2章 / 和葉XVI

「退学届け、ですか?」


 手渡された封筒をまじまじと見つめながら、美弥は不思議そうに言った。


「え、先輩学校辞めるんですか?」

「私のじゃありませんよ。明楽くんのです」


 さも当たり前のように言ってのける和葉。

 半信半疑のまま、美弥は手渡された茶封筒の封を開いた。


「……ホントに退学届けだ。私初めて見ましたよ、こんなの」


 中には一枚の紙が入っているだけで、簡単に「一身上の都合により、退学いたします」と書いてあった。本人と保護者の氏名に印鑑まで押してある。紛うことなき退学届けであった。


 ふむ、と美弥は頷く。

 生徒会長用デスクの前でニコニコと笑う和葉を見て、単純な疑問を投げかけた。


「っていうか、これ私に渡されても困るんですけど……本人が先生に渡すのが普通なんじゃないんですか?」

「明楽くんは通学できる状態じゃありませんし、保護者の姉はもうすぐ警察のお世話になるかもしれないって状況ですから。一番近しい私が持ってきました」

「ええー……何があったんですか、もう」


 まぁ知ってますけど、とは言わない。

 表情ひとつ変えずに嘘を吐いた和葉は大したものだと思うが、何も知らないフリをしながら心の中で舌を出す自分も中々だ、と笑ってしまう。

 半ば拉致に近い形で明楽を連れ去り、さらには勝手に退学届けまで出しているのだ。可哀想な明楽先輩、と同情したくもなるが、それも自業自得みたいなものである。と言うか、こんな女と付き合ってるのに隙がありすぎる方が悪い。


「明楽先輩が帰ってこないと、私ずっと会長代理のまんまなんですけど」

「内申も上がるし、実質学生の中では最高権力者ですよ。良い事ばかりじゃないですか」

「嬉しくないです。忙しくて放課後遊びにもいけないんですから」

「それは残念ですけど、明楽くんはもう学校には来れませんから諦めてください」

「って言うか、そもそも先輩が来れない理由って病気とかですか?一身上の都合じゃ分かりませんよ」

「病気でも怪我でも何でもいいです。……あぁ、そうそう。私もしばらく休学しますから」

「へ、先輩もですか?」

「私も家の跡継ぎですから、そろそろ仕事を覚えなくてはいけないんですよ」


 へえ、と美弥は興味なさそうに相槌を打った。

 あまりにも適当な言い訳に嫌悪感すら覚えるが、それを指摘したところで何にもならないのだ。適当なそれには、適当に受け流すのが一番である。と言うより、単純に軽く見られているようで腹が立った。


「……ま、何でもいいですけどー」

「ならいいじゃないですか……っと、すみません。私もそろそろ行かないと」


 なにやら和葉は頻繁にスマートフォンに目をやっていた。

 メッセージを打つわけでもなく、ただ画面をじっと見つめているだけ。会話中ですら視線は画面に向きっぱなしだった。


「とりあえずコレは先生に出しときますんで、一応受理したって言うことで了解しました」

「……はい。お願いしますね」


 では、と言って、和葉は踵を返した。

 そのまま足早に生徒会室を去っていく。大きな音を立てて扉が閉まり、部屋はしんと静まり返った。


 まるで嵐のような人だな、と美弥は思った。

 言いたい事を言ってやりたい事だけやって、周りの事なんか気にも留めない。恐らく美弥の事など便利な後輩程度にしか感じていないだろう。いてもいなくてもどうでもいい、とすら思っているかもしれない。それは美弥に対してだけではなく、恋人以外の人間全てが彼女にとっては「どうでもいい」のだろうけれど。


「……あーあ、明楽先輩も大変だ。これどうしようかなぁ」


 ひらひらと退学届けを振って、デスクに放り投げる。

 受理してしまえばそれまでだが、和葉の思い通りにするのも何だか癪である。敵に回すつもりもないけれど、彼女の奴隷でもないのだ。


 しばらく考え込んだ後、スマートフォンを手に取った。

 メッセージを送る先はもちろん里桜だ。彼女が雪那と行動しているのは知っていたし、どちらかと言えば彼女たちの味方をしていたい気分だったりもする。どうなるかはさて置き、和葉よりは百倍マシだった。


