10. 固い引き金
ゾンビの上半身から皮膚が爛れ落ちてきて、フローリングに敷かれていたカーペットがブスブスと音を立てて黒く焦げていく。
ゾンビの顔はもはや表情の一つさえ分からない程に歪んでいて、口からは大きな塊の涎が一直線になって、途切れ途切れに垂れている。
血管が太く浮き出た両腕は、未だに膨張しようとしているかの様にボコボコと下から上へ、または上から下へと波打つように膨らんでは萎んでいく。
ゾンビの目はもはや何を見据えているのかは分からないくらいに、その目にはもう色はなく真っ白いキャンバスのようになっている。
光司はゾンビから向けられるその目から逃れることは出来なかった。
色を失った目の視線は確実に光司に向けられていた。
大きく両腕を広げたゾンビは、垂らしていた涎を辺りに撒き散らしながら地面に響くような唸り声を上げた。
逃げなきゃ!早くここから離れろ!
そう思う光司だがピクリとも足が動かない。
自分の足に目をやると、小刻みに震えてるのが見て分かった。
なのに足の感覚がない、自分の足なのに言うことを聞いてくれない。
逃げろ!出なきゃ死んでしまうぞ!助けを呼べ!ジャッキーを呼ぶんだ!
「あ……」
光司が声を漏らすと、ゾンビがピクンと揺れて反応した。表情が分からないのにその顔は、にやけている様に見える。
ゾンビがゆっくり一歩前に踏み出す。
それを見ると、光司は無意識に自然と後ろに一歩下がる。
ゾンビは息を大きく吐いた。吐いた息は肉眼で捉えられるほどに白く、天井に舞い上がっていく。
ゾンビから零れた息を吐く音を聞いた途端、光司は自分の胸の鼓動が早くなる。
ゾンビは両足の膝を屈めながら、こっちを見ている。
両腕を大きく横に広げながら今にも飛びかかりそうなほどに、足には血が集まってドス黒い色になっている。
「……来るな、来るな」
光司は唱えるように呟いた。光司の呼吸は呟くと同時に乱れて荒くなる。
一歩ずつ下がった足は、キッチンのカウンターに当たった。
だが光司は下がろうとする、何度もキッチンのカウンターに踵をぶつけて必死に下がろうとする。
それを見るや、ゾンビは力強くフローリングを蹴りだした。蹴りだしたフローリングからは、鈍く割れる様な音が鳴った。
フローリングからゾンビの巨体が空中に舞った。軽やかにその巨体は光司に目掛けて飛んでくる。大きな影が光司の全身を覆いかぶさり、ゾンビの爛れた顔と腐った匂いが強く光司の鼻と目を刺激した。
「頭を下げて!」
どこからか大声が飛んでくる。
その声に従って光司は反射的に勢いよく頭を下げた。
そして声の後から、破裂した音が響く。
空気中に残る破裂音に、ゾンビがキッチンのカウンターに勢いよくぶつかる音が混じった。光司のすぐそばにぶつかったゾンビの膨張した腕が、光司の髪の毛をかすめた後に、頭の上に重くのしかかる。
光司は自分の持てる力を振り絞って、ゾンビから遠ざかろうと無我夢中になってカウンターから這い出ていく。
光司は体を反転させて、正面にゾンビの姿を捉えた。
目の前には、カウンターにめり込んで頭が隠れているゾンビと、銃をゾンビに向けて構えているジャッキーの姿があった。
声を聞きつけて駆け付けたのか、ジャッキーは口を開けたまま肩を小刻みに動かしている。
「離れてなさい!コウジ!」
ジャッキーは声を荒げながら、ゾンビとの間合いを詰めていく。そしてもう一発、弾丸をゾンビの肩に撃ち込んだ。
弾丸はゾンビの肩にめり込んで、小さな穴が生まれた。
すると、ゾンビが両腕をいきなりフローリングに叩きつける。重い音と振動がフローリングを伝って光司とジャッキーの体を揺らす。
そして両腕の先から血が噴き出していた手のひらをキッチンのカウンターに当てながら押し込み、頭をカウンターから離そうとする。
ジャッキーはすかさず三発目を撃つと、続いてまた弾丸をゾンビに撃つ。だがゾンビの動きが止まる気配はなく、ミシミシとカウンターから音を鳴らして勢いよくゾンビの頭が唸り声とともに出てくる。
カウンターの破片がフローリングに飛び散り、光司のふくらはぎに触れる。
ゾンビは顔を瞬時に弾丸を受けた先へ向ける。
太くなった首元の筋肉が勢いよくよじれて、浮き出た血管がはちきれそうだった。
いきなり向けられた視線に、ジャッキーが少しひるむとゾンビは転がっていたカウンターの破片を掴んで、投げつける。
投げられた破片は、目で追い切れずに反応できなかったジャッキーの腹に当たる。
