第23話 たとえ記憶からこぼれても

「それにしても、シグマルディさん」


 興奮を思い出したように、ベルトランさんが先生に話しかけた。


「今夜の舞台もじつに見事でしたな。お客の反応もよかった。わたしもすっかり見入ってしまいましたよ。あなたこそ当代一の幻術師だ」

「いえ、わたしなどまだ未熟者で」

「ご謙遜を。あのはとはいったいどこから出てきたんです? よくもあれだけ飼いならしたものだ」


 え、とぼくはベルトランさんの顔を見た。鳩なんて、先生はただの一羽だって出していない。先生の手から生まれたのは極彩色の鳥と炎と、それから虹。あの素晴らしい芸術を、この人はまるで見ていなかったのだろうか。


「最後の紙吹雪もよかったですな。次の劇への導入にぴったりでした。ああ、これはきみのお手柄だったね」

「あの、ぼくは……」


 上機嫌のベルトランさんを前に、ぼくの頭は大混乱だった。何を言われているのかまるでわからない。ぼくが天井からまいたのは、いや、先生が降らせたのはただの紙吹雪なんかじゃない。光輝く蝶の舞だ。


「楽しんでいただけて何よりです」


 ぼくの動揺をよそに、先生はすずしい顔でベルトランさんの賛辞を受けとめた。


「よろしければまた呼んでください。では、わたしたちはこのへんで」

「おや、もうお帰りですか。せっかくですから最後まで観ていかれればよろしいのに。あなたがいらしているせいか、アレクサもルイザもいつも以上に張り切っているようでしてね」

「ありがとうございます。ですが、それはまたの機会に」


 ベルトランさんに丁重な挨拶を残し、先生は身をひるがえした。その背中を追いながら、ぼくはそっと呼びかけた。


「……先生」

「うん?」


 いつもの笑みが返ってくる。ぼくの困惑を楽しむような笑みが。


「鳩なんて出してませんよね」

「おや、きみは見逃したのかい。当代一の幻術師の十八番おはこを」

「先生」


 さすがにむっとして先生を見上げると、先生は降参といったふうに両手をあげた。


「わかってるよ、ルカ君。でも、考えてもごらん。さすがにあんな派手なものを披露したら、ちょっとどころじゃない騒ぎになるだろう? だから、いつも最後にお客の記憶を少しだけいじらせてもらってるんだよ。ありふれた幻術を楽しんだという記憶だけが残るようにね」

「そんな……」


 先生の言うこともわからなくはなかったが、とても納得はできなかった。どうしてそんなにもったいないことができるのだろう。あの素晴らしく美しい光景を、みなの記憶から消してしまうなんて。


「いいんだよ」


 先生はぼくをなだめるように微笑んだ。


「何を見たかなんて、記憶からこぼれたっていいんだ。楽しいひとときだったと、それさえ覚えていてくれれば。その思い出が、いつか誰かを温めてくれるかもしれない。そんなことができるなら、この力もそう悪くない……」


 最後の台詞は、ぼくではなく他の誰かに言い聞かせているように思えた。先生と話していると、ときどきそういうことがあった。先生だけ遠いところへ行ってしまったような、置いてきぼりにされたような心細さに襲われることが。


「まあ、アレクサたちじゃないが、わたしも今日はいつもより気合が入っていたかもしれないな。きみが見ているかと思うと。いつもは老ベルトランだけだったからね」


 そう言って笑う先生は、すっかりいつもの先生で、ぼくはほっとしたような、寂しいような、自分でもよくわからない気持ちになった。


「……今度は、水の乙女の踊りが見たいそうです」

「ありがたいおおせだが、また面倒な注文がついたものだね」

「難しいんですか」

「さほど。ただ水の始末に骨が折れる」


 楽屋の出口にたどりついたところで、ぼくはずっと持ったままだったシルクハットを先生に手渡した。


「ありがとう。ところで、ルカ君」

「はい」

「たぶん眼鏡をかけたほうがいいと思うよ」


 ああそうかと、深く考えずに上着のポケットから眼鏡をとりだして顔にかけたぼくは、先生が開けてくれた扉の向こうに踏みだし、そこで固まった。


「これはこれは、チェンバース卿」


 先生が呼びかけた先に、一人の紳士が立っていた。深く濃く、重たい霧をまとった、停車場の紳士が。


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