「えーっと……桐生先輩が明楽先輩の退学届けを持ってきました……、しばらく学校休むって言ってたから、やるなら早めにどーぞ、っと」


 そこそこの長文になってしまったが、まあいいだろう。

 そんなことを気にする間柄でもないのだ。嫌われたところで構わない。


「さーってと!私もそろそろ頑張らないとなぁ」


 手を組んで、ぐっと体を伸ばす。

 ここの所、放課後はずっとパソコンと向き合ってばかりだ。菖蒲がいなくなり、副会長である明楽が本来なら代役を務めるはずが、休んでいた分の補習で生徒会にはほとんど足を運べなかった。それならば誰か別の人が、という話になったのだが、誰一人として責任を負いたくないと言うのが現状だったのだ。

 結果として仕方なく美弥が会長代理として仕事をする羽目になり、毎日慣れないことばかりでうんざりしていたのだった。


 とはいえ、別に成績が欲しいわけではない。

 いつ辞めたって構わないし、そもそも生徒会長になんかなりたくてなったわけでもない。半ば無理矢理やらされているのだから、涙のひとつでも流して訴えかければ教師たちも対応してくれるだろうと思っていた。


 そんな事よりも遥かに大事なモノがあるのだ。

 面白くて楽しくて、つまらない日常をゾクゾクさせてくれる玩具せんぱいが。


「……くふふ。楽しくなってきたなぁ」


 まだまだ甘い。

 もっとボロボロになってくれないと、楽しめないのだ。

 菖蒲に痛めつけられたくらいじゃ物足りない。姉に犯されても、和葉に周りを壊されてもまだまだだ。心も体もボロ雑巾のようになって貰わなきゃつまらない。


「ま、ホントに死んじゃっても困るんだけどねー」


 なんてね、と独り言を言っては、けらけらと笑う。

 退学届けをくしゃくしゃに丸めて、バスケットボールのようにゴミ箱へと投げ捨てた。









 薄暗く、カビた匂いが鼻をつく。

 十畳ほどの広さだった。天井から垂れ下がる裸電球だけが、部屋をぼんやりと照らしている。無機質なコンクリートの打ちっぱなしが圧迫感を与え、壁や床にコレクションのように並べられた器具の数々は強烈な嫌悪感を植えつけた。


 桐生家の別館。

 使われなくなって久しい地下室の一部屋に、女性が両手を着いて俯いていた。


 瀬戸 文香という名の彼女は、桐生家で働く使用人の一人だった。

 無口で無愛想で、基本的に感情というものを表に出すことはほとんどない。必要に迫られなければ口を開く必要はない、と和葉にも言い切るくらいで、声すら聞いたことがないという同僚もいるくらいなのだから、その徹底振りは相当なものだった。


