第4話 灰色の異界
暗闇に包まれて死を覚悟した瞬間、あの山ではない全く別の場所に立っていた。
俺も
灰色の地面。どんよりと曇った空。見渡す限りの荒野に、岩だけが点在している。
「引っ張られちまったか」
兄貴がため息交じりに呟いた。
「どうなってるんすかこれ……?」
俺が困惑しながら聞くと、兄貴は苦笑いを浮かべて見せた。
「ここは異界だ。さっきの山は、俺たちの世界と異界とを繋げるトンネルみたいなものでな、異界の者を元の世界に送り返してくれるんだが……まあ、簡単に言えばそれに巻き込まれちまったってことだ」
兄貴はなんでもないことのように言うが、俺は内心めちゃくちゃ動揺していた。
異界や
「うわースゲー! これ、マジで異世界じゃないっすか!? モンスターとかいるのかなー! オレ魔法とか使ってみたい!」
呆然とする俺をよそに、粕谷は一人でブチアゲていた。
こいつは最近異世界物のマンガにハマっているらしく、普段見ないアニメまで見るようになったのだという。フィクションだと思っていた異世界に本当に来てしまったのだから、テンションが上がるのも分からなくはないが……。
「粕谷お前な、あの時声出すなって兄貴に言われてたのにお前……おかげでとんでもないことになっちまったじゃねーかお前よー……」
「えーでも逆に良かったくね? 普通に生きてたら絶対来れないってこんな所!」
死体を確認しに行った時も思ったのだが、ひょっとしてこいつは罪悪感というものを感じたことがないのだろうか。
逆に良かったじゃねえよ。普通にダメだよ。生きて帰れるかも分からないんだぞ。
「……兄貴、これどうやって帰るんすか?」
「そうだなあ……」
兄貴はしばらく辺りを見回してから、ニヤリと笑って見せた。
「とりあえずあっちに進んでみよう」
「と、とりあえず……?」
あ、これはマジでヤバいやつかもしれない。
唯一頼りになりそうな兄貴が手探り状態ということは、この先何があってもおかしくないということだ。
粕谷のバカは浮かれているけど、もしも本当にモンスターみたいなものが出てきたとしたら、丸腰の俺たちには逃げる以外に選択肢はない。
人間が生身で勝てるのは小型犬くらいまでだろう。どうかこの世界の生き物が全部草食でありますようにと、草一本生えていない荒れた大地を歩きながら俺は願った。
背丈の何倍もあるような巨大な岩の隙間を抜け、しばらく歩いていると、遠くに岩とは違う黒色の何かが見えてきた。
近づくにつれて輪郭がはっきりしてくると、どうやらそれは小屋のようなものだということが分かった。
人工物がある。つまり異界人がいるということだ。うわーなんか怖え……異界の人ってことは実質宇宙人みたいなものじゃん。内蔵抜かれたりしないかな……。
「誰もいないな。中に入ってみよう」
兄貴は
どうして誰もいないって分かるんですかね……まあ確かに生物がいそうな気配は感じないけど……。
小屋に入ってみると、中はずいぶんと狭かった。
入ってすぐの床に炉のようなものが切られており、その奥にはベッドらしきものが2つ並んでいる。
もう長いこと放置されていたのか、床には真っ白なホコリが積もっていた。
「足跡があるな……最近誰かがここに入ったみたいだ。小さいが、子供か……?」
小さな足跡が、ホコリで覆われた床にいくつも残っていた。
どうやらその足跡は一人分で、何かを探すかのようにあちこち歩き回っているような印象を受ける。
足跡が向かっている先の一つ、寝台の脇にあるサイドテーブルのようなものを兄貴が調べ始めた。俺もその後ろから覗き込むと、どうやらテーブルには引き出しがいくつか付いているらしく、そのうちの一つが開きっぱなしになっていた。
引き出しの中には何やら文字が書かれた紙のようなものが何枚か入っている。
というかこれは……。
「新聞の切れ端だな。2008年か……意外と新しい」
『2008年(平成20年)11月2日 日曜日 妊婦搬送 大都市ほど拒否』
それは明らかに日本語で書かれた新聞だった。
書かれている内容も場違いなほどに普通だ。
ていうか、日本じゃん! ここ日本なんじゃん! 新聞あんじゃん!