「……あっはっ―」
腹に感じた破片はとてつもない重さになって、ジャッキーを後ろへと吹き飛ばした。漏らした声を置き去りにしてジャッキーの体は、廊下の壁に激しくぶつかる。
ゾンビは倒れたジャッキーを見つめながら、体をゆっくりと起こす。
撃ち込まれて小さな穴が開いた肩をさすったゾンビは、ボコボコと腕を膨張させて肩へ向けて、上がってくる。
小さな穴に集まった膨らみはやがてその周りで萎み始めて、ゾンビは叫び声を上げた。
すると小さな穴から、撃ち込まれた弾丸が勢いよく飛び出してきて、フローリングの上に小さく高い音を放ちながら、コロコロと転がっていく。
ジャッキーが腹に乗った破片を手でどけて顔を上げると、ゾンビはジャッキーに狙いを定めて、歩き始めていた。
膨張した片腕を後ろに振りかぶったのを見て、ジャッキーは素早く体を横に回転させて回避する。
回避した直後、ゾンビの振りかぶった腕が廊下の壁を掴み、突き破っていく。
壁は掴んだ個所に穴がぽっかりと開いて、穴から亀裂が走り、ひび割れて、穴を中心に壁から、木屑がパラパラと崩れ落ちてくる。
ジャッキーは素早く体を起き上がらせて、銃をゾンビに向ける。
手元が少し震えて照準が定まらなかったが、ジャッキーは唇をギュッと噛みしめて引き金を引いた。
だが引いたはずの引き金の後にはカチッとした軽い音だけが鳴った。
「ウソでしょ!?こんな時に!?」
思わず弾切れになった銃を見るジャッキーの頬に、ふわりと風を吹いたのを感じた。
正面を向くと、ゾンビが再びこっちに向かって上半身を重く揺らしながら走ってきていた。
ゾンビが崩れ落ちた中でも大きな木屑を掴み、ジャッキーに向かって再び投げつける。
ジャッキーが体を壁に沿って避けると、目の前には膨張した腕が飛び込んできた。
殴りかかってきたゾンビの手に、ジャッキーは身構える余裕もなくまともにくらってしまう。
廊下とリビングの間の壁を突き破って、ジャッキーの体は、破片と一緒に光司の下まで飛んでくる。
リビングの壁に勢いよく叩きつけられたジャッキーは、ズルズルと壁から滑り落ちてきて、そのままうなだれた。
光司は身を逸らして驚いては、顔だけをジャッキーに向ける。
ジャッキーは口から血を垂らしていて、苦痛の表情を浮かべていた。
すると奥から唸り声を上げながら、ゆっくりとゾンビが突き破られた壁から足を踏み入れてくる。
光司は、ジャッキーの側に転がった銃を手に取って構える。
光司は額から汗が流れているのにも気づかずに、ゾンビを銃越しに見据えた。
再びゾンビが声を上げる。それを聞くと光司は叫びながら引き金を引く。
だが銃からは弾は出てこない。力強く握りしめていた銃が、光司の手から滑り落ちる。
そんな、弾が出ない。
ゾンビの白い眼は光司たちを捉えていた。視線を受けた光司は背中を思いきり壁にぶつける。後ろに下がりたくとも、下がれない。
だが光司の尻に、細く出っ張った物体の感触を感じた。
光司がフローリングに視線を向けると、そこには軍帽を被った男から貰った銃が転がっていた。
「……コウジ」
ジャッキーの力ない声が光司を呼び掛けた。光司はすぐさまジャッキーの方に振り返る。
「その、ショットガンを……使って……撃って」
ジャッキーの声と共に、ゾンビは飛び掛かろうと膝をくの字にしてかがめた。
「早く!構えて!」
ジャッキーの声に圧倒されて、光司は銃口をゾンビに向ける。
光司の手は震えていた。銃を構えたはいいが、引き金に指がかからない。
光司の鼓動は早くなっていく。呼吸は荒くなって、耳には心臓の音と呼吸だけが聞こえてくる。
光司に渦巻く焦りは、やがて様々な音と光景を一気に脳に流れ込ませた。
手に力が入らない。今俺は何を持ってる?声が、あちこちから聞こえてくる。
「引きなさい!!!」
ジャッキーの大声と共に、ゾンビは飛び掛かった。
光司はその言葉を聞いた瞬間、指が引き金に引っ掛かる。
そして光司は引き金を力強く引いた。
瞬きをする暇もないほどに銃口からは光が放たれ、ゾンビの顔面に弾丸が命中した。
銃弾を食らったゾンビは、少し顔をのけ反らせて、空中で止まっては勢いよくフローリングに全身を叩きつけた。
ピクピク体を跳ねらせて、うつ伏せに横たわるゾンビの頭から血が淀みなく流れてくる。
光司はそれを見て、息ができない程に苦しくなる。
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