第9話ハル、家を手に入れる

 どうやら帰る場所がないらしい、と理解したのは、宿屋っぽいところでワラビが何度も断られ、広場の噴水までたどり着いたときだった。


 昼の暑さが嘘のように肌寒い。二人ボッチだ。

 怪しくないですと言う自信はない。恐らく私が足を引っ張っているのだろう。申し訳ない限りである。かといって今放り出されても困る。卑怯だとは思いつつ、私はワラビと一緒にいた。噴水の水でのどを潤し、再び歩く。衛生面がどうの、という観念は捨てた。

 途中、ワラビは近くの店から華麗な手さばきで果物を拝借した。もちろん無銭である。

 小市民としては良心がとがめたが、空腹は良心をねじ伏せた。生きることはサバイバルなのだ。自然の摂理なのだ。


 オレンジというには水分の足りない果実は、多分まずいのだけど、これまで食べてきた中で一番おいしく感じた。寒さに凍えながら、どこかの馬小屋にもぐりこんで、飼葉の中で眠った。湯たんぽもカイロも毛布もない。


 そんな日が何日も続いた。どこの飯屋の残飯がおいしいか。どこの馬小屋が掃除が綺麗にしてあるか。見張りがいないか。そんなことばかりに詳しくなっていった。


「久しぶりだな」


 そんなある日、会ったのはワラビを私に売ったおじさんだった。お腹の肉を少し分けてくれたら夜も寒くなさそうだ。昼夜の寒暖差で思考力の落ちた頭でぼんやりとたっぷりとしたお腹を見てそんなことを思った。


「随分と困った生活をしているのだろう。力になろうか」

「あなたに力になってもらう必要はありません」


 ワラビは怒ったような声で私の前に立った。


「そうかな。おまえの主は随分と疲れているように見えるが」


 ワラビが心配そうに振り返った。何を言っているのかは分からないが話題は私らしい。


「ナニ?」

「大丈夫です。心配いりません」

 おじさんはワラビを無視してこっちを見ている。

「そうだな。いざとなればもう一度私がお前を買おう。そうだ代金はお前の主が一生困らないだけの生活というのはどうだ」


 おじさんはワラビと私を見比べて鼻を鳴らした。


「私にそれだけの価値があると?」

「誇り高いサイタリ族が自ら膝を折ることなどない。その美しさと誇り高さを手に入れられるならば、いくらでも金を積む人間はいるだろう。どうかねお嬢さん」


 おじさんはこっちを見ている。ワラビもこっちを見ている。どうやらお嬢さんというのは私のことらしい。そして何やら返事を求められている。


「難しい、分からない」


 私は首を横に振った。そんな長い言葉をひと息に言われても困る。相手の頭の中身にあわせて言葉を選んでほしい。

 おじさんは顎に手を当て、ゆっくりと言った。


「ワリュランス・ビュナウゼルを私に売らないか?」

 え? 売る? ワラビを?

 この間自分が売っておいてから何を言っているのだろうか。一生懸命、少ない語彙を頭の中で検索する。


「おじさん、ばか?」

「なんだと!」

「えっと、ごめん。私よく分からない言葉。おじさんワラビほしい?」

「そうだ」


 おじさんは鷹揚に頷いた。どこまでも偉そうな人である。


「でも、おじさんワラビ売る」

「君も暖かい家で眠りたいだろう。おいしいものを食べたいだろう?」


 何を言っているのかわからない。とりあえず、ワラビが唇を食いしばり、小刻みに震えているのだから、ろくなことではないだろう。私は人身売買に手を染めたりはしない。そんな思いでワラビの汚れてもきれいな手を握れば、きゅっと握り返された。


「人、売るだめ。私、ない」

「ならば、君が持っている全ての荷物で当座の金と家を用意しよう。どうだ?」

 おじさんは、したり顔で一歩前に出てきた。お腹がたぷんと揺れた。

「な、お前、それが最初から目的で」

 ワラビがおじさんに掴みかかった。

「ワラビ!けが、ダメ」


 さっきまで震えていたくせに、なに喧嘩しようとしているのだ。私は全体重をかけてワラビの服を引っ張る。そこから不承不承のワラビとおじさんの早口の話し合いが始まった。話し合いなのか、口論なのか、交渉なのかは、言葉が分からないので不明だ。結果、私は持っていたものを、おじさんに売った。それを元手に街のはずれに今度こそ家を買った。

 そこは、最初に追い出された家だった。謎である。


「ごめんなさい、ハル。私のせいで。私がハルを幸せにしますからね」


 追い出された家に出戻りし、ベッドの上でひとしきり泣き虫モードに入ったワラビのくりんとした長い髪を撫でながら、その夜は久しぶりのお風呂と、ベッドでぐっすりと眠った。

 なぜか翌朝、ワラビに絞殺されんばかりの抱き枕になっていた。恐怖の寝起き体験である。それからワラビの過保護具合に輪がかかったが、その謎は解けていない。

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