急に力が抜けてしまった。
やっぱり異世界なんてなかったんだ。あーよかった。これで帰れるわー。
……まあ、そんな訳ないんですけど。
俺たちがこれまで歩いてきた景色はどう見ても日本とは思えなかったし、そもそも垂れ込める空の色が異常なまでに黒すぎるし、その割に雨が降る気配もないし、見渡す限り荒野だし、ここが日本である訳がないことは重々承知していた。
「なんで日本の新聞があるんですかね……」
「恐らくこの日付の時期に神隠しにでも遭った日本人が持っていたんだろう。それをこの世界の者が拾ったか、あるいはその日本人が頑張ってこの小屋を作ったか……」
「神隠し?」
「異界との境界が希薄になる空間が局所的に発生して、そこに人間が落っこちちまう現象だ。必ずって訳じゃないだろうが、一定の確率でこの異界にも繋がるはずだから……まあ、この新聞を同じ日本人である俺たちが見つけたのはたまたまだろうな」
ええー……なにその怖い現象……。
ってことは、世界中で行方不明になっている人間の何割かはこうやって訳も分からないまま異界に飛ばされてるってこと? ヤバすぎない?
「えっ、じゃあ俺たちがバイトしてたあの家って、危ないんじゃ……」
確かあの家は異界との境界が
一歩間違えたら俺たち行方不明になってたのでは? 割りに合わないのでは?
「ああ、あの家は少し特殊でな。車の中でも話したが、精神が囚われることはあっても肉体ごと穴に落っこちるようなことにはならないから安心しろ」
「うわあ……すごく安心しました……」
どの道ヤバいことには変わりない気がする。もうあのバイトはやめておこう。
「他にめぼしいものはなさそうだな。行くか」
そうですね、と頷いて小屋を出ようとした所で、粕谷の姿が見当たらないことに気が付いた。さっきまでウェイウェイ騒いでいたのに、やけに静かだと思ったらどこ行きやがったあいつ。
小屋を出ると、意外にも粕谷はすぐ近くに突っ立っていた。
騒ぐでもなく、ボケーッと空を見上げている。
なんだホームシックか? と思いながらその視線を追っていった俺は声を失った。
遠くの空が赤く燃えていた。
俺が知っている夕焼けとは全く異質の、例えるなら深夜に起きた火災の炎で雲が照らされているかのような、どこか本能に訴える色だった。
「きれいだなー……」
ぽつりと粕谷が呟いた。
その声は今まで聞いたことがないほど落ち着いた声色で、感情が消えてしまったかのような横顔も相まって、思わずドキリとしてしまった。
「キレイっつーか、なんかヤバいだろあれ。絶対近付いちゃいけないやつだわ」
「えーそうかー? 絶対なんかあるって! 行ってみようぜ!」
内心の動揺を隠しつつ俺が言うと、粕谷はいつもの調子に戻って騒ぎ始めた。
「粕谷には悪いが、俺も
鶴の一声。兄貴に言われてはさすがの粕谷も従うしかない。
俺たちはあの不吉な赤い光の反対側へと歩き始めた。
「つーか兄貴、名刺に書いてあったっすけどー、占い師なんすよね? 行き先を占うってのはどうっすか? うわ、これめっちゃナイスアイデアじゃね?」
「いい所に気が付いたな、粕谷。しかしまあ、お前たちが知らないないだけで、実は俺は今までに何度も占っているんだがな」
「え!? いつっすか!? 水晶玉とか全然見た覚えないんすけど!」
「お前の占い師のイメージ古いな……例えば最初に会った時に小遣いをやったのは、金の握り方やどれだけ取ったか、そういった形を見て占うためだ。それで、お前たちには
「なるほどー……よく分かんないっすけど」
「そして俺たちが進むこの道も、あの小屋にあった痕跡から占った結果だ。あの小さな足跡が向かった先は……端的に言うと地獄だな。ちょっと理解の範疇を超えているくらい危険な道が見えた。だから俺たちはその逆を進む」
「ふーん。つまり帰れるってことっすか?」
「うまくいけばな」
粕谷のアホな話を兄貴は上手いこと
さすが大人……というか、この二人は案外相性がいいのかもしれない。
しばらく歩いていくと、だんだんと景色が変わり始めた。
具体的には、不毛地帯を抜けて雑草の緑色が見えるようになってきた。
同時になだらかな上り坂が始まる。死体袋を担いで登ったあの山と比べれば、丘と呼んでいいくらいのものだった。
