第86話 隣は隣
「あれっ? 陣、今日はデスクで食べるの?」
昼休憩になり、パソコンの電源を落としていると隣の織姫がイスごとガラガラと近寄ってきた。机の引き出しから出勤時に買ったパンを出しているのをまじまじと見られている。
「お、おう。外に行くのも面倒だしな。ここなら昼寝もできるし」
「じゃ、じゃあ、私も1階に行ってくる!」
織姫は引き出しから財布を出してパタパタと走って行った。
「あいつ、まだあの財布使ってるのかよ……」
織姫の手にあったのは、付き合っているときに俺がプレゼントした長財布だった。ドイツ製の革のそこそこいいものだったから、手入れさえしておけば長持ちしますよとは言われたけど……。
「一緒に食うつもりか? この時間だと外からの客もいるから混んでるだろうに」
オフィスビルの1階にはワオンの食品スーパーが入っているのだが、自社の人間のみならず、近隣の住民やサラリーマンが昼食を求めてやってくる。
「あっ! あ〜〜〜! なんでもう食べちゃってるの? 待っててくれる流れだったよね?」
織姫がデスクに戻ってきたのは10分後。俺はすでに昼食を終えて自販機で買ったコーヒーを飲んでいる最中だった。
「なんだよ、それ。約束したわけでもあるまいし。自分の時間作りたいからここで食べたんだけど」
頬を膨らませながら織姫は抗議してくるが、いわれる筋合いのないことじゃないか?
「も、もう! いいもん。陣がコーヒー飲んでる隣でご飯食べるから!」
織姫はマイバックからサンドイッチ、サラダとヨーグルトを出してデスクの上に並べると、鞄からマイフォークと水筒を出して手を合わせた。
「いただきます」
サンドイッチの封を切り、パクリと口に入れた瞬間、綻ぶ表情。なるほど、織姫の好きなたまごサンドだったのか。
「み、見られてるのは、ちょっとだけ恥ずかしいかも」
俺がなんとなく見ていたのに気づいた織姫が、さっと顔を背けて呟いた。
「ああ、悪い。昼寝するからゆっくり食べてくれ」
俺はデスクに突っ伏して夢の世界へ……、「まだ寝ないでよ」いかせてもらえないらしい。
「たまには、おしゃべりしようよ。せっかく同じ会社、隣のデスクになれたんだから。彼女がいたって、多少のコミュニケーションは必要だと思うよ?」
「別に避けてる訳じゃねぇぞ? 最近、資料作りで寝不足気味なんだわ。誓って他意はないから。お前も俺を気にせずにゆっくり食べろよ」
おとなしく俺の話を聞いていた織姫からジト目を向けられている。
「そんなこと言われたら私、何も言えないじゃない」
織姫は、それっきり話しかけてはこなくなった……、食べ終わるまでは。
「ね、ねぇ陣! 明日もデスクで食べるよね?」
夢の世界が突如大地震に見舞われたと思いきや、休憩時間残り10分のところで織姫が俺のイスをギコギコと揺すってきていた。
「ふぁ? 明日? ああっ、明日は本部で打ち合わせだからここでは食わねぇな」
「じゃあさ! 会社にいる日はここで食べるよね? 私、お弁当作ってくるね!」
キラキラと無駄に目を輝かせた織姫は、胸を張りながら高々と宣言をした。
「あ〜、うん。頑張って」
あと5分、あと5分でセットしたアラームが鳴る。それまでは頼むからそっとしておいてくれ。
そんな願いは、織姫によってぶち壊される。
「陣の分も作ってくるから! 朝はコンビニ寄らずに会社に直行———」
「いや、さすがにそれはな? 紫穂里に申し訳ないし。多分、このこと話したら"私が作る"って言い出しそうだ」
紫穂里のことだ。晩ご飯と一緒に弁当を用意してくれるだろう。それはそれでとても魅力的な話だけど、紫穂里にあまり負担を掛けたくないからな。
「むぅ! 相変わらず固いわね。男の子が固くていいのは、むぐっ、ぐっ! っぷはぁ〜! って何するんですか!」
暴走中の織姫を反対隣の酒井さんが口封じをした。
「こらこらっ、市場開発部のアイドルが昼間っから何を口走ろうとしてるの? その台詞はせめてっ! ベッドの上でにしなさい」
その止め方もどうかと思うが……、それにしても、年齢と共に羞恥心というものは薄れていくのだと痛感した。昔はきっと同性との間だけでオープンになっていたことが、年齢と共に性別の境界線が薄くなっていくのだろう。
「ベッドまで陣が付き合ってくれるなら、考えますけど! いまの陣じゃ———」
今度は酒井さんの手を煩わすこともなく、俺が手刀を脳天に落とした。
「誤解されそうな言葉使いするな。ベッドに付き合うわけないだろう」
ため息混じりで否定すると、ジト目を向けられる。
「わかってる! い・ま・は・ね! 将来なんて誰にもわからないってこと、実体験でわかってるから」
その実体験はマイナスな意味だと思うが、胸を張って言えるお前のメンタルがすごいよ。それに、ブラウス姿で胸を張るのはやめな? インナーは着てるようだが、その下のブラの形が薄ら浮かび上がってるからな? そういうとこ、男子は見逃さないぞ。
織姫のバカ騒ぎに付き合わされていると、酒井さんが俺と織姫を交互に見渡して、アゴに手を置きう〜ん? と考え込んでいる。
「2人って幼馴染で元カップル?」
織姫の台詞を聞いていれば、そこにたどり着くのは簡単だったのだろう。でも、俺たち以外にも同僚が残っているオフィスで言葉にするのはやめて欲しい。さっきまで好奇な眼差しを向けられていたのに、今は殺意の眼差しを向けらている。
勘弁してくれよ。
「えへへへ。実は……、っあ。いや、……そこはあまり触れないでもらっていいですか?」
俺をチラッと見た織姫が、ハッとした表情で言葉を濁した。まあ、お前からすれば明るく話せる内容じゃないよな。
俺にとっては、もう笑い話に過ぎないけど。いまの紫穂里との幸せがあるから……もう、笑って話せる話なんだよ。いつまでも、引きずってても仕方ないだろ?
「あっ! 了解。私こそこんなところでごめんね。ん〜? 京極ちゃん。今日飲みに行こうか? おね〜さんと語らおうよ」
酒井さんは織姫の肩に手を回し、お猪口をクイッと煽る仕草を見せると、織姫は目をぱちくりしながら酒井さんを見つめていたが、やがて笑顔になり「はい」とうれしそうに肯いた。
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