2章 / 雪那VI

 仕事は順調。


 残業もなく―――正確には、残業を断って。

 今日も定時に上がり、法定速度ギリギリまでアクセルを踏み込んで、誰も居ない家に帰るのだ。


 マンションのエントランスで、雪那は自宅のインターフォンを押した。

 鈍い電子音の後、ぼうっとした表情で待ち続ける。返事はなく、もう一度押す。同じ電子音はまた無視された。


「…………」


 奥歯を噛み締めて、バッグから鍵を取り出す。

 捻れば簡単に扉は開いた。

 宅配ボックスの中身と郵便受けを確認する素振りも見せず、そのままエレベーターに乗り込む。程なく部屋の前に着くと、今度はこちら側のインターフォンを押す。共通玄関のものとは違い、少し高い音が鳴った。


―――ぴんぽん。


―――ぴんぽん。


 同じく、二度鳴らす。

 が、返事などあるはずもなく、雪那は顔を歪めた。唇を噛んで眉を顰めたその表情は、ここ最近では当たり前になりつつあった。


「…………」


 苦々しい顔を扉に向けたまま、雪那はその場で立ち尽くした。

 思い出したかのようにインターフォンを鳴らしては、再び扉を睨み付ける。時折悲しそうに涙を流すときもあった。それを何度か繰り返している内に、辺りはだんだんと薄暗くなっていった。


 鍵を回して、扉を開く。

 真っ暗な部屋はまだ慣れそうになかった。いつもなら弟が夕食の準備を始めていて、薄青のエプロンを身に着けて「おかえり」と言ってくれるのが日常だったのに。ぱたぱたとスリッパを鳴らして子犬のように駆け寄る様は、どんな疲れも吹き飛ばしてくれた。そんな世界で一番大切な弟は、今はイカれた恋人の元にいる。


「……ただいま、明楽」


 ぽつりと呟いた言葉は、しんとした部屋に消えていった。

 電気を付ける気にはなれず、そのままソファに身を沈めた。一気に体の力が抜けていく。腹は空いていたが、冷蔵庫を覗くのも面倒だ。明楽が部屋を出て行ってからこれまで、食事はマトモに取っていなかった。最低限口にはするものの、結局は吐いてしまうのだ。


 はぁ、と息を深く吐くと、一層瞼が重くなっていく。

 このまま寝てしまおうかと目を瞑った。メイクも落としてないし、シャワーも浴びてない。明日も出勤なのだから、このままと言うわけにはいかない。が、体が言う事を聞いてくれなかった。

 いつものように可愛らしく頬を膨らませた少年が注意してくれることもなく、ただただ時間だけが過ぎていく。時計の短針が一つ進んだところで、重々しく腰を上げる。体中が軋んでいるようだった。

 重い足取りでバスルームに向かうと、ワイシャツとタイトスカートを脱ぎ捨てる。放り投げたとて注意する愛らしい声は聞こえてこない。それがまた苛立ちを募らせていった。


 欠片も躊躇わずに冷水を頭から被った。

 初夏とは言えど肌を刺す冷たさに顔を顰める。あれ程纏わり付いていた眠気が一気に吹き飛ぶが、鉛のような倦怠感は拭い切れそうにない。それもそうか、と自虐的に笑った。睡眠も食事も滅茶苦茶で、その上明楽が傍にいないのだ。心も体もボロボロだった。


「……ふふ、はははっ」


 自業自得かとも思うが、それだけではないだろう。

 確かに自分で彼を追い詰めたのは認める。

 彼の意思を踏み躙って、自分の欲望を優先した。脅しまでして縛り付けようとした。そうでもしなければまた何処かへ行ってしまいそうだったから―――なんて言い訳を頭の中で浮かべたけれど、だから何なんだと笑えてしまう。


(どいつもこいつもウザったい……)


 原因は自分だけではない。むしろ、全てがあの女のせいとも言えた。

 黒川 菖蒲が「ああ」したのも、自分がここまで追い込まれているのも、あの女が原因なのだ。

 何食わぬ顔で少年の隣に立つアイツ。自分がどんな人間なのかを隠して、何よりも愛しい弟を誑かす腹黒い女。最近は化けの皮が剥がれかけているようだが、明楽はそれでも彼女を信じようとしている。馬鹿な子だ、と笑った。


