追記③ 妖精の君へ(ヘンリックス視点)
「あの、ハンカチが落ちましたよ?」
鈴を転がすような愛らしい声が聞こえて、ふと王宮の回廊の途中で足を止めた。
世の中にはこれほど心地よい声を持つ者がいるのかと、感嘆すらした。
自分のだみ声とは似ても似つかない。
もう少し聞いていたいと思って辺りを見回せば、自分に向かってくる妖精を見た。
金色のまっすぐな髪を揺らして、金と翠の不思議な色合いを讃えた瞳をまっすぐに向けてくる。小柄な体躯は無骨な己が触れば、砕いてしまいそうに脆い。子供の頃に読んだ絵本の妖精のようだ。
なんだ、現実なのかとヘンリックスは自分の頭を疑った。
王宮で白昼夢でも見ているのだろうか。
可憐な妖精が、牛と称される自分に話しかけてくるだなんて妄想にしても度が過ぎている。
「これ、騎士さまのものでしょう?」
彼女が差し出した手には見慣れた家紋が刺繍された白いハンカチが握られていた。
母がせめて身だしなみくらいはきちんとしろと持たせてくれたものだ。
外見で怖がられるヘンリックスにはもちろん恋人も嫁の来てもないが、まさか母の願いが具現化したのだろうか。
「あ、ああ。すまない…」
茫然としながらハンカチを受け取りつつ謝意を述べる。あまりに存在が現実離れしているため直視できない。やや視線を反らし気味で告げるが、そもそも声がきちんと出ているのかすら疑わしい。だが、妖精が儚げにほほ笑んだので、聞こえているようだ。
「あの…こんな姿ですけど、呪いとかはないので。気にしないでくださいね」
「呪い? まさか妖精は神聖なものだ。真逆の存在だろう」
「妖精?」
お互いに首を傾げ合うさまは、どこか浮世離れしていた。足元がおぼつかない心地になる。だが、突然妖精は破顔した。思わず視線を向けてしまう。
「ふふっ、もう落とさないように気を付けてくださいね」
花が綻ぶように笑った彼女の笑顔を、胸にしっかりと焼き付けたのは言うまでもない。
それから時々妖精の姿を見つけることができた。
彼女は一人でいるか、白銅隊の面々と一緒のことが多い。自分以外にも見えている者がいるらしいので、現実のようだと認識できた。
だが見かけてもとても声はかけられない。気の利いた会話などできないし、そもそもなんと言って声をかけたらいいかわからないのだ。そのため未だに名前すら聞けていない。妖精の個体に名前があるのかもわからないのだが。
だがその日は遠目からでもはっきりとわかるくらいに、妖精の顔色が悪かった。しかも彼女一人で歩いている。
ふらりと揺れた体を見て、慌てて駆け寄った。
「おい、どうした」
「ちょっと…貧血で」
腕の中に倒れ込んできた妖精は青い顔をしている。そのまま意識を失ったようだ。抱き上げてあまりの軽さに、やはり人間とは違うのだと実感する。だが、温かさは本物だ。慌てて王宮の医務室へと運び事情を説明すると、初老の御典医は眼をぱちくりと瞬いた。
「は? 妖精の治療の仕方など知りませんが。そもそも妖精?」
「どう見てもこんな可憐な存在は妖精だ。はやくなんとかしてくれ」
ここから妖精に恋した男などと騒がれることになるのだが、この時のヘンリックスはそれどころではない。御典医を絞め殺さんばかりの勢いで圧力をかけている。
「寝かせておくのが一番です」
御典医は冷や汗をかきながら、なんとか言葉を発したのだった。
それからは見かけるたびに体調を気遣うという会話の糸口が見つかったため、積極的に彼女に話かけた。
会えない日は用もないのに、王宮を彷徨ったこともある。
姿を探しているだけで幸せで、会えた日は有頂天になったほどだ。妖精と恋人になるなどおこがましい。時折会話ができるだけで十分だ。
