2章 / 和葉XVII
肌を刺すような冷たいシャワーでも、火照った体は一向に静まる気配がなかった。
お仕置きの後はいつもこうだった。
沸き上がるような昂ぶりは自分ではどうしようもない。せめてもとばかりに自分で慰めても、結局気持ちの悪い不満が腹の底に溜まっていくだけ。気が晴れるなんて事は全くなくて、ストレスとフラストレーションが私を蝕み続けていた。
手早く髪を乾かして、お気に入りのヘアオイルにボディクリームを塗り込む。
いくら急いでいるとはいえ、手を抜いた体で明楽くんの隣に居ることは許されないのだ。ほんの僅かな隙ですら見逃してはいけないのだと、何時も自分に言い聞かせている。その隙のせいで彼を失うことになったら死んでも死にきれないからだ。
(そう言えば、今日の晩御飯って何がいいんでしょう……)
ふと思う。
ここ最近、明楽くんはマトモな食事を口にしていないようだった。
本人は食べる気はあるらしいのだけれど、胃がそれを受け付けてくれないんだ、と言っていた。ただでさえほっそりとした体なのだから、食べやすくて栄養のあるものを取って欲しい。車の中で撫で続けていた彼の腰を思い出して、私は不安になった。
うーむ、と考え込む間も支度をする手は止めない。
一秒でも早く明楽くんの傍に行きたい、という気持ちが大半を占めているが、目を離している時間が堪らなく恐ろしかったりもする。ふとした瞬間にいなくなってしまいそうで、実際にどこぞのクソ女に攫われたりとか姉に暴行されていたりとかやられ放題だったのだ。
自分の家に居たとしても、さっきの……名前ももう思い出せない使用人に誑かされたりするのだから、気が気ではない。徹底的に管理してもまだ心配は尽きないくらいなのだから、手間のかかる恋人だとつくづく思う。そこもまた良いんだけど、ね。
なんて考えている内に、髪も乾いてきた。
身に着けたワンピースをくんくんと嗅いでみる。うん、変な匂いはしない。一応念のためにと、本当に薄く香る程度に香水を付けておく。彼はあまり露骨なコロンや香水の匂いは好きではないのだ。
ドライヤーやバスタオルを片付ける時間すら惜しくて、心の中で「ごめんなさい」と謝って放置しておく。また汗を掻くのは元も子もないので、出来る限りの早足程度で自室へと向かった。
別館のシャワー室を使ったのは失敗だったかな、と反省。
と言っても、自室の―――明楽くんの居る部屋のシャワーを使うわけにはいかなかったのだ。学校から帰ってくる程度ならまだいいかな、とは思うけれど、流石に血の付いた頬や手を見せるのはあり得ないだろう。血の匂いなんかも同様だ。
彼はそういったことには敏感だった。
他人では気付けないような僅かな様子の変化ですら、目敏く見つけてしまう。
別に何があったのかと訊くことはないが、何気なく気遣ったような行動にでたりもする。それがまた可愛らしいのだが。
とにかく、彼に隠し事をするのは中々難しいのだ。言わないだけで気付いている可能性は大いにあるのだから、なるべく彼の居ないところで処理をしなければならなかった。
数分歩いて、ようやく自室へと辿り着いた。
たかが数分が何時間も掛かったように感じた。会いたいと思ってからの道のりがやけに長く、コレも愛の深さゆえなのかな、と頬が緩んでしまう。明楽くんも同じように思ってくれているだろうか。
ノックはせずに、そのままの勢いで扉を開けた。
私たちの部屋は二人で暮らすには十分過ぎるくらいの広さがある。お母様の趣味とは違い、どこかの外国のリゾートのような部屋。リビングに寝室ひとつ、書斎や二人で料理するには広過ぎるくらいのダイニングキッチンがある上に、サービスルームや秘密の部屋まで完備してあるのだ。
目もくれずに寝室へ直行。
彼がお昼寝をしているのはカメラで確認済みである。
「明楽くんは……あぁ、やっぱり」
カーテンも閉めずに、寝室のベッドで寝息を立てていた。
壁面のほとんどをガラス張りにしているせいで、夕方は木々の隙間から強い西日が差してしまう。暗いところがあまり好きではないという彼は、どれだけ明るかろうが構わず眠れるのだ。せっかく何時間も時間をかけて素敵なカーテンを選んだというのに、と文句のひとつも言いたくはなるけれど。
私が部屋に入ってきたのも気付かないほど、彼は深い眠りに落ちているようだった。
小柄な彼がキングベッドの真ん中に横たわっていると、余計に小さく見えた。夕日に照らされる髪を梳くように撫でる。