 そんな彼女が、ひたすらに「申し訳ございません」と何度も繰り返し呟いていた。

 ぜいぜいと息を切らしては、時折苦しそうに呻き声をあげる。ショートカットにした前髪からはポタポタと汗が滴り、開いた口元からは血の混じった唾液が床に零れ落ちた。


「私がいない間、随分と楽しそうでしたね」


 文香のすぐ目の前で、簡素なパイプ椅子に和葉が座っていた。

 ぎぎ、と軋んだ音。苛立っているのか、しきりに貧乏ゆすりをしている。そのくせ 表情は嬉しそうに笑っているのだから、言い知れない不安と嫌悪感が文香を襲った。


「普段はくすりともしない貴女が、明楽くんには笑いかけるんですね。あんな素敵な笑顔が出来るなんて初めて知りましたよ」

「お嬢様、私は……!」

「そんな声も初めてですね?可愛らしい声じゃないですか」


 こつこつとコンクリートの地面を踏み続けていた足を僅かに上げる。

 苦痛とプレッシャーに顔を歪ませた文香の頭を、何の躊躇もなしに踏みつけた。


「どんなお話をしてたんです?あんなに憔悴してた明楽くんが楽しそうに笑うくらいですから、とっても楽しいお話だったんですよね?」

「……お嬢、さま。私は決して不義なことは……」

「そんなことは訊いてません」


 ぐい、と体重を掛ける。

 文香の額が硬い地面に擦り付けられる。後頭部はローファーのヒールベースがぐりぐりと捨てた煙草を踏み消すように捻られていて、その度に額に削られるような痛みが襲い掛かった。

 和葉はその様を嗤いながら眺めていた。

 手に持ったスマートフォンには、自室に仕掛けておいたカメラの映像が流れている。リアルタイムの視聴はもちろん、クラウドストレージに録画も可能で、監視と明楽の生活シーンを楽しもうと設置しておいたのだ。

 

 まさか自分がいない間に、文香と楽しそうに笑い合う恋人を見ることになるとは思いもしなかったが。


「別に貴女が何処の誰と話そうが、楽しそうにしていようが構わないんです。裏で私の事を何て言ってようが知ったことじゃないんです。分かります?」

「……っ、あぁッ」

「お茶なら何時もみたいに黙って淹れてればいいじゃないですか。わざわざ笑いかけて、何時間も話し込む必要がありますか?私が帰ってくる時間になったらこそこそと部屋を出たりなんかして、まるで浮気してる泥棒猫みたいに……あぁ、このすっごく胸がむかむかする感じ。どうやったら晴れるんでしょうね?」


 明楽が浮気した、とは思わない。

 悪いのは擦り寄ってきた猫の方で、文香なのだ。人の良い恋人はそれが誰であれ、邪険に出来るような人ではない。それを良いことに彼を誘惑しようだなんて、殺されても文句は言えないだろう。


 ごん、と一際鈍い音が部屋に響く。

 小さく悲鳴を上げた文香が倒れ込んだ。逃がさないとばかりに和葉は彼女の顔を蹴り飛ばす。ぎゃ、とまた悲鳴を上げるのが愉しくて、何度も何度もボールを蹴るように足を振るった。


「この、口がッ、いけないんですよねッ」

「ぎゃ、ぁあッ……!まっ、お嬢さ、ぁがッ」

「舌も、目も、顔もッ!明楽くんに媚びて、ナニをしようと、したんです、かッ」


 一言を区切るごとに、爪先が頬に食い込む。

 額を蹴れば血が飛び散った。頬に当たると歯が飛んで、鼻はごりんと嫌な感触がした。腕で顔を覆うようにした文香の腹に食い込ませれば、まるで芋虫のように身を捩りながら地面を転げ回る。何度も何度も念入りに蹴り付けて、撒き散らされた吐瀉物が出なくなった辺りで、和葉はようやく一息ついた。


「はぁっ、はぁっ……ふふふ、そうですよ。ご主人様に噛み付く悪い猫は、そんなザマがお似合いです」

「……ぅ、ぁ、ぁッ……」


 ひとしきり発散できたのか、腹の底にあったのた打ち回るような怒りが少しは晴れたような気がした。

 とはいえ依然腸は煮え繰り返っているし、半分死にかけた文香を見てもこれっぽっちも可哀想とは思えない。そのまま死んでしまえ、と唾を吐きかけてやりたいくらいだ。

 ほんの少しでも冷えた頭を取り戻したせいか、どうやって落とし前をつけてやろうかと頭を回転させる。文香にとっては、まだ感情に任せて暴力を振るわれたほうがマシだったかもしれない。それくらいに、和葉の頭の中では凄惨な方法ばかりが駆け巡っていた。


