第2話 緩慢な自殺 ~ 若き児童指導員の死



1978(昭和53)年5月下旬のとある平日 くすのき学園事務室にて


 「園長、ただ今帰りました」

 豊島三郎児童指導員が、稲田健一園長から言付かった用件を済ませ、くすのき学園の事務室に戻ってきた。

 「ご苦労様でした。じゃあ、用件の報告をお願いします」

 業務内容の報告は、あっさりと終った。

 「ところでだな、豊島君・・・。最近、顔色があまりによくないぞ。あんた、前から煙草を吸い過ぎる傾向があるが、もう少し減らせんものかな?」

 

 あくまで一般論だが、煙草と酒というのは、吸い過ぎたり飲みすぎたりするほどに、人体を傷つけるシロモノである。だが、ストレス解消、気分転換、あるいは単に楽しみとして、煙草や酒は、今も多くの人が口にしている。酒はさておき、煙草は近年でこそあちこちの公共の場で喫煙を禁じられ、喫煙者は肩身の狭い思いをしているが、当時はそんなこともなかった。

 さてこの当時、国鉄に対していわゆる「禁煙車」を半数以上連結せよという訴訟、いわゆる「嫌煙権訴訟」が提起された。結果的に原告は訴訟でこそ勝てなかったが、その裁判の直後から、国鉄は新幹線の東京寄りの1両だけに設けていた禁煙車をさらに増やし、在来線の列車にも積極的に設置を始めた。JR化後もしばらくは喫煙可能な車両があったが、現在ではご存じのとおり、喫煙スペース以外での喫煙は固く禁じられてしまい、今日に至っている。

 豊島三郎氏は当時の成人男性としては典型的な人物で、酒も飲めば煙草も吸っていた。それだけが原因でもないだろうが、彼は数年前から体調が思わしくなくなっていた。彼は当時30歳になったばかりで、まだ独身。縁談も、特に入っていない。

 彼は関西のある私立大学を卒業後、京都市内の信用金庫に勤めていたが、5年間の勤務の後、体調を壊し、岡山に戻ってきた。今でいうハローワーク、いわゆる「職安」こと公共職業安定所の紹介を経て、1977年4月からくすのき学園に児童指導員として就職し、住込みで働いていた。温厚な人物で、担当していた中高生男子たちからの受けは、おおむねよかった。ただ、いささか力弱さが見受けられ、理詰めで文句を言ってくる子どもたちに対しての「押し」が、さほど強くなかった。それは能力よりむしろ、体調からくる問題であった。


   2

 「とりあえず、体調が悪いようなら、6月から少し休んでもいいかもしれん。代わりのめどが立つまでは、私もあんたの担当の子らを手伝うから。あと、若い梶川君の負担が少し増えるが、まあ、あんたの出勤できない日は、彼と私である程度回していくよ。6月には賞与もあることだし、もう少し様子を見よう。あと、有休を使っていいから、早めに病院に行って、診てもらいなさい。それから・・・」


 豊島指導員は、またあの話になるなと思った。やっぱり、そうだった。

 若い梶川弘光指導員も煙草を吸うが、彼ほど頻繁に吸うわけでもないし、酒もそう無茶苦茶飲むわけではない。だが、豊島指導員は、煙草を自室でかなり吸っており、休みの日には、必ずと言っていいほど酒を飲んでいる。住込みの居室から出されるごみを見てみると、ウイスキーなどの洋酒が多いようだ。彼は、若い頃は一晩でボトル1本ぐらいは平気で飲んでいたという。ウイスキーだけではない。ビールはもちろん飲むし、日本酒にしても、そういつもというわけではないが、いざ飲むとなれば、かなりの量を飲んでいた。

 聞くと、信金に勤務していた頃から、付合いでよく飲んでいたこと、休みの日には、日ごろのストレスから、飲まずにはいられなかったこと、そんなこともあって、彼はともかく、酒とたばこなしでは生きていけないような精神状況にあった。

