番外編 恋は盲目?

第一幕

 恋は盲目。そう世間では言うが、俺については半分はずれて半分あたっている。想う相手に巡り合って早二十年になるが、あいにく理性も常識も手放したことはないし、どこかのひねくれ者と違って他人ひとに迷惑をかけたことも――ないとは言えないが、それこそ常識の範囲内におさまっていると思う。


 ただ、俺の目には決して見えないものがあることも、また事実だ。これについては恋だの愛だのとは全く関係がなく、そもそも俺に限った話でもないのだが、


「ねえ、きみのそれ、何とかならないものかね。鬱陶しくてかなわないんだが」


 俺に見えないものが見えている――正確には、見えて――やつがいるというのは、純粋に面白くない。相手がこのへそ曲がりならば尚のこと。


「なんだおまえ、まだ見えているのか」

「見えなくてもわかるんだよ。きみの見苦しいそれは」


 うとましげに俺を指さす男のほうが、俺よりよほど見苦しい格好だった。かろうじて服は寝間着から着替えているものの、シャツのボタンは二つも外しているし、室内履きスリッパをつっかけた足は靴下も履いていない。ぼさぼさの白い髪は、きっと朝から櫛の一つも入れていないのだろう。


 弟子を持ってから少しはましになったと思っていたが、その頼みの綱がいなくなった途端にこのざまだ。わが従兄いとこながら、じつに嘆かわしい。いや、腹立たしい。


「おまえいま何時だと思ってるんだ」

「きみこそ何時だと思ってるんだい。少なくとも他家よそを訪ねる時間じゃないだろう」

「それはまあ、悪かった」


 たしかに朝一番の訪問は避けるのが社交の作法マナーだが、そこは親類ということで大目に見てほしい。ましてこちらは、人生に関わる相談事を持ち込んでいるのだ。茶の一杯も出せとは言わないが、こうもあからさまな迷惑顔をしなくてもよかろうに。


「ダリル」


 まだ剃刀かみそりも当てていない頬をさすりながら、同い年の従兄は嘆息した。


「きみが押しかけて来た理由はだいたい承知しているがね、それでもあえて言わせてもらうと、見当違いも甚だしい……」


 従兄が言い終えぬうちにカランと玄関の鐘が鳴った。続けて軽快な足音が階段を登り、金髪の少年が居間に顔をのぞかせた。


「ただいま戻りました、先生。ダリルさんも、いらっしゃい」

「おかえり、ルカ君」


 これは驚いた。偏屈者の従兄には過ぎたこの弟子は、昨年の秋から美術学校の寄宿舎にいるはずなのだが。


「おもてに馬車があったので、もしかしたらと思ったんですけど、やっぱりダリルさんだったんですね。お久しぶりです」


 にこやかに挨拶をする少年は、最後に会ったときよりいくぶん背が伸びたようだった。若木のように爽やかな少年の登場で、居間の空気もにわかに活気を帯びはじめる。


「帰ってたのか、ルカ坊」

「はい、今週は春休暇なんです。ちょうどキャリガン夫人も姪御さんのお宅を訪ねるというので、その間先生のお世話に」


 笑って肩をすくめた少年が、世話になりに来たのではなく、この生活破綻者の世話をしに来たのは明白だった。おおかた、この家の一切を取り仕切るご婦人も、雇い主よりよほど頼りになる少年の休暇に合わせて姪への訪問日程を調整したのだろう。相も変わらず、この従兄は方々に気を遣わせているらしい。


「ダリルさん、朝ご飯は? ぼくたち、これからなんですよ。角に新しいパン屋ができて、そこの焼き立てを買ってきたんですけど、よかったら」

「いいよ、ルカ君」


 俺が答えるより先にアーサーがしかめっ面で応じる。


「これはもう済ませたそうだから」


 これ呼ばわりは心外だし、二回目の朝食も大歓迎だったが、さすがにそこまでずうずうしくなれない俺は、少年の申し出を謝絶した。


「じゃあお茶を淹れますね」


 どこまでも気のつく少年は、にっこり笑って階下に消えた。何も出さなくていい、と意地悪く声をかけた師匠に「先生にお出しするついでですよ」と朗らかに言い返して。


「……なんであれがおまえの弟子なんだ?」

「人徳かな」


 勝ち誇った笑みを浮かべてふんぞりかえる不精者は、この世の不条理さを体現しているかのようだった。


「アーサー」


 思えば、こいつは昔からこうだった。いつも涼しい顔をして、労せず一番いいところをかっさらっていく。それはきっと、こいつが一族の惣領息子に生まれついたせいだけではないのだろう。それこそ生来の、生まれながらの要領の良さで、この男は何もかもをその手にすくいとるのだ。賞賛も喝采も、気立てのいい弟子も、それから……


「おまえはいいよな」


 ああくそ、これだけは言うまいと決めていたのに。こんな、負けを認めるような泣き言は。こいつにはこいつなりの葛藤があって、決して何の努力もせず結果だけを手にしてきたわけじゃないとわかっているのに。


「ダリル」


 やんわりと、従兄は俺の名を呼んだ。呆れたように、憐れむように。それから、俺の気のせいでなければ、いたわるように。


「何をそんなに悩むことがあるんだい。気が進まないなら――」


 春風のごとく軽やかに、アーサーは俺の苦悩を笑い飛ばした。


「断ればいいだろう。そんな縁談」


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