バカふたり、時々、異象。
高山しゅん
第1話 いつも誰かがいる家
トイレから戻るなりギャーギャー騒いでいた
なんとなく画面を盗み見ると、どうやら誰かとメッセージのやり取りをしているらしかった。どうせまた合コンで知り合った相手だろう。
この部屋にはテレビがないので、うるさいやつが静かになると時計の針の音がやたらと気になり始める。
俺もスマホを取り出して、
粕谷の打つアホな文章をこっそり見ながら睡魔と戦っていると、ゴンゴンと雑に扉をノックする音が部屋に響いた。
交代の時間にはまだ早い。誰だろうと思いつつ粕谷の顔を見ると、こいつはノックの音にすら気付かず夢中で絵文字を連打していた。
言い忘れていたが粕谷はバカだ。
扉を開けて入ってきたのは
頭の半分を短く刈り上げて、もう半分は長髪という刺激的なヘアスタイル。ピアスやらネックレスやら指輪やらをジャラジャラと身につけていて、実に派手派手しい。
「ういー。やってっかー」
権田さんはビニールの買い物袋をテーブルの上に置くと、その中から缶コーヒーを取り出して飲み始めた。
「……どしたんすか?」
「ん? おお、差し入れ」
袋の中身を聞いた訳じゃなかったんだけどな……。
このバイトはまだ3回目だけど、こうして時間内に他の誰かが訪ねて来るのは初めてだったから、何かあったのかと思ったんだけど……この様子だとどうやら緊急の用事ではなさそうだ。
「あーれ、権田先輩じゃないっすかー。え、なんすかこれ、飲んでいいの?」
粕谷はスマホから顔を上げると、相手の返事を待たずに勝手に缶コーヒーを開けて飲み始めた。
もう慣れっこなのか、権田さんもいちいち指摘はしない。
しかし、彼はそこでふと何かに気づいたように、粕谷の顔をじっと見つめた。
「……粕谷オメー、なんか目ぇ赤くねえか?」
「うぇ? そっすか? スマホいじってたからかなー」
「こいつさっきまで寝てましたよ」
俺は缶コーヒーを手に取りながら、さらりと言ってやった。
権田さんの表情がサッと変わる。
「なに? オメー寝てたのかよ……?」
「いやっ、寝てないっすよ! ちょっと目閉じてただけ! おい
「事実だろ。ヨダレ垂れてたし」
「垂れてねーよ!」
「おいお前ら……この部屋に入ったら絶対に寝るなって最初に言ったよな……? 特に粕谷、テメーには何度も何度も何度も言い聞かせたよなあ……?」
権田さんの顔がまたたく間に鬼の形相へと変わる。
が、彼はふと何かを思い出したようにひとつ深呼吸をすると、アホ
「つーかなんで寝ちゃ駄目なんすか? いや、オレは寝てないっすけどね?」
「……詮索するなって最初に言っただろ。オメーらはとにかく決まった時間だけこの部屋にいりゃいいの。適当に暇つぶししてるだけで給料が出るんだからそれでいいじゃねえか」
「まーいっすけどー。……え、ひょっとしてこれ、ヤバい系のバイトなんすか?」
粕谷の頭カラッポな発言に、俺は戦慄してしまった。
「お前今さら何言ってんだ……」
俺が呆れた声で呟くと、粕谷はびっくりしたような顔を向けてきた。
「えっ? 友紀は何か知ってんの?」
「知らねえよ。でも普通に考えたら分かるだろ。こんな変な家に『いるだけ』で給料が出るなんてどう考えてもおかしいわ」
「えーそうかなー」
というかそもそも、このバイトを持ちかけてきたのはお前だろうが。
その怪しすぎる誘いに乗った俺も俺だけど……。
俺と粕谷がアホなやり取りをしていると、なにやら時計を気にしていた権田さんがゴンゴンとガラスのテーブルを拳で叩いた。
「お前ら、今日は
「はあ」
急に兄貴とか言われたが、俺には聞き覚えのない名前だった。
権田さんは粕谷の高校時代の先輩なので、俺とは直接のつながりはない。粕谷ならその蛇一とかいう人物を知ってるかと思って首を巡らせると、このバカはいつの間にかソファに寝っ転がって再びスマホを
「……ええと、その兄貴? っていうのは誰ですか?」
「ああ、
「はあ……で、何しに来るんですか?」
「様子見だっつっただろ。兄貴はたまに見込みのありそうな新入りのバイトが入るとチェックしに来るんだよ」