「……なんか、変な音しません?」
丘を登り始めてから数十分後、少し前から聞こえていた地響きのような音が徐々に大きくなっていくのを感じて、俺は兄貴に声をかけた。
「どっちから聞こえる?」
「後ろっすね……だんだん大きく」
ドンッ、という音で俺の言葉は遮られた。
後ろを振り返ると、巨大な黒い球体のようなものが鎮座していた。周りに土が散乱しているところを見ると、どうやら地面から飛び出してきたらしい。
その球体からずるりと7~8本の手足が伸びるのと同時に兄貴が叫んだ。
「走れ!」
本能的な恐怖に突き動かされて、返事をする暇もないまま俺たちは走り出した。
ちらりと後ろを振り返ると、そいつは触手のような複数の足をどっしりと地面に下ろしたところだった。そしてその直後にズアッとFF5のオメガのごとく立ち上がり、猛烈な速度でこちらを追いかけ始めた。
「ギャーーーー無理無理無理無理ーーーーー!!!」
俺と同じように後ろを振り返った粕谷は、その異形を見るや怪鳥のような叫び声を上げながらすさまじい速度で走っていった。
「オレ無理なんだよォーーー足いっぱいあるやつーーーーー魚介類以外はよーーー」
すげえ、叫びながらめちゃくちゃな速度で走っていく。どんだけ肺活量あるんだ。
火事場の馬鹿力でぶっちぎりトップを走る粕谷はともかく、普段からインドア派の俺は今にもあの得体の知れない化け物に追いつかれそうになっていた。
というかなんなんだよあいつ。モンスターか? ふざけんなよこちとら棍棒も装備してないんだぞ。引き出し調べても薬草ひとつ入ってなかったしよー、この異世界を作ったやつはプレイヤーのこと考えてないのか?
ドスドスと背後から迫る化け物の足音がリアルな振動とともに伝わってくる恐怖は相当なもので、俺は半ばやけくそになってポケットからオイルライターを取り出し、点火して後ろ手に放り投げた。
冷静に考えれば、そんな風に投げたら普通は火が消えるだろうし、なによりその程度の小さな火であの巨体が怯むとは到底思えない。
しかし、その時の俺は無我夢中だった。
ライターは奇跡的に火が付いたまま弧を描いて飛び、化け物の体の上にふんわりと着地した。
その瞬間、爆発に似た音とともに化け物の全身が炎に包まれた。
全身油まみれだったのかと思うほど異常な火のつき方だった。すぐ後ろまで迫られていた俺はその熱で背中を炙られ、髪の毛の焦げる嫌な臭いを嗅いだ。
化け物はその場に崩れるようにして転がった。しばらく手足がうねうねと動いていたが、やがて完全に動きを止めた。
「なんかわからんが……助かった……?」
ぽてぽてと走る速度を落とす俺の腕を、引き返してきた兄貴がぐいっと引っ張る。
「急げ。もうすぐだ」
「いやでももうあいつ死んだんじゃないっすか?」
「よく見ろ。いや、見なくてもいい。とにかく走れ」
何を言っているんだろうと思いつつ再度後ろを振り返ると、プスプスと煙を上げる化け物の死骸の背後から、黒い影が迫り来るのが見えた。
焼け焦げたやつとは微妙に違う形をしているが、うねうねした触手のような手足はよく似ている。
それにしても……数がやけに多い。例えるなら、クソでかいイソギンチャクの群れみたいだ。触手が所狭しと這い寄ってくる光景は気持ち悪いことこの上ない。
10体から先は数えるのをやめて、俺はぷるぷる震えている脚に再び鞭を入れた。
「ギャーーーー増えてんじゃねーかああああ何してんだ友紀ー!!!」
視線を上げると、既に丘のてっぺんにたどり着いていた粕谷がこちらを見下ろしながらホラー漫画みたいな顔になっていた。
うるせーてめえ一人でさっさと先に逃げやがって、などと言い返したかったが、息も絶え絶えでそれどころではない。
「粕谷、なにやってんだ! 早くその穴に飛び込めって言っただろ!」
「いやこれ無理っすよ兄貴ー! 底見えねーし! こんなん怖すぎでしょ!」
どうやら粕谷の目の前には穴があるらしい。兄貴も粕谷と一緒にそこまでたどり着いた後、わざわざ俺のために引き返してきてくれたのだろう。
俺はもうほとんど兄貴に引っ張られるような格好になりながら、必死で足を動かし続けた。肺と喉がめちゃくちゃ痛い。目がチカチカする。
