恋を知らない

詩音

恋を知らない

 女の子は恋というものを知りませんでした。

 その人のことを思うと、胸がどきどきして、昼も夜も眠れなくなる。その人に自分がどう思われているか気になってしまう。一日中その人のことを考えて、他のことに手がつかなくなってしまう。

 それが恋というものなら、女の子はそういう経験をしたことが一度だって、ありませんでした。

 十三、四にもなると、女の子の友達は恋の話ばかりをするようになりました。背の高いあの子がかっこいいだの、窓際でいつもぼうっとしている子がなんだか気になるだの、そんな会話が教室を行きかいます。

 けれど、女の子は一度だって男の子にどきどきしたことがありませんでした。

 難しい問題の答えをすらすら黒板に書いていく男の子を見ても、周りからかっこいいと騒がれる男の子と目が合っても、落とした消しゴムを隣の席の子から受け取るときに微かに指が触れ合っても、女の子の心臓はいつも通りのリズムを刻んでいました。

 そんな女の子にとって、友達の話は不思議で、理解できないものでした。

 みんななににそんなに夢中になっているのかしら。

 楽しそうにおしゃべりをする友達を見て、いつしか女の子は自分も恋をしてみたいと思うようになりました。

 そして女の子は恋を探しに行くことにしました。

 女の子はまず、街で一番のかっこいいとされている人物に友達と一緒に会いに行きました。青年は噂通りの美しさでした。青年の姿を見た友達は、はぁ、と甘いため息をつきました。興奮のあまり、隣にいた子の腕を強い力で叩く子まで現れました。女の子は彼女たちの行動がやはり理解できませんでした。青年は美しい。それは事実として認識できるのですが、それで心が動かされるようなことはありませんでした。

 女の子は次に、キスをしてみました。相手は隣の家の二歳年上の少年でした。生まれて初めてしたキスは少年がその日の朝に食べた、いちごジャムの味がしました。キスをした後、少年はどぎまぎしながら女の子を見つめました。その様子がおかしくて、女の子は吹き出してしまいました。

 女の子は恋をしようとして、他にもいろいろなことをしてみました。男の子と湖で一緒にボートに乗ったり、クラスで一番頭がいい子に難しい数学の問題を教えてもらったり、男の子たちが運動をしているところを見に行ったり、キスをした少年とはそれ以上のこともしてみました。

 けれど女の子が恋をすることはありませんでした。

 恋を知らないまま、女の子は少女に、少女から女性になりました。そして、二十のときに、親が決めた相手と結婚をしました。

 夫は穏やかな優しい人で、彼女は彼のことを気に入りました。胸が高鳴ったり、頬が赤くなったりすることはありませんでしたが、夫の隣にいると彼女は安心しました。穏やかな生活を二人は送り、彼女は二十二のときに一人目の女の子を、二十四のときには二人目の女の子を産みました。

 子どもが産まれて、彼女の生活はそれなりに忙しくなりました。朝は早起きしてご飯を作り、午前中のうちに洗濯と掃除を終わらせて、午後は少しだけ夫の靴屋の仕事を手伝って、夕食の準備もして。それに加えて子どもの世話もしなければならなかったのですから、彼女の日々は目まぐるしく進んでいきました。

 こうしてあっという間に年月は過ぎ、子どもは上の子が十六、下の子が十四になりました。

 上の娘は恋をしました。その相手はよくない評判のある、娘より三個上の少年でした。彼女は娘の恋に真っ向から反対しました。毎晩二人は激しい言い争いをしました。娘が言っていることを彼女は理解することができませんでした。恋をしたことがない彼女は、恋の力は偉大だということを知りませんでした。恋には相手の悪いところを一切覆い隠して、良いところだけしか見えなくする力があることを。そして、相手を非難するものに対して、憎悪を抱くようにもなることを。彼女が恋を知らなかったことが、彼女が娘と決別する原因になりました。

 言い争いを毎日のように続けていたある日、娘は家を出ていきました。家にあったお金をすべて持って、少年と一緒にどこか遠い街へと行ってしまって、二度と戻ってくることはありませんでした。

 娘が家を出ていってから、彼女は遠くを見つめることが多くなりました。朝起きて外に出たときに。洗濯物の合間に。買い物をしているときに。一日の終りに。彼女は悔いているような、娘の身を案じているような目で、一日に何度も遠くを見ました。

 その頻度が一日に一度、一週間に一度、一か月に一度となっていき、数か月に一度になったころ。下の娘は薬屋の息子と結婚しました。一年後に、娘は女の子を産み、母親となりました。

 彼女はおばあちゃんとなり、孫娘の成長を見守りました。

 孫が産まれたころ、長年連れ添った夫が肺病にかかりました。彼女は一晩中付きっきりで夫の看病をしましたが、彼女の看病もむなしく床に伏してから一か月後に夫は亡くなりました。幸いにも、彼女は夫の死に立ち会うことができました。彼女は夫の手を手のひらで握りしめていました。彼女の手にこめられた想いに応えるように、夫は今まで見たことがないほど穏やかな表情でゆっくりと笑うと、そのまま息を引き取ったそうです。

 夫の死を彼女は嘆き悲しみました。

 時の経過とともに彼女は少しずつ元気を取り戻していきました。娘とその夫と孫娘と同じ食卓で温かい夕飯を食べることが、彼女の一番の楽しみです。

 孫が十歳の誕生日を迎えるころ、彼女は病に伏しました。娘が一日中付きっきりで世話をしてくれ、孫娘は学校帰りに毎日話をしにきてくれます。

 今日学校であった出来事を孫娘は話し始めました。先生がいつもより機嫌が悪かったこと、理科のテストが満点だったこと、大縄跳びにひっかかってしまったこと、席替えをしたこと。席替えの話をするとき、孫娘の頬は林檎のように赤くなりました。

「もしかして恋をしているのかい」

 彼女の言葉に孫娘は頷きました。

「隣の席だから授業中も胸がどきどきしてしまって、大変なのよ」

 口をとがらせながら、けれど嬉しそうに話す孫娘を見て、彼女はちょっとだけ切なくなりました。

「私は恋を知らないままここまで生きてきてしまったからね。人生で一度ぐらいしてみたかったよ。恋ってどんなものなのかい」

「それはね、とてもすてきなものなのよ。恋をすると世界がまるっきり違って見えるの。青いよく晴れた空も、小鳥のさえずりも、なにもかも抱きしめたくなるくらい。最高の気分よ」

 孫娘の話に彼女は楽しそうに耳を傾けました。

「それでね、その子と一緒にいたいと思うようになるの。あと手をつなぎたい。そのぴょんとはねた髪の毛にさわってみたい」

「その子のことが好きなんだね」

 恋をしている孫娘は頷いてから、彼女のことを見つめました。

「でもね、おばあちゃまのことも大好きよ。ずっと一緒にいたい」

 彼女の目から一筋の涙がこぼれました。

「おばあちゃま、どうしたの」

「ううん、なんでもないよ」

 悲しいときに出る涙しか知らない孫娘は心配そうにベッドの上の彼女をのぞき込みます。そんな孫娘を安心させるように、彼女は手を伸ばして孫娘の手をやわらかく包み込みました。

 孫娘の手は信じられないくらい温かくて、手のひらを通じて人の温もりが彼女の身体中に広がっていきました。

 その温もりを抱きしめるよう、彼女は手のひらに力を込めました。

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