 京都から戻ってきて自宅にいるときはまだよかったが、くすのき学園の住込みの居室に入ってからこの方、彼は夜になると、何かの酒を飲んでいた。稲田園長から厳しく申し渡されていたので、事務室や食堂、ましてや子どもたちの部屋では煙草を吸わなかったが、昼間の休憩時間には居室で吸っていたし、休みの日ともなれば、どこかに出かけて朝からでも酒を飲んでいた。当然、酒を飲みながら煙草も吸う。当時の飲み屋は、今以上に煙草を吸う人が多かった。彼だけでなく、周りも喫煙者が多数。そんな環境に身を置いている彼が健康でいられるとすれば、よほど強靭な体の持ち主としか言いようがない。

 彼は残念ながら、そんな強靭な体の持ち主ではなかった。


 6月中旬、有休を利用して近くの病院に行ったら、直ちにS病院という大病院を紹介された。紹介状をもらって早速S病院に行くと、やはり、病気が見つかった。このままでは命に危険が及ぶというレベルの病気だった。即入院とはならなかったが、その月の月末も差し迫ったある日の朝、彼は稲田園長に園長室に呼び出され、休職を提案された。

 「豊島君、やはりこれは、診断書を見るからに、とてもじゃないがここでの勤務に耐えられる状況ではないな。S病院の先生も、あんたは早いうちに入院して、養生せねばならんとおっしゃっているそうではないか。とりあえず、この夏からもう一人、男性の若い児童指導員を雇うことにしたから、あんたは、しっかり休んで、養生しなさい」

 稲田園長の提案に、豊島指導員は、ゆっくりと頷いた。

 「わかりました。それでは、休職願を今から書きます」

 「それなら、事務室に定型の用紙があるから、それにあなたの署名捺印と、必要な日付を書いて、私に提出してください。今から私が用意するから、ここで書くとよかろう」


   3

 豊島指導員は、休職願に所定の事項をボールペンで記入し、出勤簿に押す認印を所定の場所と用紙の上に1つ押した。後者は、いわゆる「捨印」である。有給休暇は、前年のものと合わせて十数日残っていたが、それをまずは消化し、その後、休職に入ることとなった。そのことは、あらかじめ用意されている休職願の用紙の下部の空欄に記しておいた。そうすることで、少しでも必要な金を作っておく必要があるからだ。特に入院という事態になれば、なおのことである。

 用紙を受取った稲田園長は、直ちに、7月からの彼の休職を「許可」した。

 「さて、あなたの部屋だが・・・」

 豊島指導員は、何とも言えない感情に支配されていた。

 稲田園長は、少し間をおいて、話を続けた。

 「なにより、うちの職員宿舎には余裕がないから、いったん、あなたには退去していただきたい。煙草を吸っておるから、その匂いが残っているだろう。それをまずは、除去せねばならん。次に入る人が、あんたのように煙草を吸うとは限らないからね。もっとも、いずれ復帰していただく折は、別の部屋を用意する。何なら、あんたはバイクも自動車も免許を持っておられるから、通勤していただいても構わん。通勤手当は別途出ますから、それでガソリン代を賄ってくれればよろしかろう。とにかく、7月10日までには、部屋を完全に片づけて、きれいにしておいていただきたい。私物については、うちの軽トラがあるから、それを使ってご自身で、実家に一度お持ち帰りください。よろしいな」

 彼は翌週の公休日、最低限のものを残して、自分の私物を自宅に持ち帰った。ゴミのほとんどが、煙草の吸殻と酒瓶、それに酒のつまみの包装などだった。酒瓶以外は、この手の養護施設には必ず設置されている「焼却炉」で焼却した。

 彼がこのくすのき学園に勤務をしたのは、その前日が実質的な「最終日」となった。担当の子どもたちに、別れの挨拶をする機会もないままだった。


   4

 「豊島先生は、病気療養のため、この7月半ばから、お休みになります。そのかわり、7月より、こちらの日高淳先生が、くすのき学園に来られます」

 7月初旬の土曜日の夜、稲田園長は全児童を集会室に集めて、豊島指導員の休職を伝えるとともに、新任の児童指導員を迎え、彼を紹介した。

 豊島指導員は、入院の準備に忙しい日々を送っていた。


 日高淳氏は、関西圏の国立大学の教育学部を卒業して2年目で、当時25歳の男性だった。教員採用試験に合格できず、昨年の春にくすのき学園に応募して来ていたのだが、すでに豊島氏の採用が内定していたため、採用を見送っていたという経緯があった。彼はその後他県の養護施設に勤めていたが、岡山出身なので、時折帰省した折にはくすのき学園に立寄っていた。そんなこともあって、5月頃に稲田園長は彼に手紙を出し、豊島氏の代わりに、もしよければ勤めて欲しいと、秋波を送っていたのである。ちょうど年度末で県外の施設を退職していた日高氏は、それに応えた。

