オールド・ゾンビじゃ物足りない?
弐ザワ透
①『ゾンビ』(1978)
木製フェンスで囲われた屋上の片隅――時折吹く風が、レインコートの端をパタパタとはためかせ、菜園の土の臭いを運んでくる。
僕は手持無沙汰に、折り畳みのアウトドアチェアから空を見上げた。十月の秋晴れは、
爽快なはずの空の青色が、重苦しく頭を抑えつけてくる。そんな感覚を覚え始めたのは、いつからだったろう。それはずっと前のことのようにも、あるいはごく最近のことのようにも思えた。
「お待たせ」
声に視線を戻す。準備万端という風に、
「あの、先輩……せめて浴室でやりませんか?」
十月の空の下は、
「何より、ここには鏡がありません。切る側にも、鏡は必須でしょう?」
「安心して、
それは多分嘘であるし、仮に本当だとしても、何の安心材料にもならない。
「それに鏡がない方が、伝わるかなと思って」
「はい?」
意味がわからなかった。疑問を口にしようと試みた時、先輩はスッと僕の背後に回った。
瞬間、心臓が大きく飛び跳ねる。
喉の奥が、ヤケドでもしたかのようにひりつく。思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
こちらの緊張を知ってか知らずか、先輩は一度、僕の髪を柔らかく撫で、
僕は抜けない緊張と
「それにしても、どうしたんですか? 突然『髪を切らせてくれ』なんて……」
「城島君が出掛けてる間に、『ゾンビ』を見直してね」
「……お好きですね、本当に」
先輩と『ゾンビ』を観てから、一週間と経っていない。どれだけ『ゾンビ』ジャンキーなんだ、この人は……。まあ、それはさておくにしても、カットと『ゾンビ』の関連がわからない。ハサミでゾンビの首を切り取るなんて面白シーンが、あの映画にあっただろうか。
「覚えてない? ショッピングモール内の美容室で、フランがスティーブンの髪をセットしているシーン。観てたら羨ましくなったの。これはぜひ、日常の一コマとして体験しておきたいな、って。理由の一つは、そんなところかな」
「はあ、そうですか……。ちなみに、他の理由は?」
「城島君の長髪、似合ってないなって」
サラリと言われてしまった。……マジか。
カシャン。
この人は、高一の男子がいかにデリケートなのかわかっていないようだ。
ジョキン。パラパラ。
同性の同級生に指摘されたってそこそこに傷が付くのだ。
ジョキン。パラパラ。
まして異性の先輩からとなれば、青春における致命傷である。
ジョキン。パラパラ。
それを一つ、この先輩に伝えなければ。
ジョキン。パラパラ。
……あれ。
先ほどから、不穏な音が耳の近くで鳴っているようですが、これは?
「あの、先輩。僕、髪型の希望とか伝えてないと思うんですけど」
ジョキン。パラパラ。
「私、坊主も嫌いじゃないよ?」
ジョキン。パラパラ。
「…………」
何を言っても、もう駄目らしい。頭を動かさないように、密やかにため息を吐く。
まあ、現状、僕が髪型を気にするような相手など先輩しかいない。その当人が切っているのだから、もうなるようになれ、か。最悪、本当に最悪、丸坊主だっていいわけだ。
――そう腹を
自分の中の緊張が、怖気が、徐々に心地良さに変わっていった。
髪を好き放題に
生殺与奪を握られる愉楽。
それは思い返してみると、久方ぶりの感覚だった。
徐々に、そして自然と、
ジョキン。パラパラ。
ハサミが鳴り、髪がレインコートに落ちて音を立てる。
ウツラウツラと、僕は午後のひと時に
「それと、髪を切りたかったのは、もう一つ理由があって――」
揺らぐ意識の中、先輩の声が、どこか遠くで聞こえた。
「……――はい、おしまい」
耳元で聞こえた声に、ハッと目を開ける。
どれほど眠っていたのだろうと腕時計に目を遣ると、キッチリ二時間が経過していた。目を
「え?」
変わりきった自分を突きつけられ、一瞬で眠気が飛んだ。思わず、頭に手をやる。
これはまた……バッサリいかれたものだ。
瞼まで伸びていた前髪も、耳を
「似合う」
「……どうも」
苦笑しながらお礼を言って、立ち上がった。先輩が気に入ったのなら、いいか。
レインコートを脱ぎ、バタバタと振る。くっ付いていた黒髪がゆっくりと地面に落ちていった。
「『ゾンビ』の美容室のシーンね」
「え?」
声に目を向ける。先輩は俯き、ホウキをかけていた。
「フランが、座ってるスティーブンの背後に回って、黒いドライヤーのスイッチを押すの。そうすると、スティーブンが撃たれたみたいに、首をガクンって落とすんだー」
「はあ……」
「背後に立たれるって緊張するよね。動けない状態だとなおさら。だけどもし、立ってるのが信頼できる人なら、緊張は安心に変わる。極限状態の中でも、そんな冗談の掛け合いができるくらいに」
そこまで言うと、先輩は顔を上げ、はにかんだ笑みを浮かべた。
「少なくともこの家にいる間は、後ろは任せてほしいな」
鈍い僕は、ここに至ってようやく、先輩の意図がわかった。髪を切ろうと言い出したのも、屋上を選んだのも、そういうことだったのだ。
この人は本当に、油断ならない。
「ありがとうございます……色々、さっぱりしました」
「んーん。だけど、あらたまって言うこともなかったね。城島君、グッスリだったよ。一回失敗しちゃったけど気づか」
先輩は、唐突にフリーズした。
今一度、自分の頭を撫でてみる。なるほど、この坊主一歩手前のベリーショートは、一度の失敗を経ての結果だったか。先輩はしばらく目を泳がせていたが、ポンと手を叩き、
「えーと、急いで片づけして、上映会、しよ。チリトリ、チリトリー」
そう言って、トテトテと逃げて行った。
肩を竦め、空を見上げる。軽やかな青色が、僕の瞳に映った。
日常の一コマ、か。
確かに、血と
では、ゾンビ映画の上映会は、日常か、非日常か? それに答えを出すにはもう少し時間が掛かりそうだった。
……さあ、今日はどんなゾンビ映画を見せてもらえるだろう。
倉庫の陰からチラチラとこちらを窺う先輩に、僕は、怒っちゃいませんよと片手を挙げた。
[①『ゾンビ』(1978) 了]
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