説明を聞いても良く分からなかったが、どうやら俺たちは見込みがあるらしい。バイトの時間中ずっと部屋でダラダラしてるだけの俺たちに、一体何の見込みがあるのかは謎だけど。
「いいか、兄貴が来たら余計なことを言ったり質問したりするなよ。兄貴に聞かれたことにだけ答えろ」
「え、なんすかそれ。ひょっとして先輩、ビビってんすか」
粕谷がスマホ越しにチラッと片目だけ出して、ニヤついた声で言った。
ゴンッと鈍い音がした。先輩が無言で粕谷の金髪頭を殴った音だった。
「いって。パワハラっすよこれ。オレ労基に駆け込んじゃいますよ?」
「粕谷のくせに難しいこと言ってんじゃねえよ。そろそろ兄貴が来るっつってんだろ。スマホをしまえバカ」
「あっ、……あーもー分かりましたよー。分かったから返して下さいよマジでー」
先輩は三角コーナーを見るような目を粕谷に向けてから、取り上げたスマホを返してやった。粕谷はそれをカーディガンのポケットに突っ込んで、つまらなそうにテーブルに
「いるだけで給料貰えるって話だったけどさー。テレビもないし、窓も塞がってるしさー、息詰まっちゃうよなー。冬なのになんか妙に暑いしよー。ねえねえ、エアコンとかないんすかー?」
このバカは先輩にぶん殴られた直後によくこれだけの悪態をつけるものだ。こいつには怖いものがないのだろうかと逆に関心してしまう。
ぶつくさ文句を垂れる粕谷を完全に無視しながら、権田さんはやや緊張した面持ちで扉の方を見ていた。
なんとなくつられて俺も同じ方を向いていると、不意にその扉が開いた。
入ってきたのは40代くらいの男性だった。
黒いシャツに黒のジャケット、黒いズボンという出で立ちに、黒のボクサーバッグを担いでいる。短く刈り込んだ髪も真っ黒で、つるりとした白い顔だけが浮き上がっているみたいだった。
「兄貴、お疲れ様です!」
権田さんはビシッと見事な一礼をすると、ソファに座ったままの俺たちを振り返り、鬼の形相を向けてきた。
俺も慌てて立ち上がり、出来の悪いロボットみたいに頭を下げる。
ふと粕谷を見ると、「何やってんだこいつら」みたいな顔でボケっと座ったまま俺たちを見ていた。
「お、権田も来てたのか。まあとりあえず座れよ」
権田さんが粕谷の首根っこを掴みにかかるより先に、その人……蛇一の兄貴は
俺たちが同じように座るのを待ってから、兄貴はドサッとテーブルの上にボクサーバッグを置いて言った。
「おつかれさん。小遣いやるよ」
兄貴はボクサーバッグの口を緩めつつ、ふと気づいたように権田さんの方を見た。
「権田、お前も」
「あっ……これは、どうも。すんません、いただきます!」
兄貴がバッグを権田さんの方へ向け、権田さんはその口に手を突っ込む。
なんの儀式だよこれと思いながら見ていると、バッグから抜かれた権田さんの手には、ぐしゃぐしゃの一万円札が何枚も握られていた。
それを見た粕谷はムンクの叫びみたいな顔になっていたが、たぶん俺も同じような顔になっていたと思う。
手に握られた札は恐らく5、6枚以上はある。権田さんがそれを無造作に自分のポケットに入れるのを、俺と粕谷は猫じゃらしを追う猫みたいに目で追っていた。
あのパンパンに膨らんだボクサーバッグの中身が全部万札だとしたら、丸められてかさが増しているとしても、相当な額になる。
次はお前だとばかりにバッグの口を向けられて、俺の頭の中は軽くパニックを起こしていた。
「あー……っす……ざっす」
虫みたいな声でボソボソ言いながら、俺は権田さんに習って同じようにバッグの口に手を突っ込んだ。
ガサガサした大量の紙片が手に当たる。さっき見た光景が幻でなければ、この中には間違いなく夢と日本銀行券が一杯に詰まっている。
ゆっくり時間をかけて指先で一枚一枚折りたたみながら握り込めばかなりたくさん持てそうだったけれど、さすがにそこまでする度胸はない。適当に握ってから権田さんと同じようにポケットに突っ込んだ。
ヤバい。恐らくこのバイト3日分よりも多い額を貰ってしまった。一体なんなんだこの人は。ひょっとして菩薩かな?
