2章 / 雪那VI

「真琴さん」


 振り返ると、背の低いメイド服の少女がいた。

 今年で十八歳になる使用人の一人で、名前は椎名 香澄といった。「同じ名字ですね」と屈託なく笑う姿を良く覚えている。明るく人当たりの良い、誰からも好かれる子だ。


 そんな彼女が、不安そうな表情で私を見ていた。

 上目遣いで瞳を潤ませるその姿は、自分が悪いことをしていなくても罪悪感を抱かせるに十分な威力を持っている。私としてはその原因に心当たりがある以上、答えないという選択肢は選べそうになかった。


「その、お伺いしたいことが……」

「香澄、貴女の言いたいことは大体分かってます。不安になるのも無理はありませんが……」


 こくり、と彼女は頷いた。

 私でさえ今の状況には、不安どころか悪いようにしかならないという確信めいたモノがある。その不安や不信感は伝播しているようで、使用人としてまだ日の浅い彼女が怯えるのも無理はないだろう。だが、今は彼女にとってもどうしようもないのだ。


「悪いけれど、今は何も言えません。……正直に言うと、私にもお嬢様の本心は分からないのです。いや、恐らく理解はしているのですが……」


 言って、私は言葉を止めた。

 香澄が首を傾げる。続きを促すようにじっと私を見つめているが、これ以上は悪戯に不安を煽るだけかもしれない。それ以上に、私自信が自分の言葉を疑ってしまっていた。


「……いえ、なんでもありません。貴女は気にせず、通常の業務を全うして下さい。お嬢様のお世話は私の仕事ですから、貴女が心配する必要はないんですよ?」

「そうかもしれませんけど……最近、使用人たちの間でも色々と不穏な噂ばかりで」

「噂?どんなです?」

「お嬢様が、その……」


 香澄が言い淀んだ。

 周囲にちらちらと視線を彷徨わせて、人がいないことを確認すると私の耳元へ唇を寄せた。


「お嬢様が、使用人を使って柊木様の周辺にいる人たちを脅している、と。ご友人の方々や、柊木様に好意的な態度を示した方を攫っていると仰ってました」

「……それは誰が?」

「先輩です。双葉様のお付の使用人数名が、先輩へ仕事の愚痴を零したようです」

「そうですか。分かりました」


 ふう、と溜め息。

 平静を装ってはいるが、内心は酷く焦っていた。その噂は紛れもない事実だし、こんな状況ではいずれ使用人の口から外部へと漏れ出てしまうだろう。いくら桐生家とはいえ、そうなってしまえば一巻の終わりである。

 

「真琴さん、その……」

「香澄。この事はこれ以上広めないように。事実無根の、根も葉もないデマです。その双葉様のお付については、私のほうで対処します」

「……分かりました」

「貴女もこの事は忘れるように。いいですね?」


 はい、と香澄は小さく答えた。

 あまり納得のいっていない様子ではあったが、今はこれでいい。早々に出所への対処を済ませてしまえさえすれば、こんな噂は無かった事と同じだ。


「……これで良いのかは、分かりませんけどね」


 これがお嬢様の為になるかは分からない。が、今はこうするしか思い付きそうにないのだ。それがもどかしくて、私のプライドが深く傷付けられたと感じていた。


「何か仰いました?」

「いえ、何も。貴女も持ち場に戻りなさい」


 表情を取り繕うのも一苦労である。

 素っ気無くそう言い残して、私はさっさとその場を立ち去った。









 真っ暗なリビングの、やけに広く感じるソファに深く身を沈めて、雪那は煙草に火を点けた。


 ライターの火がゆらゆらと室内を照らし出す。

 ヒビ割れたテレビに、粉々に砕け散った皿やコップが床一面に散乱している。カーテンは引き裂かれ、お気に入りだったガラステーブルは見るも無残な姿になっていた。まるで嵐が過ぎた後のようだった。


