露命 中編

【3 蠢動】


 夏の日差しと共に生武さんが戻ってきた。絵画通りがあるべき姿を取り戻した。梅雨は明け、あと3週間もすれば夏休み。その前に飲み会かな。来週以降、前期日程の試験が始まる。単位の取得は問題ないだろう。由良と藤近が一緒にいてくれるおかげで情報収集・交換にも抜かりなし。真面目に出席し、復習と試験対策を行えば最低限の成績を修めることは難しくない。

 連日、嫌になるほどの快晴。連日、体温並みの最高気温。蝉は朝から晩まで鳴き続ける。蝉は夏の太陽の下でのみ命を燃やすべきだ。鳴き続けるその声はやかましく、本当に人をイライラさせる。時に大きすぎるその声は、届かない。やがて絶望の咆哮に変わるのだ。

 熱中症対策だろう、生武さんは麦わら帽子を被っていた。手元にはペットボトルが置いてある。座っているだけでも汗が止まらないはずだが、よくも倒れないものだと思う。確かに座っている所は日陰ではあるが、関係なかろうて。

 空白の一ヶ月間は製作期間ということだった。描きながら売りながらというのは苦手なのだそうで、絵に集中できるよう缶詰になると言っていた。外出はほとんどしない。お風呂も2、3日入らないことはざら。食生活も酷いそうだ。

 会いたかったので嬉しかったというのは本心で本音で嘘偽り無い気持ちに間違いはないのだが、生まれて初めて我が目を疑った。あっちでもこっちでも全く姿を見なかったから。実は数回、自宅の前まで行った。インターホンを押す勇気はなく、人気のない家を前に直ぐに立ち去ってしまったが。電気はついていないし、洗濯物も干していなかったし。次第に思考回路も狂い始め、俺に手渡した一枚の絵が別れのメッセージだったのかもしれないなどと、二流以下のテレビドラマみたいな展開も頭を過ぎったが、

 「あ~、ゴメンね。実はあれ、失敗作。」

 この人は本当に・・・


 授業を終えて駅に向かう際、遠目に生武さんを発見した。不思議なことに、生武さんに挨拶することに迷いはなかった。第一声の一文字目までは戸惑いも緊張もなかった。姿を確認して声を聞いて、滞った感情を溶かすべく絵画通りを突き進んだ。

 「お、お久しぶりです、生武さん。」

 早口になってしまったかもしれない。

 夕方になっても気温は高い。湿度が下がらないという感覚だ。これから百日ほどは24時間こんな状態。日本の夏は変わってしまった。猛暑日や熱帯夜は全くもって珍しくない。屋外ばかりでなく家の中でも熱中症になりかねず、就寝時にエアコンを付け忘れただけで命を落としかねない。ヒトは、脆い。

 いつからここに座っているのだろうか。さすがに朝は見かけなかったが、汗びっしょりじゃないか。

 「うん、久し振り。元気?」

 麦わら帽を、曲げた人差し指の第二関節で軽く押し上げた彼女の顔に安堵した。夏痩せしたかなという感はあったが、それよりも変わらぬ色白の肌に心拍数が上がった。この気温、この日差し、この季節における違和。籠っていたんだろうな。

 初めてカクンと膝を折って、座る生武さんと目線を合わせた。浮上する質問群。

 今まで何してたんですか。実家にいましたか、何度か家の前を通りましたけど。絵画通りには何時から何時までいますか。何で自宅から遠いこの駅で絵を売るんですか。職業は画家ということでよろしいですか。何で俺に絵をくれたんですか。何で、なんで、ナンデ。問い詰めたつもりはないし、声量を高めてもいない。ただ、早口だったかもしれないし、口調に棘はあったかもしれない。それとも立ち話の話題としては面倒だったか。

 「ゴメン、ゴメン。あるかな、時間。ちょっと寄っていかない、喫茶店?」

 荷物を片すと、唐突にシャツを着替え始めるものだから面食らってしまった。人通りの多い駅前で、しかもまだ明るい。数秒のことだし上だけだし、ジロジロ見る奴もいないだろうが、あんた女性だろうに。半分脱いだ状態でシャツを着替えても、その細い背中と白い下着は見えてしまう。下着よりも背骨と肩甲骨が脳裏に刻まれた。少し痩せ過ぎではないだろうか。替えのシャツに着替えた所で俺は生武さんに背を向け、見てはいない体を装った。周りの目は気にならないのだろうか。そりゃ、汗だくのままというわけにはいかないだろうが、トイレで着替えるとかの選択肢もあるだろう。