どうにか粕谷のアホ面がはっきり見えるくらいの距離まで近付くと、二人が言っていた通り、ポッカリと口を開けた大穴が見えた。
怖いとか言っている暇はない。俺はそのまま粕谷にタックルをかましつつ、転がるようにして穴の中に身を躍らせた。
ヒュン、と背後で風を切る音がした。触手の一つが俺の頭のすぐ後ろを空振りした音だった。さっきチリチリになった髪の毛の部分をちょうど上手くカットしてくれたみたいだ。わーいラッキー。一歩間違えれば首が飛んでいたぞ。
全身から冷や汗が一気に吹き出る。
俺は溜めに溜めていた悲鳴を思い切り上げながら落下していった。
◆
地面に落ちた衝撃は、思っていたほど大きくはなかった。
「いってー! おい友紀、いきなりタックルするなよ! 落ちたらどうすんだ!」
「もう落ちたっつーの」
粕谷の体の上から身を起こして辺りを見回すと、見覚えのある砂利道だった。
遠くには黒の外車が見える。どうやらあの穴はご丁寧なことに、元の世界に戻してくれただけでなく、下山の手間まで省いてくれたらしかった。
「あー……危なかったあ……」
「つか友紀、声でけえよ。耳がキーンってなってる」
「気圧のせいじゃねーの……」
俺は未だにバクバク言っている心臓の音を聞きながら、心の底から安堵のため息を吐き出した。
あんなにリアルな死の恐怖を味わったのは生まれて初めてかもしれない。後頭部の毛先がちょっとだけカットされてしまったが、まあ、命に比べれば安いものだ。
「戻ってきちゃったのかー」
「なんでちょっと残念そうなんだお前……」
「だってよー、せっかく異世界に行ったのに何も持ち帰れなかったんだぜ? 最後にあの辺の石ころでも持って帰ろうと思ってたのに、友紀がめちゃくちゃ触手連れてくるから忘れちゃったじゃんかよー」
「石なんかどうでもいいだろ……あーちくしょう、お気に入りのジッポが……」
「そういやアレ何したの? めっちゃ燃えてたじゃん」
「知らん。ライター投げたら急に燃えた」
「なるほど、火が弱点だったのか……よし、次は火炎放射器持ってこうぜ」
「次なんてねーし火炎放射器はそんなお手軽に手に入らねーんだよ」
助かったという安心感も手伝って、俺たちはいつも以上に
帰りの車の中で蛇一の兄貴が何か大事なことを言っていたような気がしたけれど、妙にテンションが上っていたせいかすっかり忘れてしまった。
寮に帰り着いてからは俺はどこか夢うつつで、食事もシャワーもなんだか
◆
次の日の朝。
俺はやけに騒がしい音で目を覚ました。
とりとめのないざわめき。話し声のような、足音のような、小人の世界に迷い込んだかのようなミニチュアな騒々しさ。
目を開けると、
目をこする。何もない。見間違いだったのかもしれない。
ふと、床をコツコツと叩くような音がしてそちらに首を巡らせると、何やら白いものたちが床の上を歩いていた。
目を細めてよく見てみると、それは歯だった。
歯医者のイラストでよく見るような歯が20本ほど、一列に並んで行進していた。
「うーん……」
俺は枕元のスマホを取り上げると、粕谷にメッセージを送った。
『11時に学食』
『(驚いた顔をしている象のスタンプ)』
『いいから来い。絶対に来い。来なかったら生コンクリート持ってお前の家に行く』
『コンクリで何する気だよ!?』
それ以上の返事は送らず、俺はタンスを開けて着替えを取り出した。
タンスの隅の方に小さいおっさんが密集していた気がするが、あえて無視することにした。
トイレに行っても、シャワーを浴びていても、とにかく騒がしくて仕方がない。寮の中が動物園になってしまったかのようだ。
俺はワイヤレスイヤホンを耳に突っ込んで外に出た。
電柱に極彩色のきしめんのようなものが何重にも体を巻きつけている。
道路の上に大きなネジがいくつも咲き、その上に6本足のカエルが寝ている。
ポケットに手を突っ込んでから、ライターがないことに気付いて舌打ちした。
面倒だけど、コンビニに寄って100円ライターを買っていこう。
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