 と、曇りガラスの向こう。

 脱ぎ捨てたシャツの上で、スマートフォンからポップな音が流れていた。

 反射的にドアを開けて、濡れたままの手で通話へスライドさせる。スピーカーから聞こえてきたのは、ムカつくくらいに暢気な声だった。


『やーユキナ、元気かなー?』


 額がヒクつくのが分かった。

 空気を読め、と言いたいが、そもそもそんな事が出来ないのである。

 他人の通夜でも平気で笑って焼香するようなタイプなのだ。それ以前の問題を抱える女だった。


「……なんの用だ、里桜」

『連絡あったよ。条件を呑むってさ。出来る限り早く弟クンを引き渡すって』

「信用できるのか?あの女がそんなこと許すと思わないけどな」

『なんかね、弟クンのせいでお嬢サマがイカれ過ぎちゃってるって言ってたよ。だから手遅れになる前に、引き離したいんだとさ』


 話を聞けば、明楽が桐生の家に囲われてから、和葉はますますおかしくなっているようだった。

 明楽と過ごすために部屋から一歩も出ようとはしない。仕事のためとはいえ、彼に近づこうとする使用人に対して過度な暴力を振るう。もうすでに何人も病院送りになっていた。

 おかげで使用人たちの不満が積もりに積もっていて、クーデターでも起きそうな雰囲だとか。手遅れになる前に明楽を引き離そうという結論になったらしいが、実行出来るかどうかは別の話だろう。


「まぁいいだろう。こっちとしては悪い話じゃない」

『そうだろうけどさ。なんだか話が美味いよね』

「あいつらが何を企んでいようが知ったことか」

『ハメられても知らないよ……って言いたいけど、向こうも結構参ってるみたいだね。監視カメラを覗いてたんだけど中々面白かったよ』


 また覗きか、と鼻で笑う。

 こういう技術だけは利用価値があると心底思った。そうでなければこんな狂った女に付き合うメリットはない。


「で、いつ引き渡すんだ?」

『それは連絡待ち。ま、連絡が出来ればなんだけど』

「……はぁ?」

『なんか結構ヤバそうでね。観に来るかい?映画でもこんな修羅場はそうそう無いと思うよ』


 そう言って、里桜はけらけらと可笑しそうに笑った。

 その笑い声ですら腹立たしく、反射的に電話を切りそうになる。既の所で留まった自分を褒めてやりたかった。


「はっきり言え。回りくどいぞ」

『カリカリしてるなぁ。あの椎名って子がさ、弟クンに色々吹き込んでるところを見つかっちゃってるんだよねー』

「……なんだそれは。馬鹿過ぎる」

『で、なんか今部屋で修羅場ってる。凄いよ、あんな真っ青な顔見たことないね』

「そうか……そいつはもうダメだな。他に使えそうな奴はいないのか?」

『居るには居るけど……』


 歯切れの悪い返答に、苛立たしげに雪那が頭を掻く。

 これ以上のトラブルはゴメンだ。予定を崩されるのも、せっかく見えた光明が閉じていくのも我慢ならない。自分自身何をしてしまうかさえ分からないのだ。


「けど?」

『椎名サンより使えるかは疑問だね。下手に警戒されたら余計に面倒だよ』

「それならそれで構わん。実力行使すればいい。そもそも私は最初っから―――」

『だからダメだってば。桐生ってキミが思っているより面倒なんだよ、ホント』


 里桜がこう評価するのは珍しいことだった。

 大抵の相手は指先一つでどうとでも出来る、と豪語する彼女が、桐生 和葉を相手にするときは慎重になる。確かに後ろ暗い噂はよく聞くけれど、そんなに大層なものなのかと疑問に思った。


 はぁ、と息を吐いて、雪那は髪をかき上げた。

 濡れた毛先から水滴が滴り落ちる。スマートフォンはびしょ濡れだったが、気にも留めなかった。

 こんな問答も、ぐだぐだと駄弁るものまるで意味のないことだ。欲しいのは最愛の弟だけで、過程などどうでも良い。


「何でもいいから、さっさとしてくれ。いつまで掛かかるんだ」

『分かってるよ……ま、もう少しだね』

「……」


 ぎり、と奥歯を噛み締める。

 我慢に我慢を重ねて、もう限界は近い。病的な行動はその兆候だった。


『また連絡するよ。今度は吉報にするからさ』

「……頼んだぞ」


 返事を聞く前に電話を切った。

 頭が沸騰しそうで、目の前が真っ赤に染まっている。激情もここまで来ると逆に冷め切るらしい。これ以上ないくらいに頭に来ているのに、体はぴくりとも動かなかった。


「……あのクソガキが」


 吐き捨てるようにそう呟いて、雪那はゆっくりと立ち上がる。

 もう少しだ、と自分に言い聞かせて、もう一度シャワーを浴びる。変わらず冷水を頭から。少しは頭が冷えるかと思ったが、全くそんな事はなかった。


 しばらくそのまま、シャワーを被り続けた。

 再び電話が掛かってきたのは、それから一時間後のことだった。

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