真っ白な額の下、長い睫毛がふるふると震えていた。夢を見ているのかもしれない。口元が小さく動いては、寝言のように小さく呻いた。
(あぁもう……やっぱり可愛いなぁ)
同年代と比べると際立って幼く見える顔立ちに華奢な体。
今は閉じている瞳は大きく、薄い唇は誘うようにぷるぷるしている。これで性格に難があればここまで夢中にはならないだろうが、彼は病的なくらいに人が良い。思いつく限りの「良い人」を詰め込んで形にしたような少年なのだ。
そんな彼が恋人なのは鼻が高いが、やはり心配にはなってしまう。明楽くんが私に向ける愛情も優しさも、他の誰かにも同じように向いてしまうのではないかと不安になるのは、仕方ないだろう。
私は極力足音を立てないように、と靴を脱いだ。
同じく音を立てないよう、カーテンをそっと閉めていく。マジックミラーになっているため外からは見えないようにはなっているが、こういうのは気分の問題なのだ。
明るい内からするのは流石の私でも恥ずかしいし、見られているような感覚はもっと恥ずかしい。そんな趣味はないのだ、私は。
角部屋にある寝室の二辺を占める窓を、しっかりと厚手のカーテンで覆い隠す。
西日が遮られると、部屋は一気に暗くなった。雰囲気がガラリと変わる。と同時に、シャワーで誤魔化した火照りが再び熱を持ち始めた。
そっとベッドに手をかけた。
沈むマットレスがぐにゃりと形を変える。シーツに広がる皺に心臓がバクバクと跳ね出した。
「あきらくん……」
仰向けに眠る彼の顔の横に手を着く。
二人で眠れるようにと用意した長い枕が、マットレスよりも深く沈んだ。
「ん、ぅ……」
流石に起きちゃうか、と押し倒す姿勢のまま、私はくすりと笑ってしまった。
起こすつもりだったくせに。眠ったままの彼を眺める気なんかさらさらなかった。言い訳は色々と用意はしていたけれど、どれも建前にすらならないようなものばかりだ。
今寝過ぎると夜眠れなくなる、とか。もうすぐ夕食だ、とか。酷いものだとお話しませんか、とかも。
なんだそれ、と自分でも可笑しくて仕方がない。嘘吐け、桐生 和葉。結局どんな言葉を並べたって、やりたいだけなんだろう。この変態め。
「あきらくん?」
変態上等だ。
この世で一番愛している男の子が、傷付いた心と体を引き摺ったまま自分の部屋で無防備に寝ているのだ。
慰めてあげたいと思うのは当然だし、据え膳を我慢するほど淑女でもない。まして思春期真っ只中なのだから、どこかの大怪盗みたいに服を脱いで飛び掛らないだけマシだろう。
なんて自問自答していると、明楽くんの瞼がゆっくりと開き始めた。
寝惚けた目も涎の垂れた口元も可愛らしくて仕方がない。ごくりと生唾を飲み込んだ私の体の下で、彼が私の名前を呼んだ。
なあに?と応えてから、私は彼の唇に舌を伸ばした。
♪
何も考えたくない、と現実逃避をして、僕は目の前のカップに口をつけた。
一般庶民の僕には分からないけれど、きっと高い紅茶なのだろう。
正直紅茶の良し悪しなんて分からない。「美味しいです」と言ってはみたものの、味わう暇もなくごくりと飲み込んでしまった。
「使用人の私が口を出すことではないのですが……」
会話もなく、無言の時間が少し流れたところで。
気まずそうにしていた僕を気遣ってくれたのか、紅茶を淹れてくれた女性が話しかけてきた。
初めて見る使用人の人で、普段は真琴さんが対応してくれるのがほとんどだったからか、僕はやけに緊張していた。なにせ挨拶をしてから一言も会話がないのだ。なんて話しかけていいのかも分からなかったし、ソファの傍に立ったまま身動ぎもしない彼女を怖いとすら思っていた矢先のことだった。
「お嬢様のこと、どう思われてますか」
「……和葉さんのことですか?」
彼女はこくりと頷いた。
瀬戸 文香、と名乗った彼女は、真っ直ぐと僕を見つめたまま答えを待っていた。
「どうって……恋人ですし、好きですよ」
「……そうですか」
「やっぱり、良く思ってない人とかいるんですか?」
「いえ、そういう事ではないのですが……」
和葉さんと僕は住む世界が違う。
彼女の家に来て、それを身を以って知ることになった。
なんであんな普通の学校に通っているんだろうと思うくらい、彼女の生きる世界は桁が違う。何の取り柄もない、マトモでもない僕とは笑ってしまうくらいに釣り合いが取れていないのだ。そのことを影で非難されていることは―――いくら彼女がそういった噂話を遠ざけようとしてくれていたとしても、隠し通せるようなものではなかった。