 「お待たせ。」

 何事もなかったようにやってきた。

 「コーヒーでいいですか。よければすぐそこに。」

 「うん、好きだよ、コーヒー。」

 そうだった。古ぼけた記憶しかないが、独特な喋り方をする人だった。遊んでもらっていた頃は、面白がって真似して戯れていた。そんな1年生に嫌な顔せず付き合ってくれたお姉ちゃん。懐かしく恋しい記憶を圧殺し、先ほど顔を出してまた隠れてしまった問いの数々を引っ張り出すことに注力した。喫茶店に着くまでの僅かな時間で全ての項目を思い出さなくてはという強迫観念に煽られながら歩を進める。女性と2人でお店に入れるというのに、浮かれた感情がこれっぽっちも湧いてこなかった。藤近であればウマイことやるんだろうな。

 着替えたとはいえ、汗をかいた身体にエアコンの冷風は肌寒いのだろう。生武さんはホットコーヒーを頼んだ。あまり人目のつかない隅っこの方に腰を下ろした。

 「しばらくの間見かけなかったので心配しました。ずっと絵画通りにいるものだと思っていたので。」

 ジャブや牽制球の類はなしという所が不慣れな証拠。雰囲気作りが下手なんだな。そもそも俺がリードして、というのが無理だったか。

 「向こうの家で描いていたんだ、絵。あれだよ、あれ・・・製作期間。」

 「向こうの家というのは、K駅の・・・以前お邪魔した、アトリエのあるお宅ですか?」

 「うん、そう。」

 生武さんがコーヒーに口をつける。万年筆のインクなのだろう、指先や爪の間が所々黒ずんでいる。由良の影響だろうか、女性の指先を見る癖がついてしまった。いつも思う、女の人の指というのは綺麗だと。男の指とは太さも形も長さも関節までも。もう頭が明後日の方向に働いていた。小学校が同じということで当然、向こうの、アトリエのある家に住んでいるものと勝手に独り合点していたが、そうではなくこちら側、俺の通う大学の側、絵画通り界隈で暮らしているようだ。

 やがて主導権は生武さんへ。元より俺は握っていないか。

 生武さんの小さなカバンからは輪ゴムで留められた写真の束が出てきた。アトリエにお邪魔した際にモデルが写真であるという予測は立っていたので、これらの写真がどのようなものであるかは説明を受けるまでもなく認識できた。ただ、なぜ披露しのかは不明だったが。

 まずは俺のもらった絵のモデルとなった写真。我等が母校、A小学校の校舎だった。卒業してから随分と大人になったが、意外と覚えている。すぐに分かるんだよな、不思議なことに。けれども今現在その姿は大きく変わってしまった。俺が6年生の時に大規模な改修工事が実施され、俺達が中学へ進級すると共に美しく生まれ変わった。俺達の代は最後の半年間をプレハブ小屋で過ごしたのだが、けっこう楽しかった。回りからは運が悪かったね、みたいなことも言われたが、良い思い出として残っている。ガキの頃はそういうものなのだろう。定位置に執着しない。環境の変化をウキウキするもの、ワクワクするもの、楽しむべきものとして落着させる能力に長けている。必要以上に警戒しないし恐怖心も抱かない。だから変化を言い訳にしないしネガティブなものとして捉えない。だから、中途半端に小奇麗なプレハブでの生活が歳月の経過を要せずに良い思い出として刻まれた。

 ユリの木も出てきた。元、俺の庭だ。今は可愛い後輩達の貴重な遊び場になっているはずだが、その子達はユリの木の存在を知るまい。俺が公園の隅から隅までを知り尽くすずっと前、当時の名前は山下公園だったそうだが、この公園は一度死んだという。火事。原因は落雷で、近隣の住民には避難勧告も出された。幸い人的被害はなかったが、山下公園は死んでしまった。全てが焼けた。失くなった。たった一本のユリの木を除いて。ユリの木は復興の象徴とされた。神木とも霊木とも称され、『ユリの木公園』という名前は満場一致で決まった。

 もう1枚紹介しておこう。俺も驚いたが『梶山商店』。駄菓子屋だ。俺達の行きつけの店だった。小さな小さな駄菓子屋に100円持って、ワクワクしながら足を運んだ。駄菓子屋は『すずらん商店街』の一角にあったのだが、小学校低学年の子供が入れる数少ないお店のひとつだった。

