5.

 先輩の手前『友人』という言葉を使ったが、改めて考えてみるとその表現は間違っているような気がする。


 言うなれば『顔見知り』。もしくは『同じ学科の奴』。あるいは。


「『名前だけ知ってる奴』」


「……三鍵の中で俺はどんな扱いなの?」


 学食は夏休みということもあり空いていた。そもそも大学に来る人が少ない。それと大半が先輩みたく外に行くからだろう。学食は確かに安く、提供時間も早いが、それだけだ。味は普通だし、量も多いわけじゃない。メニューも、日替わりメニューくらいしか毎日変わるものがなく、一年も通っていたら飽きてしまうのだ。味がわかってしまう、と言うものなのだろう。だったらあと100円上乗せして美味しいものを食べたほうがいい。時間にケツを蹴られているわけじゃないのなら、ここに来る理由はない。


「どんな奴って、さっき言ったじゃんか。『名前だけ知ってる奴』」


 コーヒーをすする。このコーヒーだけはなかなかだと評判だった。


「二回言わんでも……」


「いや……ちょっとたんま、名前……それも違うかもしれんな」


「ちょっと待て。どういう意味だ、名前すら忘れたとか言うんじゃないだろうな」


「もちろん。というか、そもそも覚えてないからな」


 ガクリとうなだれる。相当ショックだったようで、すぐに復活しない。嘘嘘と訂正しようと思ったが、本当に名前を思い出せずに焦った。


「愛称って素晴らしいね、いやほんと」


「お前、愛称で呼んだこともなかったじゃんか」


「そうだっけ」


 そこでようやく思い出す。村石だ。村石 光優。


「忘れるわけないじゃんか、村石」


 おう、と村石は暗く返事をする。どうやら忘れていたことが伝わってしまったようだ。いけないいけない。


「なんだよ、せっかくメシに誘ってやったのに」


「奢ってもらったら覚えるかもしれん」


 空になったカレーの容器に目を落とす。食券なのですでに払ったあとだ。村石が頼んだカツ丼はまだ半分ほど残っている。食べるのが遅いやつなのだ。


「奢ったら、ね。で、それは何回の話だ?」


 鋭い。


 一回奢ったら覚えるなんて言ってはいない。


「そうだよな……やっぱ初印象が悪かったんだよな……」


「それだけじゃない気もするけどな」


「いや! あれがなければもう少し友好的になったはずだ」


「あれがなければ僕はお前と友達になんてならなかったと思う」


 なにせ初めて交わした会話が「カンニングさせて」だ。





 大学のテスト時。一年の共通科目のとき、僕の後ろに座っていたのが村石だったのだ。


 なぜ後ろかと言えば簡単で、名前順だったから。小学校から大学まで『名前順』というのは大きいらしく、『ミカギ』のあとが『ムライシ』だった。それだけのことだ。


 僕はそれまで村石の名前は知っていたけれど、接点らしい接点がなかったので挨拶すら交わしたことはなかった。普段の講義は自由席こともあり、近くに座ることはなかった。なのに、テスト前、いきなり後ろから肩を掴まれたのだ。