瀬戸さんの話は、そういった類のものだと思った。
和葉さんに心酔している人は使用人さんたちの中でも多いと聞く。真琴さんをはじめ、彼女を慕っている人はかなり多いのだ。どんな面を持っていたとしても。
嫌な話になりそうだな、と俯いた僕に、瀬戸さんは意外な言葉をかけた。
「お嬢様のこと、嫌わないで頂けませんか」
え、と顔を上げると、さっきまでの冷たそうな雰囲気は消え去っていた。
「柊木様のことを、お嬢様は本気で愛していらっしゃいます。それは私どもにも伝わりますし、私もお二人が結ばれることを望んでおります」
「はあ……そう、なんですか」
意外というよりは、疑問に近かった。
好きだと言っているのに「嫌わないで欲しい」だなんて、意味が分からなかったのだ。間の抜けた返事を返してしまったけれど、それでも彼女は真剣な面持ちで言葉を続けた。
「柊木様は、気付いていますよね。お嬢様はご友人や身内にはお優しい方ですが、その反面敵対する方々には非情に厳しい態度を取られます」
「……そうですね。それは、よく分かってます」
「お嬢様にとっては柊木様が全てと言っても過言ではありません。貴方のためなら、きっとお嬢様はどんな事でもされるでしょう。文字通り、どんな事でも」
「…………」
強調する言葉の意味は、僕でもよく理解していた。
和葉さんが面と向かって言った言葉だからだ。
「ですが、ひとつだけご理解頂きたいのです。お嬢様は柊木様を本当に愛しておられるのだと。何があったとしても、それだけは変わらないのだと心に留められますよう、お願いいたします」
「……分かってます」
「今は色々と大変だとは思いますが、私たちも出来る限りのサポートはいたしますので。貴方にはお嬢様以外にも味方がいるのだと、お忘れなきよう」
ふふ、と瀬戸さんが笑う。
初めて見る彼女の笑顔は、とても優しいものだった。本当に心の底から僕と和葉さんを心配してくれているんだ、と思えるような。それがとても嬉しくて、気付けば僕も釣られて微笑み返していた。
「……やっと笑って頂けました」
「え?」
「以前お見かけした際には、もっと笑顔でしたから。本日はずっと思い詰めたような表情でしたので、心配いたしました」
「色々あったから……でも、なんだかちょっと安心しました。ここに来たときはどうなっちゃうんだろうって思ってたんですけど。そう言ってもらえるのは、本当に嬉しいです」
瀬戸さんがまた微笑む。
それからの時間は、久しぶりに落ち着けるものだった。
他愛のない会話も楽しめたし、二杯目の紅茶はびっくりするくらいに美味しく感じた。長い間会話を楽しんで、瀬戸さんが「少し眠られますか」と言うまでの数時間はあっという間だった。自分では分からなかったが、だいぶ眠気を感じていたらしい。確かに最近はマトモに眠れていなかったのだ。「眠る」ということ自体、酷く難しく感じているくらいだったから。
彼女の言う通り、僕はお昼寝をすることにした。
これもすごく久しぶりだ。大きなベッドは体が沈み込んでしまうくらい柔らかくて、枕に頭を乗せると一気に体の力が抜けていく。後から知ったことだけど、部屋にはリラックス効果のあるアロマが焚いてあったらしい。そんなものがなくても、僕はきっと死んだように眠ってしまっただろうけど。
体を横たえてからの記憶はすぐになくなった。
それくらい疲れていたのだろう、と思うと恐ろしくなった。自分では「ちょっと体が重いな」程度にしか感じていなかったし、瀬戸さんの気遣いがなければ気付くこともなかっただろう。
ありがとう、と感謝をしながら、僕は眠りについた。
薄れいく意識の中で、「またあとでお礼を言わなきゃ」と考えていた。これから少しの間お世話になるのだから、また顔を合わせる機会はいくらでもあるはずだ。
と、少なくともこのときまでは、そう思っていた。
不安だらけの現状が少しでも和らげてくれた彼女には、感謝してもしきれないぐらいだったのだ。
―――やがて、ぎしりと軋んだ音がして。
寝起きのぼんやりとした頭がはっきりする頃には、死にたくなるような気分になるなんて。
このときはそんなこと、思いもしなかったのだ。
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