8
佳乃は更衣室に駆け込むとシャワーも浴びずに特急で着替えを済ます。もう一秒でもこの空間にいたくない。激しい自己嫌悪と羞恥の念でおかしくなりそうだ。
確かに試合に勝ったのは自分だが、全く喜ぶ気にはなれなかった。自分たちの団体で最も強いエース、チャンピオンがド素人相手にタップを奪われた。この事実は若い選手たちにとっては想像を絶する程にショックだったらしい。
試合直後、その場にいたレスラー達は誰もが落ち込んだ表情で口を開こうともしない。中には殺気立った目で佳乃を睨みつけている者までいる始末。
試合の条件で、もし佳乃が勝ったら羽衣翔が「非礼を詫びる」などと言っていたが、とてもそんな雰囲気ではない。むしろ、今そんなことをされたら、本当に自分は恨みを買ってしまう。そんな身の危険すら感じ、慌てて道場を飛び出してきた。
荷物を抱えて更衣室から出ると、さっさと駅に向かおうとするが、
「あぁ! テメェ、待ちやがれ!」
呼び止めてくる声にウンザリとした表情で振り返ると、武美が佳乃を追いかけてきた。
「もう、しつこいなお前! アタシはもう帰るんだから、ほっといてくれよ!」
心の底から嫌悪感を放つ佳乃に、それでも武美は怯まない。
「お、俺は絶対に認めないからな! あんなのまぐれだ。美馬さんが、お前みたいな奴に負ける訳がない!」
どうしてそこまで自分に因縁をつけてくるのか、全く意味がわからない。だが、もうこれ以上こいつと絡む必要もないのだ。
「別にいいよ。認めて貰わなくたって。どうせ、二度と会うこともないんだし」
力なく零す佳乃に、武美はさらに怒りを深める。
「はぁ!? テメェ、このまま勝ち逃げなんて、許されると思ってんのか? 次会った時は俺が絶対……」
「はいはい……頑張ってな」
小馬鹿にしたような態度であしらうと、背を向けて歩き始める佳乃。
「な……な……」
武美は日焼けした顔を真っ赤に染めると、
「テメェ! 覚えてろよ! 今度会う時は、絶対に俺がテメェをぶっ飛ばしてやるからな!」
「うるさいなぁ……」
背後から聞こえる叫び声に、自分にしか聞こえない声と共に溜息を漏らす佳乃。
どう思われようと、何を言われようと構わない。どうせ会うのは今日が最後だ。
自分が入門テストに合格などする筈がない。あれ程までに選手や団体に暴言を吐き、あまつさえ団体の看板選手に、まぐれとは言え恥をかかせてしまったのだ。
むしろ、ここを無事に出れることを感謝しなければならない。
早く帰って今日のことはさっさと忘れてしまおう。気持ちを切り替えて、また別のオーディションを探さないと。
そんなことを考えながら歩いていると、前からきた女の子にぶつかってしまう。さっき一緒にオーディションを受けた子だ。
薄く桃色がかった茶髪で、ふんわりとしたショートカット。自己紹介の時に、確か年齢は十九歳と言っていたから自分と同い年だが、童顔で中学生くらいにしか見えない。
長めの前髪で目元が隠れ、自己アピールの時もややオドオドした喋り方。それでも「新体操をやっていました」と言って見せた身体の柔軟さは見事なものだった。
「あ、ごめんなさい! 大丈夫?」
尻餅をついた女の子に手を差し伸べると、掴まれた手を引いて立たせる。
「あ、ありがとう……。わたしの方こそ……ごめ……」
最後まで言い切らずに、顔を赤くしながら顔を伏せてしまう少女。やっぱり自分は他の人たちから疎ましく思われていたのだろうか?
「(そりゃそうだよな……)」
自分以外は、みんな真面目にプロレスラーになることを目指してここにきたのだ。自分のように合格するつもりもないのにこんな場所にきて、場違いな歌とダンスを披露するような奴、『何だこいつ?』と思われて当然だ。
でも、もうどうでもいい。どうせ今日ここにいた人とはもうこれから会う機会もないだろうから。
「ごめんね。それじゃ……」
軽く右手を上げて通り過ぎようとすると
「待って!」
急にその腕を掴まれ呼び止められる。
「あの…………何かな……?」
少女は佳乃から顔を背けたまま、右手で佳乃の腕を掴み、左手はまるで心を落ち着けようとしているかのように自分の胸に当てている。
何か文句でもつけようとしているのだろうか? お前みたいのは場違いだと、邪魔をするなと。小刻みに震えている少女に、佳乃は笑顔を消して挑戦的な目を向ける。
「何? アタシに何か言いたい事でもあるの?」
文句があるなら聞くよ。そんな態度で少女を睨むと、少女は泣きそうになりながら呟く。
「ち、違う! あ、あの……ごめんなさい。……ど、どうしても伝えたくて……」
消え入りそうな声で必死に何かを伝えようとしている少女。佳乃は身構えるが、少女は佳乃の手を放し、己の両の拳を握りしめると、
「さっきの、すっごくカッコよかった!」
小さな身体から絞り出すように大声で叫んだ。
「は……?」
強い風が吹き抜けると少女の前髪を揺らす。
ようやく前髪の隙間から見えた少女の瞳は、驚く程にキラキラと輝いていた。
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