「なあ」と一息で後ろに引っ張られる。


「お前に折行って頼みがある」


 頼み、と言われてもほとんど他人みたいなものだ。消しゴムとかシャーペンを借りたいのかと思った。だが、振り返ると村石は冷や汗を額に浮かべていた。


「カンニングさせて」


 小声だった。


「は?」


「馬鹿! 声が大きい」


 口を塞がれそうになり、その手を叩き落とす。嫌悪感しか、そのときの村石にはなかった。


「なに言ってんだ? カンニングって」


「いや、実は大変は間違いをしていてな」


 話をきくと、全く大したことなかった。


 思い出すのも馬鹿らしい。


「過去問、って知ってるよな」


『実は俺、あの殺人事件の犯人知ってますよ』くらいのトーンだった。


「ああ」


「それを先輩からもらったんだ」


「ほお」


「先輩曰く『この先生は毎年同じ問題しか出さない』と」


「ふむ」


「だから俺は答えを丸暗記して、今日に臨んだわけだ」


「へえ」


「だが、ここで問題があった」


 耳を貸せと言われる。仕方なしに顔を寄せた。


 てっきり、カンペを忘れたとか、今来たらすっかり忘れてしまったとでも言うのかと思ったが、どちらも違った。


「この講義の先生は『要』だったな」


「そうだな。要教授だ」


「けど、この問題を作ったのは『久川』なんだ」


「…………」


「教授が違う!」


「ご愁傷様」


 前を向こうとしたら肩をホールドされた。


「ヘルプ!」


 涙声だった。


「同じ科目なんだから、ほとんど一緒だろ。大丈夫だよ」


「と思ったんだが、どうやら全く違うみたいなんだ」


 ほかの奴らの過去問を見たらしい。僕は持ってないが。


「だったら、そいつらから借りればいいじゃんか」


「みんな『教授が違うのを持ってきた』って言ったら大笑いしやがった。でもって面白がってみせてくれん。コピーも間に合わんし、あとは話したことないやつらばっかなんだ」


 僕もその中の一人だ。面白がってはいないが、話したことはない。


「ノートの持ち込みはOKなんだから、それで耐えろよ」


「持ってたらここまで焦らないだろ」


「大丈夫だ、単位を落としたって来年がある」


「やだ!」


 ぐいぐいと顔を引き寄せてくる。


「だってそんなの、恥ずかしいじゃんか」


 呆れてものが言えないとはこのことだ。


 単位を落とすのが恥ずかしいからカンニングさせて欲しいとか、どんな神経をしているのだ。


 だが、村石の顔は冗談には思えない。もうそれしか助かる道はないと本気で考えているようだった。


「大丈夫だ。迷惑はかけない」


「もう十分迷惑だ」


「そうか。なら、大丈夫だな」


 なにが? と思ったが、村石はすでに正常な判断ができないでいた。


「問題を解き終わったら、少し、席を右にずれてくれればいい。そんで解答用紙を左な。シチュエーションとしては『問題解き終わりました。眠いから眠ろうと思ったけれど、解答用紙が邪魔だからずらしました』てな感じだ」


 まさかシチュエーションまで指示されるとは思わなかった。


「30点」


 村石は指を三本立てた。


「このテストの赤点は30点以下らしい。俺も頑張るから、あとは手助けしてくれ」


「…………」


「な!」


 頼む、と背中を叩かれる。その瞬間、見計らったようにチャイムがなり、要教授が入ってきた。


 問題用紙と解答用紙が配られる。振り向いて村石にそれを渡そうとすると「頼んだぜ、相棒」と顔見知りから相棒へと昇格していた。僕にはその気がないのに、衝撃の事実だった。


 テストが始まる。


 問題は結構量があったが、ノートの持ち込みがOKな分難しくはなかった。全体的に穴抜け問題が多い。教科書をそのままくりぬいているものもあれば、ノートを見なきゃわからないものもある。ただ、教科書だけ見ても30点は行きそうな気がしたが、教科書の持ち込みは許可されていない。あとは村石が読んできているかどうかだが。


 まあ、あの調子を見る限り、読んではいないだろう。そもそも持ってきているかも怪しい。


 テスト時間は90分。中頃くらいまではどうしようかと悩んでいた僕だったが、後ろから怒気というかオーラというか、並々ならぬプレッシャーがくるので仕方なしにカンニングを手伝うことにした。村石は迷惑にならないというが、バレたらただじゃすまないことはわかっているつもりだ。「勝手に見ました」で許してくれるとは思えない。いくら小声とはいえ確実に周りにはバレているだろう。告げ口の可能性だってある。村石に見せているところは選択問題が多いはずだが、それだって多少なりとも記述式の問題もあるし、間違ったところを村石も間違えていれば疑われてもおかしくない。テスト用紙の回収から言っても、僕のすぐあとに採点するはずだ。


 確か、カンニングの場合は、今学期の単位すべて取り消しだったはず。


 まあ、それくらいだったら。


 それが一般的な処罰なのかわからないが、“それぐらいだったら”、という気持ちが、僕にはあった。じゃないと、とてもじゃないと今日知り合った他人にここまでしない。


 解き終わった人は出ていってもいいことになっていたのだが、結局村石の件もあって最後まで席にいた。どうせ次もノートの持ち込みがOKな教科なのだ。早めに行って準備なんてものはない。


 チャイムがなり、「そこまで」と要教授が言ってテストが終わる。一気に脱力した空気に混じって、後ろを振り返り村石を見た。


 なんか静かだと思ったら、村石は机に突っ伏して寝息を立てていた。


 起こす。蹴り起こす。


 村石はニカリと笑って親指を立てた。


 僕は解答用紙を盗み見た。


 絶望的は気分になった。


「余裕だね」村石は言った。


 結果。


 村石は赤点だった。


 ふざけんな。




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