「……さて、瀬戸さん。明楽くんが部屋で待ってるので、私はそろそろ戻りたいんですよ」

「…………」


 言い返す気力も、頷くだけの体力もなかった。

 まるで自分の体じゃないかのような奇妙な感覚。顔は酷く熱を持っていて、瞬きするだけで気を失いそうになるくらい痛む。喉の奥から漏れ出る音が、自分の呼吸だと気付くまでに時間がかかった。身じろぎすらしたくないが、和葉の言葉に無反応でいられる程の度胸もない。


「なので手っ取り早くいきましょう。目と舌、どちらがいいですか?」


 何が、と文香の口が動いた。

 一瞬彼女の言葉の意味が分からなかった。と言うよりは、分かりたくなかった。

 

「どちらかで許してあげます。医療費も出してあげますし、治療中の間も給料は払います。ただ二度と明楽くんには近づかないのであれば、ですけど」

「……ぁ、ぅ」

「さっさと選んでください。あぁ、医者の心配は要りませんよ。すぐ処置できるように待たせてますから」


 部屋の端、おぞましい形の器具が並べられたテーブルの上から、鈍く光るナイフを手に取った。暖色の明かりが照らしたそれをが、からん、と文香の目の前に放り投げられた。


「両目を刳り貫くか、舌を切り落とすか。どうします?」

「……ぅぁ、ぁあッ」


 極めて冷静に、和葉は言い切った。

 もちろん冗談ではなく、至って真剣そのもの。

 彼女の罪は明楽に「笑いかけた」ことと、「楽しそうに会話した」ことだ。であるからこそ、二度と彼に笑いかけられないように目を潰すか、話しかけられないように舌を切り落とすかの二択なのだ。

 本音を言えばどちらも、と言うところではあるが、身内には甘くなってしまうのが自分の甘い部分だと本気で思っていた。それが狂った思考であることは、最早彼女には理解できる状態ではなかった。それくらい自分が追い詰められていることすらも。


 当然、文香は拒絶の意を示した。

 全身を駆け巡る激痛よりも、目の前の少女の方が恐ろしかった。転がるナイフが断頭台のように感じた。自分で目か舌を、だなんて。それを冷静に言ってのける彼女が、まるで悪魔のように見える。


「……あぁ、もう。めんどくさいですね」


 血が混ざった涙を流す文香を、和葉は心底嫌そうに見下ろした。

 そんな覚悟もなく明楽にちょっかいを掛けたのかと思うと、余計に腹立たしい。彼は自分の全てなのだとあれほど口にしていたはずなのだが、それを軽く見ていたのだろうか。どうであれ、文香のしたことは龍の逆鱗に触れるどころの話ではないのだ。ごめんなさいで済むなら警察はいらないし、済ませてやるつもりなんか欠片もなかった。


「舌を切っても死なないらしいんですけど……血がいっぱい出るみたいで、それが原因で窒息する可能性もあるみたいなんですよ。掃除も面倒ですし、今回のお仕置きは目にしておきましょうか。どの道その様子じゃ、とっくに失明してるかもしれませんしね」


 何十回と蹴っている中で、いくつかは文香の目を抉っていた。

 赤黒く腫れた瞼の下からは薄っすらと血が流れている。見えているかどうかすら分からないのなら、「もうそっちでいいんじゃないか」とさえ思った。


 ちらりと腕時計を見る。

 もうすぐ明楽との夕食の時間だった。その前に軽く汗も流したいし、そもそも制服のままなのだ。さっさと済ませて準備しておかなければならない。彼女の体の一部を抉り出すよりも、彼との食事の方が遥かに大切だった。


「ほら、私がやってあげますから。動かないでくださいね?」


 声にならない悲鳴を上げる文香。

 汚れた髪を掴んで、ぐいっと引っ張りあげる。いやいやと振り乱す顔を鷲掴みにしてやった。


「動くと余計痛いですよっ……と」


 逆手に持ったナイフの先端で狙いを定める。

 反射した銀色が、文香の開いた瞳に映し出された。



――――ああああああぁぁッッ!



 がぐずりと崩れ落ちると同時に、文香の絶叫が部屋を震わせた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る