 そんな中で、雪那は深く紫煙を吐いた。

 革張りのソファは何度も包丁で突き刺されたためか、所々が裂けている。中身が飛び出ているのも気にならないようで、雪那は時折くつくつと笑いながら煙を吐くのだった。


「明楽が家を出て……もう何日だ」


 誰に言うわけでもなく、ぽつりと呟く。

 あの日、最愛の弟が家から出て行ってから、かれこれ二週間近く経っていた。

 その間いくら連絡をしても繋がる様子はなく、学校もずっと欠席しているらしく、どうなっているのかと学校側から連絡を受けたりもした。体調不良だと小学生の言い訳染みた理由を伝えてはいるが、それもそろそろ限界だろう。近いうちにバレるだろうが知ったことではなかった。それどころではないのだ。


 息を吸い込む。

 火種が赤く燃え上がって、暗闇に煙が消えていく。

 ここ最近は仕事も手に付かず、食事もまともに取れる状態ではなかった。無理矢理捻じ込んでも結局吐いてしまうのだから、栄養源といえばゼリーと水がせいぜい。「自分の意思で弟が出て行った」という事実が、思っている以上に自身を苦しめているようだ。


 と、不意にごとりと物音。

 玄関の方からだった。次いでどたどたと乱暴な足音が近づいてくる。そのままの勢いで扉が開くと、見知った顔がへらへらと笑みを浮かべていた。


「やあ。随分やさぐれてるじゃないか」

「……なんだ、お前か」


 起こしかけた体から一気に力が抜けていく。

 一瞬明楽が帰って来たのかと期待した自分が馬鹿みたいだ。そんな訳ないと分かっていても、どこかで希望を持っていた自分がいた。彼が出て行ったのは自業自得だと言い聞かせていたのに、と自分の愚かさに自虐的な笑みが零れる。


「電気くらいつけなよ」

「いい。いらん」

「キミは良くても私が困るんだよ。せっかく色々調べてきたってのにさ」


 現れた女性―――神矢 里桜は、手に持ったファイルをひらひらと振って笑った。


「やっとか。遅かったな」

「よく言うね。桐生の情報なんてそう簡単に調べれられるものじゃないんだよ」

「手伝うと言ったのはお前だろう」

「んー、まあそうだね。私も私で目的はあるわけだし、ね」


 あはは、と形だけの笑い声が部屋に響く。

 雪那は里桜の笑い方が嫌いだった。感情が欠落しているから仕方ない、と言う人は過去に何人もいたが、彼女はそう思えなかった。人形が人間のフリをしているようで、どうしても不気味さを感じてしまう。


「で、どうだったんだ」

「ん、ほら。これにぜーんぶ書いてあるよ」


 百円で買えそうなクリアファイルが手渡される。

 わざわざ調査結果を印刷したのか、何十枚に渡ってのレポートがぎっしりと入っている。何枚かは大きく引き伸ばされた写真が挟んであり、久しぶりに見る弟の姿に胸が高鳴った。

 

「……」

「半ば軟禁状態だよ。部屋はがっちり鍵がかかってて、せいぜい庭で散歩するくらいしか許されてないみたい。食事とかはちゃんとしてるみたいだけど……私が言うのも何だけど、あの女の子はイカれてるね。何が原因であんなに歪んじゃったんだろう」

「……この、退職者のリストってのはなんだ?」

「あの家で働いている使用人のリストさ。ここ数週間で何人も辞めてる。理由は色々あるけど……ほとんどが精神的に参っちゃったり、怪我をしたりって感じだね」

「怪我?……あぁ、そういうこと」


 リストには十数名の名前と、退職理由が事細かに記載されていた。

 頭部裂傷、鬱病、骨折や酷いものでは失明まであった。事故による、とされてはいるが、そんなものを鵜呑みにするほど馬鹿でもない。


「これは桐生 和葉が?それともあの付き人?」

「確証はまだないけど、桐生 和葉だろうね。どちらかと言えば、あの付き人はそれを止める立場にあるみたい」

「この有様で、母親の方は何も言わないのか」

「むしろ推奨してる節さえあるね。桐生 双葉も調べたけど、コイツも結構ヤバいよ」

「遺伝だな。屑の親を持つと子は苦労する」

「それは実体験かい?」


 はは、と雪那は声を上げて笑った。

 

