第70話 がらんどうの家

 暗い通りでたたずむぼくを、現実にひきもどしたのは寒さだった。ぼくはひとつくしゃみをして、のろのろと玄関の階段を上がった。上着の胸ポケットから鍵を取り出し、鍵穴にさし込む。


 ――鍵。


 かつんと、その言葉がぼくの頭に落ちてきた。先生の鍵。妖精の国の鍵。それを、ぼくは見せてもらったことがなかった。先生にしては珍しいことだ。面倒くさがりな性格を自覚している先生は、いろんなものをぼくに預けてくれていたから。家の鍵とか、本の注文書とか、つけ払いの請求書まで。


 玄関の扉を開けると、覚えのある空気がぼくを出迎えた。祖母の葬儀から戻ったときも、ちょうどあんな感じだった。誰もいない、誰もぼくを待っていない、がらんどうの家の気配。できれば二度と味わいたくなかった空気だ。


 ぼくは台所でマッチをすり、灯りをつけたランタンを手に家の中を見て回った。最初に居間、それから先生の書斎と寝室、屋根裏も客用寝室も、浴室も物置も、くまなく全部。


 そんなことをしても無駄だと頭のどこかでわかっていても、それでも歩き回らずにはいられなかった。もしかして先生が先に帰っているんじゃないか。そんな針の先ほどの希望にすがって、ぼくは家の中をさまよい歩いた。


 半地下の食料庫までのぞいたところで、ついに探す場所も尽き果てた。ぼくは重い足をひきずって居間にもどり、外套を着たまま安楽椅子に座り込んだ。ひじ掛けのところがちょっとだけ擦り切れたその椅子が、ぼくにとっての定位置だった。テーブルをはさんだ向かいには、背もたれがだいぶ日に焼けた長椅子が据えてある。昼寝好きの先生の定位置だった。


 寝そべる人のいない長椅子をぼんやりと眺めていたぼくは、ふと座面に見覚えのない手帳が置いてあることに気づいた。ぼくは何の気なしに立ち上がり、その手帳をとりあげた。ぼくの手の平より少し大きいその手帳は、ずいぶん古いものらしく、表面の革はかさかさで、ところどころ正体のわからない染みが浮いていた。


 こんなもの先生は持っていただろうか、と思ったところで、手帳の間から折りたたんだ紙が落ちた。床からそれを拾い上げたぼくは、目に飛び込んできた文字にぎくりとした。


 ――ルカ君へ


 冒頭の文字を読みとった瞬間に手が震えた。ぼくは倒れこむように長椅子に腰を下ろし、ランタンを手元に近づけて文字の先を追った。




 ――ルカ君へ。突然きみを一人にしてしまって、本当にすまない。身勝手な申し出だが、契約は今日で打ち切らせてほしい。わたしの予想が甘かったせいだが、少し予定を早めなくてはならなくなってね。


 せめてもの償いに、この家とグレンシャムの屋敷をきみに贈る。このまま住んでも売ってもらっても、好きにしてくれて構わない。手続きはすべて済んでいるから、あとは都合のいいときにウィンストン通りのケアリー弁護士事務所を訪ねてくれ。財産のこともきみの学校のことも、全部面倒を見てくれるよう話は通してある。


 キャリガン夫妻も、変わらずきみの力になってくれるはずだ。ただ、きみには悪いが、ダリルのことは当てにしないほうがいい。あの男がこの家を訪ねてくることは、たぶんもうないだろうから。


 ひょっとしたら、きみはわたしを少しばかり尊敬してくれていたのかもしれないね。だけど残念ながら、わたしはきみの尊敬に値するような人間じゃない。きみに話すべきことも話せずに、こっそり姿を消す臆病者だ。わたしがどれだけ臆病で卑劣な人間かは、この手帳を読んでもらえればわかると思う。


 正直に告白すると、これをきみに渡すのはとても辛い。きみの目にも誰の目にも触れないよう、何度これを焼き捨てようと思ったことか。ほら、わたしは救いがたい卑怯者だろう?


 だけど、それだけはできなかった。これはわたしのものじゃない。きみのものだ。それをわたしが今まで隠し持っていたこと自体、ひどく不実なことだったんだ。本当に、申し訳ないと思っている。許してくれとは言わないし、きみもわたしを許すべきではないだろう。


 さっきからきみには謝ってばかりだね。本当は、わたしはきみにお礼を言いたいんだ。そんな資格がわたしにないことはわかっているが、これだけは伝えることを許してもらえるだろうか。きみとの暮らしは楽しかった。きみがわたしの最後の日々をいろどってくれたことに、心から感謝している――


 


 先生の手紙――署名も何もないが、間違いなく先生の筆跡による手紙は、そこで終わっていた。ぼくは紙を裏返し、そこに何も書かれていないことを確かめて、もう一度はじめから手紙を読んだ。終わりまで読み、また頭から読み直す。何度かそれを繰り返して、ぼくはようやくテーブルに置いてあった手帳をとりあげた。


 その手帳をぼくに渡すのが辛いと先生は語っていたが、たぶん先生と同じくらい、ぼくも怖かった。それを開いてしまえば、もう後戻りはできないと、先生がもう戻らないという事実を認めるしかないのだとわかっていたから。


 ためらうぼくの背中を押したのは、手帳の隅に小さく刻まれていた名前だった。ペン先でひっかいたように刻まれたその名を見つけた瞬間、ぼくの心臓が大きく跳ねた。


 オリヴァ・クルス。グレンシャムの医師の息子。かつて戦場で先生と共にいたという、ぼくの父。


 ぼくは深く息を吸い、ゆっくり吐き出した。かじかんだ指で革に刻まれた名をなぞり、それから、ぼくの父がのこした手帳を開いた。


 


 

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