 彼は、酒もそれほどは飲まないし、煙草も吸わない。しかも彼は、バレーボールを長年やってきたスポーツマンでもあった。稲田園長の期待に応え、日高指導員は子どもたちとともに様々な運動に取組んだ。その結果、施設対抗のソフトボール大会では、中学生が全県で準優勝するに至った。それまでは、3位さえも覚束なかったから、これは大成果であった。ソフトボールだけじゃない。マラソンだのドッジボールだの、彼はひたすら、子どもたちとともに体を動かした。

 彼はまた、きれい好きだった。彼が来て10日もすれば、運動場の草は一本たりともなくなった。そこで彼は、子どもたちと日々、ソフトボールにいそしんだ。

 しかし、彼の子どもたちへの対応は、いささか強権的に過ぎていた。部屋の掃除は徹底されたものの、少々のことでも厳しく叱りつけることが多く、子どもたちだけでなく、保母たちからも、また、同僚で同世代の梶川指導員からも、批判的な声が上がることが多かった。学園内のはけ口がなくなったのか、児童の中には、外で非行に走る者も出始めた。

 「了解しました!」

 稲田園長の説得に、日高指導員は、体育会系の部活動で先輩に注意された後輩部員のように、はきはきと答えた。返事は抜群。聞く方も、気持ちがよいほどだ。だが、注意したのも束の間、数日後には元の木阿弥となって、また同じような「事件」が起こっていた。

 「梶川君、どうせオレは、国立大出身とは名ばかりの筋肉馬鹿だからね・・・」

 彼は梶川指導員に、酒の席で自虐的につぶやいたこともある。梶川氏と付合う中で、煙草はともかく、酒は、付合い程度には飲めるようになっていた。


 その翌年3月の年度末、わずか9か月の勤務を終えた彼は、退職願を自ら稲田園長に提出し、くすのき学園を去っていった。その後彼は、再び教員採用試験に挑戦し、1年後、晴れて岡山市内の中学校の教師となった。彼の担当教科は、保健体育であった。彼の赴任先の中学校の男子バレーボール部は、彼の赴任とともに、弱小チームから一気に強豪へと変貌を遂げた。

 彼はその後も煙草は吸わなかったが、酒については、付合い程度には飲むようになっていた。校長まで務めて定年退職した後、いくつかの職場で勤務した後、彼は悠々自適の生活に入っているが、楽しみは、週に何度か、昼間にカラオケ喫茶に行ってビールを飲んで、カラオケを歌うことだという。


   エピローグ

 休職中の豊島三郎指導員は、入院後、煙草を急速に減らし、酒もやめた。だが、病魔は若い彼の身体を確実にむしばんでいた。彼の実家は、岡山市内の電車通りから少し入った先の、とある商店の建物の2階にあった。両親は商売を畳む準備をしていた。

 豊島指導員の弟もまた大学を出て、その頃すでに市役所に勤めていた。すでに結婚し、最初の子どもが生まれたばかりの時期だった。

 豊島氏はその年の12月初旬、ある小春日和の穏やかな日、小康状態になって外出を許可されたため、久々にくすのき学園を訪れた。稲田園長に近況報告をし、他の職員らと話した後、担当の子どもたちとも話した。休職中だが、彼には「賞与」も幾分支払われた。だが、年明け後まもなく、また、彼の体調は悪化していった。

 翌年の3月の彼岸を前に、豊島三郎元児童指導員は、若くしてこの世を去った。


 故 豊島三郎 享年 31(満年齢)。戒名等は略。

 

 稲田園長は、彼を弔問に訪れた。彼の顔は、子どもの前で見せていたときのような、穏やかな好青年のままだった。


 故豊島三郎氏の「死亡退職」手続は、市役所勤めの弟が窓口となって行われた。 

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