 恥ずかしながら、ちょっとした思い出を生武さんに語ってしまった。当時は消費税がなかったから複雑な計算は必要ない。単純な足し算を、学校の授業を実践した。覚えたての足し算で10円、20円のコーナーを中心に物色する。30円コーナーは高級品。50円コーナーには滅多に手を出せなかったが、予算200円ぐらいの時には思い切って手を伸ばした、震える手で。50円コーナーの前に立つだけで緊張した。そんな様子を梶山のお婆さんはいつも黙って、見守ってくれた。大きくなって思い返せば万引き防止かなんて悲しい事情も考えられるが、もっと大きくなるときっと棚卸もしていまい、なんて思えてしまう。10円、20円のおまけはいつものことだったし、暑い日なんかは冷たい麦茶を飲ませてくれた。小さな袋の中に買った覚えのないラムネ菓子が入っていた時の喜びは何物にも代え難かった。

 だから回数は減る。確かに回数は減るが、高学年になっても梶山商店に顔を出した。友達同士誘い合って、

 「梶山行くか?」なんて。それは俺達の代だけではなく、先輩も後輩も、他の学校も。だからけっこう賑わっていた。たまに成人男性の姿だって見かけた。

 その梶山商店がなくなった。道路の拡張工事がどうとかで。



 7月11日

A小学校の工期、決まる。もう止められない。

子供達の授業はどうなるのだ。限られた6年間。

6年生にとっては最後の1年間。そもそも緊急性は

ないということだったはずだ。耐震の問題も

クリアしている。一体何の為の工事なのだ。

きれいになることは良いことだ。でも、やり方が、

筋が通っていなかろうて。

保護者向けの説明会は明後日。

意見交換ではなく、あくまで事後報告。

筋が通っていないのだ。



 「由良さん、旅行でも行こうか?」

 「藤近君の身体の具合が良ければ構わないけれど―」

 藤近宅に由良と藤近。前期日程の試験もひと段落した、とある日曜の夕刻。男は何やら机に向かい、女性は夕食の準備に精を出す。一歩外に出れば殺人的な暑さが漂うが、空調の効いた屋内は快適そのもの。テストが終わった今、心的ストレスもなし。心身ともに穏やかなひと時を送っていた。それが恋人と一緒ということなれば何年、何十年経っても日常の尤(ゆう)なるものとして振り返ることができよう。

 「俺は大丈夫だよ。調子いいんだ。もちろん薬も持っていくしさ。」

 由良は藤近の病を知っている。死に至る病であることも。

 「どこに行くの?」

 「箱根なんてどうかな、温泉。」

 「温泉か、いいね。」

 「な。ロマンスカーですぐだよ。」

 「うん。」

 由良は藤近に秘密を話していない。恐らくは気付かれていない。きっかけをなくしていた。


 気付くべきだった。なぜ気が付かなかったと詰問するのは酷ではあるが、異変を異常として察知すべきだった。

 兆候はあった。テストが終わり夏休み目前。藤近から飲み会の誘いがなかったことを奇怪な出来事、余程のこととして捉えるべきだった。突然旅行に行こうだなんて、体調が良いのだろうだなんて都合のいい解釈に流れるべきではなかった。

 夏休み明け、後期日程から藤近は大学に顔を出せなくなった。

 由良の手首の傷は、深くなった。

                                                  【3 蠢動 終 】











【4 宿(しゅく) 痾(あ)】


 刺激的な夏休みだった。充実した長期休暇だった。随分と色々な所へ出かけた、生武さんと。デートと言っていいのだろうと思う。去年を思い返すと、大学1年の時には外出すらもあまりしなかった。自宅か近くの図書館かというのが多かった。食材会にスーパーへと言うなればマシな方で、一歩も外に出ずという日も珍しくなかった。旅行等にはいかなかったし、実家には3日間しか帰らなかった。何をしていたのかと問われれば、何もしていない。それが今年は楽しい夏休みだった。これまでで一番。社会人になってしまえば学生ほどの長期休暇など望めるはずもないから、障害で最高の夏休みということで良いかと思う。

 初デートは映画を見に行った。地元の小さな映画館。小学生の時に何度かアニメを見に来たことがある。さすがに今回はアニメでなく、一応、話題のラブストーリーだったが、見終わったあとに感想を述べられるほどは肝っ玉が座っていない俺。映画館を出ての第一声は

「ま~だ潰れてなかったのか・・・」

 俺の独り言に生武さんは笑ってくれた。独りに潰れてしまっていた俺が心を奪われるには十分過ぎる出来事で、平たく言えば浮かれていたのだろう。だから、数ヵ月後に起こる変事に対して、一般的な判断を下すことができなかったのだ。