それなのに、そんなささやかな幸福はあっさりと終わりを告げた。
赤銅隊の詰所に向かう途中の回廊で、はっとした。
遠くから一目でわかる黒髪はこの国では珍しい色合いだ。青銅隊の平服時の軽装に身を包んだ長身の男が颯爽と歩いてきた。
見間違えるはずもない。ジルクリフ=ベルツ=ファーレンだ。
自分よりも3つ下の25歳だが、青銅隊の隊長についている。男にしては綺麗な顔立ちをしているが、性格は非常に好戦的だ。だがそれを涼しい顔をして隠しているひねくれた性格の持ち主でもある。
赤銅隊と青銅隊は縄張り争いが良く起こる。職務上仕方のないことだが、どちらも騎士という職業に誇りを持っているため、一歩も譲ることがない。
なので、馬術大会の近い今の時期は衝突することも多い。だが、今は別の意味でヘンリックスは男の名前を叫ぶ。
「ジルクリフ=ベルツ=ファーレンっつ!!」
地獄の底から響いていると勘違いしそうなほど、地を這う重低音が回廊に響き渡った。遠くを歩いていた女官がびくんと大きく肩を揺らしているのがわかる。
静かな王宮の朝が簡単に雰囲気を変える。
どすどすと廊下を踏みしめて大股で近づいて気迫る形相で、ジルクリフの前に立ちはだかった。
相手はそれなりの身長もあるが、自分の方がさらに大きい。見下ろされることに屈辱を感じるのか、ジルクリフの顔が歪む。
「朝から、いったい何の用だ?」
眉根を寄せる姿も、絵になる男だ。
美貌の騎士隊長などと騒がれていることも知っている。
だが、今はそれどころではない。
先日聞いた『隊長の奥さま』という言葉だけが頭の中をぐるぐると回っている。
「貴様、貴様がーーーーっ」
至近距離から、鼓膜を突き破るような大音声を聞いてジルクリフが盛大に顔をしかめる。
「おい、とにかく落ち着いたらどうだ…」
「貴様が、俺の、俺の―――っ、妖精さんを奪ったんだろうが!!!!!」
「身に覚えはない、言いがかりだな」
「しらばっくれるなっーーー! だいたい、お前はいつもいつもいつもーーーっ!!!」
隊長職に就いたのはヘンリックスの方が早かった。だが、最年少で隊長職になったジルクリフは王宮中の話題をかっさらった。
何かと比べられて、自分のいかつい容姿に悩んだこともある。
そもそも顔も整っていて、剣も馬術の腕もあるなど恵まれすぎだろう。
それなのに、自分の心の支えまで奪っていくとはどういうことだ。
言葉は胸の内で渦巻くのに、一言も発することができない。
ただ、想いは涙になって次から次へと溢れてくる。
「た、隊長、どうしたんですか?」
「え、隊長が泣いてる?!」
「おおい、ちょっと、大変だーー誰か、誰か!!?」
騒ぎを聞きつけて、赤銅隊の制服に身を包んだ部下たちが次から次へと現れては、事態を大きくしていく。
そういえば赤銅隊の控室に近かった、とぼんやりと考える。
言葉の出ない代わりに、部下がジルクリフをどんどん攻めていく。だがすぐにしりすぼみになった。
「俺たちの隊長になんてことしてくれるんだ!!」
「そうだ、そうだ!…というか、どういう状況??」
「隊長が泣いているとこ、初めて見たわ」
「俺も…」
「俺だって…」
やってきた部下たちは状況がわからず、一応ジルクリフを批難するも、戸惑い顔を見合わせ始めた。
結局、10人ほどが自分を囲って、一斉にジルクリフに視線を向ける。
「ええと、結局、何があったんですか??」
お前たち、もっと他に攻める言葉はなかったのか、とヘンリックスは少し落胆したのだった。
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