⑤『ゾンビ3』(1981)
この数週間、
簡潔に言うと、以前よりも臆病になった。
理由は簡単。想定しなければならない事態が増えたのだ。今こうして外にいるだけで、名作シーン集が脳内で高速再生され、気味の悪い残像を残していく。
そう、例えばこの瞬間――
左右から、呻き声の混声合唱が聞こえてくるかもしれない。
背後から強襲され、集団リンチの憂き目に合うかもしれない。
窓に手を伸ばした刹那、軒下に引き摺り込まれ、血で汚れた歯を突き立てられるかもしれない。
棒手裏剣が飛んできて壁に縫い付けられたのち、大型のカマで首を落とされるかもしれない。
……観ている時は、ギャグシーンだと思ったんだけどなあ、『ゾンビ3』。いや、あの作品自体は別にいいにしても、その後に観たアレがよくなかった。
ゾンビは進化する。人間は奪い合う。
それを丹念に丁寧に執拗に描いた、あの映画。
現実と映画は違うなんて、今のこの世界で誰が断言できるだろう。
アレが現実でも起こり得るならば。そう考えると、言葉にならない焦燥感が胸の内を駆け回る。
……ダメだダメだ。今は、そんなことを考えている時ではない。
焦るのも焦げるのも、仕事が終わった後にすればいい。
改めて、カーテンの開け放たれた大きな掃き出し窓と向かい合う。視認できる範囲では向こう側に誰もいない。何も、いない。
大きく息を吐いてから、マイナスドライバーを窓枠とガラスの隙間に突っ込んだ。乾いた音が僅かに鳴って、ガラスに数本の亀裂が入る。後は、ドライバーの柄の部分でコンコンと叩くだけ。
慎重に。
丁寧に。
時折、手を休めて前後左右に目を向ける。
野球ボール大の穴を作ったら、手を突っ込んでツマミを回す。ソロソロと窓を開けて中に入ったら、まずは聞き耳、その後、目星。両手でショベルを強く握りながら、心の内でダイスを転がす。
……………………何事もない、な。
ゆっくりと一歩ずつ、歩みを進める。
フローリングに、あるいは家具類に薄っすらと積もった埃が、闖入者のせいで軽く舞って、日光を受けてキラキラと光った。その光景は僕に、祖父母の家にあった金箔が踊るスノードームを思い出させた……なんてノスタルジックなことを言う気もないが、バックにパイプオルガンでも流れたら、これはこれで、荘厳な一枚の絵になるかもしれない。
忘れられたモデルハウスのような、あるいは映画のセットのような空気。数ヵ月の空白は、家から人間の存在を消し去ってしまう。そんなことに気づいたのも、最近のことだ。先輩の家に居候するようになって、生活のにおいを思い出したからだろう。
以前はここにも団欒や喧騒があったとは、とても信じられなかった。もちろん、それを信じたいと強く願うならば、あの棚に置いてある写真立てを手に取ればいいだけなのだけれど……止めよう。イタズラに罪悪感が増すだけだ。僕は肩を竦めて、LDKのLとDを素通りし、キッチンスペースに入った。
さあ、お仕事だ。
片っ端から戸棚を、収納棚を開けていく。
食器に料理器具……各種調味料……そうめん……袋めん……お茶漬けのもと……レトルトカレー……緑茶……ほうじ茶……箱の中は、おっ、缶詰……他は煎餅に……このビンは……日本酒か。……先輩は、お酒を飲むとどうなるのだろう。酔った勢いでのゾンビ映画連続上映会とか? Z級の駄目ゾンビ映画を、赤い顔でケラケラと笑いながら見る先輩の姿を想像して見る。うん、結構あり得そう。後はそう、ベタな展開で言えば笑い上戸になったり泣き上戸になったり、突然服を脱ぎ始めたりキス魔になったりなんて……あー、死んだ方がいいな、僕。
頬を一度叩いてから、目ぼしい品をまとめてリュックに詰める。ショベルも背負わなければならないから、欲張って重くなり過ぎないようにっと――よし、終了。
ズワイガニの缶詰が本日一番の収穫だ。先輩も、喜んでくれるといいのだが。
改めて周囲をぐるりと見渡してから頭を下げ、見知らぬ家主に感謝と謝罪の言葉を口にする。もちろん、ただの感傷だ。
再びリビングを抜けて、入って来た窓から庭へと降りる。ブロック塀に立て掛けた自転車に跨り、頭の中で周辺の地図を広げる。
――左右から現れたら?
道は十分広い、余程の団体でもない限り、有無も言わさず横をすり抜けられる。
――じゃあ、その団体さんだったら?
自転車を乗り捨てて適当な塀を乗り越え、後は野となれ山となれ。
――もし、人間とバッタリ出くわしたら?
いきなり危害は加えてくる可能性は低いだろうし、大人しく捕まって、隙を見つけて逃げ出す。
――まったく、妄想は好きなのに、肝心なところは考え無しか?
そう言うなよ、
鼻から息をゆっくりと吸い、ハンドルを握り直す。
『ハロー!』
そう叫びたくなる衝動から逃げるように、僕はペダルを踏んだ。
[⑤『ゾンビ3』(1981) 了]
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます