オールド・ゾンビじゃ物足りない?

弐ザワ透

①『ゾンビ』(1978)


 木製フェンスで囲われた屋上の片隅――時折吹く風が、レインコートの端をパタパタとはためかせ、菜園の土の臭いを運んでくる。

 僕は手持無沙汰に、折り畳みのアウトドアチェアから空を見上げた。十月の秋晴れは、ひとけらの白雲さえも許さない。その眩しさに、自然と目が細くなる。

 爽快なはずの空の青色が、重苦しく頭を抑えつけてくる。そんな感覚を覚え始めたのは、いつからだったろう。それはずっと前のことのようにも、あるいはごく最近のことのようにも思えた。


「お待たせ」


 声に視線を戻す。準備万端という風に、数夜崎すやさき先輩が立っていた。普段は下ろしている髪を後ろ一本でまとめ、エプロン姿で腕まくりをしている。手には水がイッパイに入った霧吹きとプラスチックのクシを持ち、エプロンのポケットからはハサミのがはみ出ていた。


「あの、先輩……せめて浴室でやりませんか?」


 十月の空の下は、いささか肌寒い。風邪でも引いたら大変だ。それに、切られた髪が飛んで菜園の野菜につくかもしれないし、最悪、排水管を詰まらせるかもしれない。


「何より、ここには鏡がありません。切る側にも、鏡は必須でしょう?」


「安心して、城島じょうじま君。私は小さい頃、美容師になろうと思っていたこともあるから」


 それは多分嘘であるし、仮に本当だとしても、何の安心材料にもならない。


「それに鏡がない方が、伝わるかなと思って」


「はい?」


 意味がわからなかった。疑問を口にしようと試みた時、先輩はスッと僕の背後に回った。

 瞬間、心臓が大きく飛び跳ねる。

 喉の奥が、ヤケドでもしたかのようにひりつく。思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

 こちらの緊張を知ってか知らずか、先輩は一度、僕の髪を柔らかく撫で、もなく、執行のトリガーが引かれた。柔らかな霧状の水が、髪を濡らしていく。同時並行でクシが入り、油でべたついた髪が、ときどき引っかかってはプチンと音を立てた。

 僕は抜けない緊張と怖気おぞけを悟られまいと、努めて陽気に話しかけた。


「それにしても、どうしたんですか? 突然『髪を切らせてくれ』なんて……」


「城島君が出掛けてる間に、『ゾンビ』を見直してね」


「……お好きですね、本当に」


 先輩と『ゾンビ』を観てから、一週間と経っていない。どれだけ『ゾンビ』ジャンキーなんだ、この人は……。まあ、それはさておくにしても、カットと『ゾンビ』の関連がわからない。ハサミでゾンビの首を切り取るなんて面白シーンが、あの映画にあっただろうか。


「覚えてない? ショッピングモール内の美容室で、フランがスティーブンの髪をセットしているシーン。観てたら羨ましくなったの。これはぜひ、日常の一コマとして体験しておきたいな、って。理由の一つは、そんなところかな」


「はあ、そうですか……。ちなみに、他の理由は?」


「城島君の長髪、似合ってないなって」


 サラリと言われてしまった。……マジか。

  カシャン。

 この人は、高一の男子がいかにデリケートなのかわかっていないようだ。

  ジョキン。パラパラ。

 同性の同級生に指摘されたってそこそこに傷が付くのだ。

  ジョキン。パラパラ。

 まして異性の先輩からとなれば、青春における致命傷である。

  ジョキン。パラパラ。

 それを一つ、この先輩に伝えなければ。

  ジョキン。パラパラ。

 ……あれ。

 先ほどから、不穏な音が耳の近くで鳴っているようですが、これは?


「あの、先輩。僕、髪型の希望とか伝えてないと思うんですけど」


  ジョキン。パラパラ。


「私、坊主も嫌いじゃないよ?」


  ジョキン。パラパラ。


「…………」


 何を言っても、もう駄目らしい。頭を動かさないように、密やかにため息を吐く。

 まあ、現状、僕が髪型を気にするような相手など先輩しかいない。その当人が切っているのだから、もうなるようになれ、か。最悪、本当に最悪、丸坊主だっていいわけだ。

 ――そう腹をくくったからだろうか。

 自分の中の緊張が、怖気が、徐々に心地良さに変わっていった。

 髪を好き放題にいじられる快感。

 生殺与奪を握られる愉楽。

 それは思い返してみると、久方ぶりの感覚だった。

 徐々に、そして自然と、まぶたが重くなる。

  ジョキン。パラパラ。

 ハサミが鳴り、髪がレインコートに落ちて音を立てる。

 ウツラウツラと、僕は午後のひと時に微睡まどろんでいった。


「それと、髪を切りたかったのは、もう一つ理由があって――」


 揺らぐ意識の中、先輩の声が、どこか遠くで聞こえた。




「……――はい、おしまい」


 耳元で聞こえた声に、ハッと目を開ける。

 どれほど眠っていたのだろうと腕時計に目を遣ると、キッチリ二時間が経過していた。目をこする僕に、先輩は無言で手鏡を向けた。


「え?」


 変わりきった自分を突きつけられ、一瞬で眠気が飛んだ。思わず、頭に手をやる。

 これはまた……バッサリいかれたものだ。

 瞼まで伸びていた前髪も、耳をおおっていた横髪も、肩まで届きそうだった襟足も、軒並みきれいに剪定せんていされている。先輩は満足気に、グッと親指を立てた。


「似合う」


「……どうも」


 苦笑しながらお礼を言って、立ち上がった。先輩が気に入ったのなら、いいか。

 レインコートを脱ぎ、バタバタと振る。くっ付いていた黒髪がゆっくりと地面に落ちていった。


「『ゾンビ』の美容室のシーンね」


「え?」


 声に目を向ける。先輩は俯き、ホウキをかけていた。


「フランが、座ってるスティーブンの背後に回って、黒いドライヤーのスイッチを押すの。そうすると、スティーブンが撃たれたみたいに、首をガクンって落とすんだー」


「はあ……」


「背後に立たれるって緊張するよね。動けない状態だとなおさら。だけどもし、立ってるのが信頼できる人なら、緊張は安心に変わる。極限状態の中でも、そんな冗談の掛け合いができるくらいに」


 そこまで言うと、先輩は顔を上げ、はにかんだ笑みを浮かべた。


「少なくともこの家にいる間は、後ろは任せてほしいな」


 鈍い僕は、ここに至ってようやく、先輩の意図がわかった。髪を切ろうと言い出したのも、屋上を選んだのも、そういうことだったのだ。

 この人は本当に、油断ならない。


「ありがとうございます……色々、さっぱりしました」


「んーん。だけど、あらたまって言うこともなかったね。城島君、グッスリだったよ。一回失敗しちゃったけど気づか」


 先輩は、唐突にフリーズした。

 今一度、自分の頭を撫でてみる。なるほど、この坊主一歩手前のベリーショートは、一度の失敗を経ての結果だったか。先輩はしばらく目を泳がせていたが、ポンと手を叩き、


「えーと、急いで片づけして、上映会、しよ。チリトリ、チリトリー」


 そう言って、トテトテと逃げて行った。

 肩を竦め、空を見上げる。軽やかな青色が、僕の瞳に映った。

 日常の一コマ、か。

 確かに、血とはらわたばかりじゃ気が滅入る。こういう時間も必要なのだ。僕には。僕たちには。

 では、ゾンビ映画の上映会は、日常か、非日常か? それに答えを出すにはもう少し時間が掛かりそうだった。

 ……さあ、今日はどんなゾンビ映画を見せてもらえるだろう。

 倉庫の陰からチラチラとこちらを窺う先輩に、僕は、怒っちゃいませんよと片手を挙げた。





[①『ゾンビ』(1978) 了]

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