第35回
私たちは長らく議論を続けたが、決定的な意見は出ないままだった。このまま泊まり込みかという時間になったころ、もう一度エクリプスとプリシラに関する資料や音源を洗うといって、彰仁くんは帰っていった。律儀にも、一口くらいしか飲んでいない缶ビールの代金を置いて。
緋色は居残った。私が眠っているあいだはずっと様子を見守るのだという。
「私は超夜型だから問題ないよ。絶対に起きていられる。魘されるようだったらすぐに起こすから」
そう宣言し、また新たにお酒を開けて飲みはじめている。飲んでも眠くならず、活動に支障が出ることもないらしい。
夢を見ている自分が、現実ではどのようにしているのかは判らない。少なくともこれまではずっと、きちんとベッドに入った状態で朝を迎えていた。しかし睡眠中に暴れたり、あるいは歩き回ったりしている可能性がないとは言えない。なにも記憶がないのだから、私には知りようがないのだ。
そういう私の心配を、「大丈夫」と緋色は笑い飛ばした。「無意識に暴れるようだったら寝技でもかけて抑え込むよ。伊月だったら私ひとりの腕力で充分。なにも心配しなくていい」
一睡もしないわけにはいかないのだし、私が起きていればいるほど、緋色に負担をかけることになる。すぐに横になって、あとは夢の内容をほんの少しでも持ち帰れるよう努力するべきだ。それは判っているのだが――。
「眠るのが怖い?」彼女は穏やかな口調で、私にそう訊いた。
頷いた。夢の中の自分の行動が、佳音やプリシラに影響するかもしれない。そのいっさいは、こちら側の私が知らないうちに起こるのだ。
「私、佳音みたいに積極的じゃないし、緋色ほど強くない。彰仁くんみたいに賢くもないし、未散さんほど優しくもない。夢の中の私が、こっちの私と同じ私だったら、きっとひとりじゃなにもできない」
「大丈夫。伊月は特別だよ。私も、佳音も、彰仁も、きっと未散さんも、そう思ってる。私たちは向こう側に行けないけど、伊月を支えてくれる人が絶対にいる。私はそう信じてるよ。それが伊月の力なんだって」
彼女が私の手を握った。どう答えてよいか判らず、ただ咽の底が熱くなるばかりだった。
そのとき、こん、となにかを叩く音が室内に響いた。続いてかりかり引っ掻くような音。ベランダの引き戸のほうからだ。
緋色が私から手を離し、私に眼で合図した。私がやはり眼で応じると、彼女はそっとカーテンを引き開けた。
「うわ」と緋色は声をあげて仰け反り、そのまま坐りこんでしまった。ベランダの上で、なにか白い塊が蠢いている。その塊は私たちの姿を見とめるや、とたとた、と近づいてきて、硝子戸にぎゅっと鼻先を押し当てた。
「キャロル」私は慌てて硝子戸を開けた。スーベニール・ダン・オータ・モンドの看板犬、ミニチュアブルテリアのキャロルに違いなかった。
「どうしたの。マスターと一緒に出掛けたんじゃなかったの?」
私はキャロルを抱き上げて、部屋に連れ込んだ。犬が苦手らしい緋色が、怖々とこちらの様子を窺っている。
彼女は壁に背中を預けながら、
「ねえ、その前にここ七階だよね? どうやって上がってきたの?」
赤ん坊をあやすように揺らしていた軀が固まった。言われてみればそうだ。隣の部屋から移ってくるか、あるいは上の階のベランダから飛び降りてくるか――壁をよじ登ってくるよりは難易度が低そうだが、どちらにしろ、猫ならばともかく犬には無理だろう。
「……とりあえず、未散さんに連絡しないと」一時的に思考を放棄した私が言うと、緋色は頷いて自分のスマートフォンを取り出し、電話を架けはじめた。
「……出ない。この時間じゃ仕方ないか。メッセージだけ送っとこう」彼女は手短な文章メッセージを作成して未散さんに送信してくれた。
「どうしよう。明日まではここで預かるしかないよね? 玄関に繋いでおこうかな」
「その必要はない」と低い男の声がした。私と緋色はぎょっとして顔を見合わせた。ふたりとも聞えたとなると空耳ではなさそうだ。テレビもパソコンも、音がしそうなものはまったく点いていない。
私は腕の中のキャロルを見下ろした。どこから、と問われたなら、声はここから聞えた。抱いていたから確かだ。私はゆっくりと、「キャロル?」
「いかにも私だ。私があなた方に話しかけた。驚かせたな。しかし私から伝えるべきと判断して、ここへやってきた」
犬の鳴き声とはまるで掛け離れた、明瞭な人の言葉である。首輪に再生機のようなものが付いているのではないかと思い至って咽の下を弄ってみたが、なにもなかった。
「喋ってる?」と緋色。私とキャロルのどちらに問いかけたともつかない調子だ。
「一時的にな。魔法はそう長く続かないから、私もほどなく普通の犬に戻る。その前にあなた方に話さねばならない――人形の夢のことだ」
私は再び緋色と顔を見合わせた。ふたりして頷き合う。
「聞く。キャロルの知ってることを教えて」