そして、もしかしなくても、今日いきなり権田さんがこの家に来たのはこれが目当てだったんだろうな……なんてずるい大人なんだ……。
俺がジト目で見ていると、権田さんの表情がみるみる曇っていった。何事かと視線を追うと、粕谷がバッグに手を突っ込んで一生ガサゴソやっているところだった。
珍しく難しい顔をしながら、ひたすら手を動かしている。
こいつまさか……さっき俺が思いついたことを実行してやがるのか……?
「あ、あれ?」
不意に粕谷が
どうやら札を大量に掴みすぎて、狭いバッグの口から手が抜けなくなったらしい。
そういえば昔、瓶の中で飴玉を握ったまま手が抜けなくなっている猿の絵をどこかで見た記憶がある。そうか。粕谷は猿だったのか。
「……ふっ、はははは」
突然、蛇一の兄貴が笑い出した。
権田さんのこめかみを冷や汗が滑り落ちていく。
俺は、未だに諦めず四苦八苦している粕谷の頭を缶コーヒーの固いところでぶん殴ってやろうかと思ったが、君子危うきに近寄らずという名セリフを思い出し、知らないふりをすることに決めた。
「面白いなお前。こんなに欲張った奴は初めてだよ」
兄貴は笑いながら、ボクサーバッグの口を緩めてくれた。
「あーすんません、なんか狭かったみたいで! あざっす!」
粕谷は元気良くお礼を言うと、その場で札を数え始めようとした。さすがに俺と権田さんが慌てて止めに入り、「なんだよー」と口を尖らせる粕谷の頭を2、3発叩いてどうにかカーディガンのポケットに札を押し込ませた。
そのやり取りの間中、蛇一の兄貴はずっと肩を揺らしながら笑っていた。
「さて……お前ら、このバイトやってて何か変わったことはなかったか?」
ひとしきり笑った後、兄貴は俺たちに探るような視線を向けた。
「あー、そういやさっき……あ、やっぱなんでもないっす」
粕谷が何か言いかけてやめた。
「ん? なんだ、言ってみろよ」
「いや、別に……大したことじゃないっていうか……」
追求する兄貴から目をそらし、明らかに動揺する粕谷。
仕方がない、ここは助け舟を出してやろう。
「こいつ、さっき寝てたんすけど、大丈夫っすかね」
「おい友紀てめ何言っちゃってんの!?」
「得間おまえ……!」
なぜか権田さんまですごい顔でこっちを見てきたが、こういうのは下手に隠すより正直に報告しておいた方が何かとお得なのだ。
悪いことはいずれバレる。それなら先に言った方が隠し事を続けるより気分がスッキリするし、事態の収拾も早い。なにより俺には関係ないことだしね!