「あぁ、そうだな。あんな母親を持ったから、私もイカれてしまったんだよ。弟がいなければメシも食えない」


 指に挟んだままの煙草から、ぼろりと灰が落ちる。

 火種はカーペットを少しだけ焦がして、雪那の素足に踏み躙られた。


「あは、キミも人の事は言えないね」

「結構だ。自覚してる」


 自分の事は自分が一番良く理解していた。

 幼い頃から、弟のことが大好きだった。年が離れていても―――離れていたからこそ、可愛くて仕方がなかった。オムツを替えるのも苦ではなかったし、友人と遊ぶより弟の世話を焼く方が好きだった。両親は共働きだったためか、明楽も姉にべったりだった。学校以外はほとんど、風呂も寝るときも、トイレすら一緒にいたのだ。


「私は明楽がいなきゃ生きていけないんだ。あいつと離れたときは……両親が離婚して、離れて暮らさなきゃならなかったときは、本当に地獄だったよ」


 明楽が生まれた辺りから、両親はだんだんと不仲になっていった。

 雪那は母親とは険悪だったからか、母親は明楽に愛情を注ぐようになった。だが明楽は母親よりも雪那に付いて回り、それが気に入らなかった母親が彼女に暴力を振るうようになる。その瞬間を父親に見つかって―――あっという間に、あっけなく家族は終わった。

 父親は雪那を引き取り、母親は明楽を引き取った。ここでもかなり揉めたのだが、父親はもう母親と関わりたくなかったようで、明楽を引き渡す代わりに養育費から何から払わないという条件で、あっさりと息子を売り払ってしまった。

 それ程に、母親は明楽に執着心を見せていた。当時の雪那にとっては、それがどれだけ不穏なことか分からなかったのだ。


「母も母なら、父も父さ。仕事ばかりだったくせに、私と二人で暮らすようになってからはウザったいくらいに構ってきてな。……弟と引き離した親なんて、私は口も利きたくなかったよ」

「それで?黙って弟くんに会いに行って、母親に止めを刺したわけだ」

「当然の報いだ。死ななかっただけ有難く思って貰いたいな」


 虐待された明楽を助け出してから、母親を徹底的に糾弾した。

 大嫌いだった父親を使って、母親からありとあらゆる権利を剥奪した。法で裁かれた後も、遠く離れた地に住む彼女を探し出しては、職場や近隣住民に噂を流してやったりもした。罪を償ったからと言って許すつもりなんか毛頭ないのだ。延々と苦しめてから殺してやりたかった。


 それから色々あって、雪那は明楽と二人で暮らすことになる。

 書類上の保護者は父親の祖父母ということになっているものの、実質的に親代わりとして雪那が養っていた。


「あはぁ、そうか。なるほど。やっと分かったよ」

「何がだ」

「いやね、ずっと不思議に思ってたんだ。彼を調べたときに、保護者がお父さんじゃなくってさ。お父さんが死んじゃったからおじいちゃんが保護者になった、っていうなら分かるんだけど、最初からお父さんの名前じゃなかったのが気になっててさ」

「……」

「今の話でよぉく分かったよ。キミ、お父さんに何したんだい?」


 立ったままだった里桜が床に胡坐をかいて座る。

 長話をするつもりは無かったが、今は湧き上がった好奇心を沈める方が重要だった。

 対する雪那は、表情を変えることのないまま、淡々と語り出した。


「母と別れるために弟を売った時点で、私にとっては父でも何でも無くなったんだよ。その上、蓋を開けてみればアイツは母に酷い目に遭わされていた。それもこれも、あの糞親父が原因だ。何よりも一番頭に来たのは―――明楽が虐待されていると知っていて、糞親父は何もしなかったのさ」


