第2話 ミチサキ カホ

 それは、教室の真ん中の方にあり、僕の位置から見ると、クラスメイトの不規則に並んだ多くの頭の間から、ひょっこり伸びている誰かの腕だった。

 僕の席からは、他のクラスメイトの体が邪魔で、その腕の持ち主が分からなかったが、その細く白い腕は女子の腕だと予想でき、そしてまた、一切の弛みなく伸ばされた指先が美しく、その者の揺るがない決意が見て取れた。

「ミチサキさん!」

 学級委員の呼び声と、挙手をしている人物がミチサキカホであると、覗き込むようにして見た僕が、この目で確認したのはほぼ同時だった。

「立候補ですか?」

「はい!」

 クラスメイトの皆が、我が身可愛さのあまり、保身に走った態度に呆れ果てたため、正義感に溢れた彼女が自ら飼育係に名乗り出たと、僕は思った。

 でも僕の席から見える彼女の横顔は、そんなクラスメイト達を残念に思った、負の表情を作っていなかった。口元に微かな笑みを浮かべ、その瞳には飼育の仕事への好奇による興奮を映していた。


 

 ミチサキカホは、整った顔立ちをしているものの、男子からの人気は無かった。勉強が全くできないというわけではなく、運動神経がまるで無いというわけでもない。それらは人並みで目立たず、主に一人で行動しているため、存在感も薄かった。かく言う僕も、ミチサキカホと日直の当番が一緒になる日まで、彼女の名前がうろ覚えだった。

「ミチサキは、家に帰ったら何してるの?」

 特に気になっていたわけではない。ただ聞いてみただけだった。放課後日直の仕事で、学級日誌に今日一日の出来事を記入しながら暇潰しに。つまり僕にとっては、挨拶のようなものに過ぎなかったが、彼女にとっては違っていたようだ。

「え……?」

 彼女は、少し驚いた後、頬を徐々に赤らめた。

「ど、どうしてそんなこと聞くの?」

「どうしてって、別に……」

 何の気なしに放った言葉に、説明する程の意味なんて無い。しかし、何かを期待している様子の彼女に「ただ聞いただけ」と素っ気ない返事をするのは躊躇われ、僕は言葉に詰まった。

 それから数秒だと思うが、居心地の悪い空気が流れた。彼女もそうだったに違いない。だから僕は、必死に出来損ないの脳味噌を振り絞り、その甲斐あって最高とは言えないものの、及第点の答えを導き出した。

「少し気になっただけだよ。言いたくなかったらそれでもいいし、気にしないで」

 僕はそう言うと、「気にしてないよ」と言うが如く、笑ってみせた。自分では自然を装ったつもりだったが、彼女からすれば、どうだったのだろう。

「…………」

 僕の言葉をどう受け取ったのか、ミチサキは伏目がちのまま押し黙った。適当だと勝手に思い込んでいただけで、実は彼女を傷つけてしまったのかもしれない。弁解の言葉を思い付かない僕は、一刻も早くこの場を去ろうと、学級日誌の記入を急いた。卑怯であるがこの時の、僕の頭の中は『逃亡』の二文字しかなかった。

 汚い字で日誌に、今日の報告を書き殴る。沈みかけた夕日がちょうど僕の横顔辺りにあり、そのためにとても眩しくて、自分が書いた字も見えないほどだった。

「……誰にも言わないって、約束できる?」

「え?」と言いながら僕は顔を上げ、ミチサキの方を見る。彼女の顔は夕日に照らされて茜色に染められていた。ついさっきまでおどおどしていたのが嘘のように、真剣な表情で僕を見つめている。

 ミチサキは傷付いていたわけではなかったらしい。僕の質問に答えるかどうかを悩んでいたようだ。僕はほっと胸を撫で下ろし、「うん、約束するよ」と彼女に言った。

 軽い気持ちで返事をした後、僕はふと違和感を覚えた。それは、なぜ彼女が重々しい様子で、クラスメイトとはいえ一度も会話をしたことがない自分を信用して、言うのを憚られる内容を伝えようとするのか、そのことだ。彼女は、他人を疑わない性格なのだろうか確かめようもない。だから僕は、そう思うことにした。

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