「ほう……えーと金髪の方は……粕谷だったか。お前がさっき言おうとしてたのは、そのことだな?」
「えー……まあ、そっすねぇ……」
蛇一の兄貴はさして怒った風でもなく、興味深そうな視線を粕谷に向けていた。
「変な夢でも見たか?」
「あっ、そう! そうなんすよ!」
「どんな夢か、良かったら教えてくれよ」
「えっとっすねー、なんか起きたらこの部屋でー、トイレ行こうとしてー……」
アホみたいに分かりづらい粕谷の説明を要約すると、大体こんな感じだった。
トイレの扉と玄関の扉がループしていて、永遠にこの部屋から出られなくなる夢。
トイレにも行けない。外にも出られない。ヤバいと思った所で目が覚めて、トイレに行こうとすると、また扉がループしている。それを何度も何度も繰り返す。
夢が夢とは思えないほどリアルで、本当に目を覚ましてからもしばらくは夢なのか現実なのか区別がつかなかったのだという。
……なるほど。それでこいつはトイレに行った後ギャーギャー騒いでいたのか。
「なるほどなあ。それで、えーとそっちの……得間が起こしてやったんだな?」
「えっ」
急に話を振られて、俺は挙動不審になってしまった。
「いや、俺は別に、起こしてないっすけど……」
「起こしてない?」
兄貴の表情が変わった。
何かまずいことを言ってしまったのだろうか。ヤバい、殺されたらどうしよう。頭の後ろ側が痺れて冷たくなってきた。
「粕谷、お前自力で起きたのか?」
「えっと……はい。夢の中で友紀に話しかけたんすけど、無視されてー……でもどうしようもないんでしつこく話しかけてたら急にキレてー、なんか扉を開けてくれたんで、そこから出たら目が覚めた感じっすかねー……」
「ほう……」
兄貴は興味深そうに粕谷の話を聞きながら、何やら考え込んでいた。
「……お前たち、面白いな」
兄貴はニヤリと笑うと、ジャケットの内ポケットから名刺を2枚取り出して、テーブルの上に滑らせた。
俺と粕谷の目の前で止まったそれを見てみると、『占い師 蛇一良一』と書かれていた。
「……占い師?」
顔を上げると、兄貴は既にバッグを持って立ち上がっていた。
「何かあったらそこに連絡くれ。それじゃ、邪魔したな」
それだけ言うと、兄貴は風のように出ていってしまった。
残された俺と粕谷の顔には疑問符が浮かびっぱなしだった。一体何だったんだ。何一つ意味が分からない。
「権田さん、これ……どういうことっすかね?」
俺が名刺をヒラヒラさせながら聞くと、権田さんは空になったコーヒーの空き缶をグシャリと握り潰して立ち上がった。
「お前ら、蛇一の兄貴に気に入られたみたいだな。良かったじゃねえか」
「ええー……」
権田さんはそれだけ言うと、用は済んだとばかりにさっさと帰ってしまった。
粕谷はもうスマホを弄り始めている。
兄貴は俺たちのどこを気に入ったのか。この名刺に書かれている占い師とは一体。
結局何一つ分からなかったが、まあ小遣いを貰えたからそれでいいかと思い直し、俺はポケットから丸まった万札を取り出して、シワを伸ばす作業に取り掛かった。
◆
それから数日後、大学で粕谷と会った時、奇妙な話を聞いた。
あいつはバイトが終わった後もしばらく、ループする悪夢のことが妙に忘れられなくて、次の日に徒歩であの家に行ってみようとしたらしい。
あの家は駅から歩いて10分もかからない所にあるけど、バイトの時はなぜか現地集合ではなく、駅から送迎の車が出る。とは言え、それほど複雑な道を辿る訳ではないから、車の窓から外を見ていれば道順はすぐに覚えられる。
だから粕谷も歩いて行ってみようと思ったのだろう。
しかし、粕谷はあの家に辿り着くことはできなかった。
道は合っているはずなのに、思っていたのと違う通りに出てしまう。来た道を戻って、しらみ潰しに歩いてみても、あの家に通じる道に入れない。
結局、粕谷はたっぷり1時間も歩いてから諦めたのだという。
今度一緒に行ってみようぜと誘われたが、面倒くさいので生返事をしておいた。
粕谷もおかしなやつだ。
あんな、晴れた日でもずっと霧に包まれている奇妙な家に、よく一人で行ってみようなんて思ったものだ。
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