 ぎり、と歯が軋むように鳴った。

 当時まだ学生だった雪那がそれを知ったとき、愕然とした。同時に抑えきれない程の怒りが込み上げて、彼女はあることを決意したのだった。


「それで、殺しちゃったのか」

「殺すつもりは無かった……とは言わないがな。自宅の階段から落ちて首を折るなんて、そんな間抜けな事故もないだろう」

「罪悪感とか、そういうのはないのかい?」

「はっ」


 あまりの馬鹿馬鹿しさに噴出してしまう。

 そんなものある訳がないだろう、と雪那は吐き捨てた。明楽を傷付けた母親も、それを見て見ぬフリをした父親も同罪だ。だからこそ、明楽を守れるのは自分だけだとあの時はっきりと確信したのだ。

 

「……あはぁ。それだけ両親を毛嫌いしてたくせに、やってる事は同じなんだね。まさにブーメランってやつだ。面白いね、キミは」

「分かってるさ。だがアイツは私がいなきゃ死んでたんだ。今生きているのは私のおかげなんだから……私がアイツの為に生きているように、アイツも私の為に生きるべきだろう」

「だから弟クンを犯したのかい?キミもたいがいイカれてるよ。近親相姦なんて、本能的に避けるはずなんだけどね」

「そんなもの知るか」


 最初はそんな感情を抱いてはいなかった。

 純粋に弟として、家族として彼を愛していた。だが彼が成長していき、恋人を作った日を境に、とてつもない不安に襲われたのだ。


「あの女と付き合い始めてから、私から離れていこうとした。そんなの、許せるはずないだろう」

「だから犯した?」

「家族だからとか、そんなもの関係なかったんだよ。弟として、男として愛してるんだ」


 僅かに熱を持つ吸殻を投げ捨てる。

 こんなことまで話す気はなかった。里桜とは古い友人とはいえ、そこまで仲が良かった訳でもない。が、一度吐き出した言葉が止まることはなかった。


「姉として弟の成長を祝福してやりたかったよ。でも……そうすると、アイツは私の元からいなくなる。私の知らない女とデートをしてキスをして、セックスをして、いずれ子供を作って家庭を持つ。はは、そんなの……耐えられるもんか」

「……お姉さんとして振る舞いたかったかい?」

「それができるならな。できなかったから―――こうしてアイツを縛り付けるしかなかったんだよ。あれだけ嫌いだった両親と同じ真似をすることになってもな」


 ふう、と息を吐いて、雪那は立ち上がった。瞬間、立ちくらみが彼女を襲う。相当体が弱っているようだった。つられて心の方まで弱っているのかもしれない。だからこんな話をしてしまったに違いない、と自分に言い訳をした。

 とにかく、部屋が暗くて本当に良かったと心から思った。今どんな顔をしているか、自分でも分からなかったから。

 そんな葛藤を誤魔化すように、雪那は里桜に向かって言った。


「付き人が、止める立場だと言ってたな」

「ん?あぁ、そうだね。少なくとも今の桐生 和葉の行動を良く思ってないのは確かだね」

「そいつと連絡は取れるのか?」

「もちろん、取れるよ」


 そうか、と雪那は呟いた。

 それだけで、この数週間の日々が報われたような気になった。これでやっと弟を迎えにいけるのだ。和葉に対する報復もしなければならないが、それは里桜に任せておけばいい。今は何より、明楽を取り戻す方が優先なのだ。


「桐生 和葉に気取られないよう、連絡してくれ。後の話は私がする」


 はーい、と手を上げて、里桜が返事をした。

 ふざけているようだが、彼女は至って真面目だ。おどけるように行動するのは癖で、そうでもしなければ無愛想になってしまうかららしい。


「あぁ、明楽……すぐに迎えにいくからな」


 うっとりとした表情を浮かべて、雪那は窓の外を眺めた。

 今日は満月だと聞いていたが、午後から覆い始めた雲が空一面に暗く広がっている。程なくして雨粒が窓を叩き始め、湿気った匂いが鼻を付いた。


 未だ真っ暗なままな部屋から、雪那は飽きもせずに外を眺め続けた。

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