐに黒い穴へと到達する。すると紙片は吸い込まれるように消えてなくなった。


「命中しましたけど、消えました!」


 琴乃が驚きの声を上げた。

 蔵之介が口元に笑みを浮かべ、興奮した様子で拳を握りしめる。


「実験成功だ。琴乃さんの投げ込んだ紙片と髪留めが届いたよ」


「え? 蔵之介さんの手元にあるんですか? 読んでください。私の書いた手紙を読んでください」


 先程まで泣いていたのに妙に弾んだ声が響いた。


「ちょっと待ってね。まだ色々と慣れていないんだからさ」


 蔵之介は琴乃の送った紙片と髪留めをストレージから取り出すと、要求されるままに紙片に目を通す。


『寂しがり屋の蔵之介さんへ


 声を聞けただけでも嬉しかった。

 胸がいっぱいになって、涙がでそうになりました。

 早く帰ってきてね。


 世界で一番大切な、あなたの愛しい琴乃より』


「琴乃さん。これじゃまるで恋人宛ての手紙だよ」

 

『涙がでそう、じゃなくて、声を出して泣いていたよね』、という言葉は呑み込む。


「あら、蔵之介さんは私のことを、『愛しい』とは思ってくれていないんですか?」


 普段聞く事のない甘えた声音。


 急に一人になって寂しいんだろうな。

 蔵之介の胸の奥底で奇妙な罪悪感と愛情が湧き上がった。そして、自然と琴乃の言葉を肯定する。


「思っているよ。私にとって琴乃さんが世界で一番大切だ。愛しい姪だよ」


「じゃあ、問題ありませんね」


 琴乃のいつもの口調に苦笑する。


「次の実験をしたいんだけど……」


 口ごもる蔵之介に向かって琴乃が不思議そうに問いかける。


「どうしました?」


「その辺に虫はいるかな?」


 画面のなかの琴乃はその美しい顔を瞬時に歪める。


「虫?」


 怨嗟えんさ憎悪ぞうおはらんでいるような声が響いた。

 蔵之介は予想通りの反応に落胆しながらも聞く。


「そう、虫。生きているものを送れるか試してみたいんだ」


「虫なんていません」


 間髪容れずに否定の答えが返ってきた。


 動物や昆虫の転送。

 それは蔵之介が次に行おうとしている実験だった。

 問題は琴乃が大の虫嫌いということだ。


「外に出てアリか何か捕まえて――」


「酷い! 伯父様はこんな時間に、うら若い乙女にパジャマ姿で外に出ろって言うんですか?」


 先程までの協力的な態度は欠片も見当たらない。


「伯父様の方から虫を送ってみてください」


「残念ながらそれは既に実験済みなんだ」


 そう言ってベッドの傍らにあるテーブルからガラス瓶を取り上げる。

 ガラス瓶には小さな甲虫が入っていた。


「それで実験はどうだったんですか?」


「実験は失敗だったよ」


 先程、昆虫をストレージに収納できないか試したがそもそも、ストレージに収納することすらできなかった。


「うう、分かりました。少し待ってください」


 観念した様子の琴乃の声が聞こえた。

 次の瞬間、勢いよくパジャマを脱ぎだす。


「ちょ、ちょっと、琴乃さん! そこで着替えたら見えちゃうよ!」


「見ないでください! 蔵之介さんが画像をOFFにすればいいんじゃないですか?」


「そうだったね。ちょっと待って。画像をOFFにして音声だけにするから」


 蔵之介が慌ててギフトパネルを操作する。

 脱いだパジャマで胸元を隠していた琴乃を映していた画面が消えた。


「はい、これで見えないよ」


「本当ですか? 信用しますよ、信用しますからね」


「信用していいよ」


 蔵之介が苦笑しながら答える。


 頭のなかで琴乃が着替える音が響く。

 そして聞こえなければよかったと思うような独り言のささやき。


 失敗した、音声も切っておけばよかった。

 蔵之介が軽く後悔をしていると、琴乃の声が響いた。


「着替え終わりました。ちょっと庭にでて虫を捕まえてきます!」


 決死の覚悟がうかがえる。


「よろしく頼むよ」


 蔵之介は琴乃を送り出すと、ルファから貰った紋章魔法の魔導書に目を通す作業に没頭した。


 ◇


 不意に響いた扉を開く音と続く琴乃の


「戻りました!」


 という元気のいい声に魔導書から意識を引き戻される。


「蔵之介さん、戻りましたよー」


 虚空に呼びかける琴乃に蔵之介が聞く。


「虫を捕まえた?」


「虫は見当たりませんでした。やはり真冬ですね。どこを探してもいません。きっとみんな、冬眠をしているんですよ」


「嬉しそうだね、琴乃さん」


「でも、がっかりしないでください。代わりに植物を持ってきました」


 弾んだ声で鉢植えの観葉植物を得意げに差しだす。


 植物かあ……

 一足飛びに昆虫辺りで実験したかったが、贅沢は言えないか。


「じゃあ、植物で実験をしようか。昆虫はまた次の機会にしよう」


「そうですね。では早速」


 そう言って鉢植えの観葉植物を黒い空間へと投げ込んだ。


「やりました! 消えましたよ!」


「成功だ、観葉植物は鉢ごと届いたよ」


 蔵之介が見つめるストレージの項目に、いましがた琴乃が投げ込んだ観葉植物の画像がアイコン化して表示されていた。

 

 不意に琴乃の悲鳴が轟く。


「キャーッ!」


「どうした! 琴乃さん、何があった!」


「虫! 虫です!」


「虫?」


「突然虫が現れました。多分、観葉植物に付いていた虫が振り落とされたんだと思います」


 振り落とされた? あり得る! 昆虫だけ弾かれた可能性が高い。

 虫におびえる琴乃に向けて蔵之介が言う。


「琴乃さん、その虫、捕まえて」


「やっぱりーっ」


 琴乃の情けない悲鳴が響いた。

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