キャロルは私の顔を見上げた。またはっきりとした人間の話し方で、
「まずあなたは――夢におけるあなたという意味だ――窮地に立たされている。人形の裂け目を覗いて記憶が混濁しているせいで、こちら側のあなたにその実感はないだろうがな。それが奴らのやり方というわけだ。魔法で人間の記憶を混乱させ、無意識のうちに夢の世界へ引きずり込む」
息を詰めた。彰仁くんの仮説、そして私の直感通り、やはり夢は見ているのだ。そして記憶まで操られてしまっている――。
「私は、どうしてそんなことになったの?」
「そもそもの始まりはわが友の警告を無視したことだが、今それを言っても仕方があるまい。しかし今度ばかりは、犬の言葉と侮らないことを勧める。それがあなたの命運を左右するかもしれないのだから」
「……わが友って、もしかしてジェフのこと?」
あの日、人形展に出掛けようとした私と佳音を、ジェフは執拗に邪魔しつづけた。あれは彼からの警告だったのか。
「その通り。もしこうしていれば、という話が許されるならば、そもそもあなたは人形を見るべきではなかった。友人ともども、酔って眠っているべきだったのだ」
キャロルがいちど鼻梁を緋色に向けてから、再度私のほうを見上げた。
「先ほど窮地と言ったな。今あなたは、夢のほとんどすべての住人を敵に廻し、しかも夢を抜け出す最大の機会を自ら投げ出した状態だ。このままだと生還できる可能性はまずないだろう」
目の前が暗くなった。そんなことになっていたのか――。
「伊月はどうすればいいの。もう終わりって言うために来たんじゃないんでしょう?」と緋色がキャロルに問う。
「もちろんそうだ。彼女は逃走の機会を捨てたが、それは愚かだったからではない。友を救おうとしての選択だ。どうにか、共に逃げ延びてもらいたい」
佳音のこと――だろうか。夢の中の私は、佳音を助けるために残ることを選んだ?
「その通りだ」とキャロルが私の心を読んだように発する。「あなたは勇敢な選択をした。こちら側の友だけでなく、夢の世界にもあなたを認め、手助けしたいと願う者がいる。あなたは信頼できる者を見極め、その力を借りる必要がある」
緋色が頷いている。先ほどの彼女の言葉をキャロルが支持してくれたように思えて、少し救われた気がした。
「そう――あなたが生き延びるための手助けとなる道具がある。あなたに教えなくては」
キャロルは私の腕の中から抜け出し、ベッドのほうへ歩いていった。少しはみ出して垂れ下がっていた毛布に前脚をかけると、不器用そうにお尻を持ち上げてよじ登る。
やがてぴょんとベッドを下りて戻ってきたキャロルは、口に咥えていたものを私の眼の前に置いた。
「……シャドウェルがどう関係するの?」
彼が持ってきたのは、未散さんが作ったぬいぐるみの試作第一号、道化師のシャドウェルだった。緋色もぬいぐるみを見つめたまま、首を傾げている。
「どう使うかはあなた次第だが、これは必ず役に立つ。夢の世界へと持っていくのだ」
「持っていくって、どうやって?」
「抱えたまま眠ればいい。重要なのは、その人形にはあなたの所有権が働いているということだ。夢の中でも、それを放棄しない限り、その人形の所有者はあなただ。それからもうひとつ」
キャロルは机に歩み寄り、椅子に上ると、引き出しを鼻先でつついた。私はその引き出しを開け、小箱を取り出した。
「善き月のしるしだ」キャロルがゆっくりと言った。「それがもっとも重要な道具――人形の魔法に抗う切り札だ。わが主の言葉をよく思い返してみてほしい」
「石は持つべき者が持たないと働かない」緋色が私より先に応答する。「そう言ってたよね? 覚えてるんだ、ラピュタのおかげで」
「それもある」とキャロル。「しかしそれは石の性質だ。石が果たすもっとも重要な役割についてはまた別にある。持ち主はすでに知っているはずだ」
私は眼を閉じ、記憶を手繰った。マスターの言葉を脳裡に甦らせる――。
……「善き月のしるし、と言うのですよ。この石は、持ち主が決して忘れてはならないことを思い出させてくれる力がある。ぜひあなたに、この石の主になっていただきたい」……
「判った」
私は眼を開けた。キャロルは笑ったように口を開き、ピンク色の舌を垂らして、
「これで私が伝えるべきことはすべてだ」
「ありがとう」
言いながら、両腕を首の後ろに廻して善き月のしるしを着けようとしたが、やはり不器用なので上手く着けられない。こういうところ、私はいちいち格好が悪い。
「行くの?」と緋色が私の顔を見据えて言う。
「行く」
緋色が頷き、私の背中側に廻りこんできた。私から受け取ったチェーンの留め具を持ったまま、
「絶対、戻ってきてよ」
「大丈夫。そう信じてくれるなら」
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