 映画の後は、定番のファーストフード店へ。ドリンクとポテトで一息ついてから母校に向かった。

 「ちょっと見ていこうか、我等が母校を。」

 そう誘ったのは生武さんだった。手をつなぐこともなく、真夏の日差しの中をゆっくりと歩いた。2人共、大粒の汗をかきながら。決して恰好に良いデートではない。それでも、幸せだった。もしもこの瞬間、生武さんも同意見であればと思う。何より相手のことが気になり、悩み考え苦悩する。でもそれが嬉しくあり悲しみに繋がらない。それが好いているということなのだろう。

 当然小学校も夏休み。校庭開放というのだろうか、男の子達数名がサッカーをしていた。この炎天下、遊びに夢中で水分補給を忘れていなければいいが、なんて話をしながら、正門に体を預けて校舎を眺めていた。

 「新しい校舎もすっかり馴染んだんでしょうね。」

 生武さんはもちろん、俺も新校舎で学校生活を送ったことはない。

 「もう新校舎なんて、誰も言わないんだろうね。」

 不意に心地良い風が吹いた。違和感を覚える冷たい風。猛暑に犯された肉体にはとても有難かったのだが、隣の女性の表情が沈んでしまった。

 「そうかもしれませんね。もう5年以上は経っているのか。でも、まだまだキレイな校舎なんだと思いますよ。」

 「そう・・・だね。」


 およそ2ヶ月の夏休み期間中、生武さんと出かけたのは7回。その7回目の場所はユリの木公園だった。ベンチに腰掛け、無邪気に遊ぶ子供達を黙って見守っていた。昔の自分に重ねていた。思い出していた。砂場で砂山を作り、滑り台を逆走し、ブランコを目一杯まで漕ぎ続け、鉄棒で逆上がりに挑戦する。微笑ましい。

 いつの間にか重なる右手と左手。触れるは平と甲。確かな温もりが嬉しかった。大した会話は無し。それでいいのだ。それがいいのだ。無言が苦にならない。無音が気にならない。そんな関係が互いに疲れないという話ができた時、すっと肩の回りが軽くなった気がした。

 30分ちょっと座っていた。日影とはいえ、さすがに暑い。ペットボトルの水もぬるま湯に変わってしまった。立ち上がり、以前ユリの木のあった所でキスをした。公園の端の端だから子供達には見られていまい。もしもユリの木があったらその幹に背中を預けさせて。

 その瞬間、俺は目を瞑っていたから生武さんの瞳に映った呪いの塊を伺い知ることはできなかった。涙ぐんでいたのは感極まったのではなく悲しみと怒り。憎しみと決意の記憶。もっと疑うべきだったのだ。生武さんが何故、俺に近付いたかを。



 9月1日

 道路拡張工事、決まる。

 該当するのは全部で二十八世帯。

 明日以降、足を運ばねばならないが、梶山商店が辛い。

 今でも時々買いに行っているなんて誰にも言えないが。

 梶山さん、移転の話をしたらどんな顔をするだろうか。



 9月4日

 道路拡張工事の件、該当世帯への説明を終える。

 梶山商店も然り。

 梶山さんは黙って聞いていた。

 時折ただ頷いて、最初から最後まで話を聞いてくれた。

 そして一言だけ。

 「お店を畳みます。」

 これが私の仕事だというのか。



 病室にて。

 「せっかくの夏休みなんだから、こんな所にいたら駄目だよ。」

 「あ、起きた。おはよう。」

 「うん、おはよう。」

 「りんご切ってあげるね。口、ゆすいできたら?」

 「うん。ちょっとトイレに行ってくる。」

 俺は旅行先で倒れた。旅館で。2泊3日、2人でのんびりしようと誘ったのは俺なのに、初日の晩、温泉に入って夕食をとった後、俺の体は言う事を聞かなくなった。ホント、タイミングが悪いよな。ずっと調子が良かったのに、一番大事な時にこうなっちまうんだから。別に何これをしようというわけではなかった。走馬灯のように駆け巡る記憶の中にひとつでもふたつでも人の羨む光が欲しかったのかもしれない。大好きな人に自分の面影を残したかったのかもしれない。でも結果的には大人しくしていた方が身の為だった。

 「ヨーグルトもあるけれど、食べる?」

 「う~ん、いや、りんごだけでいいや。」

 ここが病室でなくて、会話だけを聞いていれば幸福な休日のひと時。ゆったりと時間の流れる2人だけの世界に違いないのだが。

 「お、ウサギちゃん。相変わらず器用だね。」

 「エヘヘ・・・ちょっと細工をしてみました。」


 旅館にて。言う事を聞かない身体と薄れゆく意識の中では視界を保つことすらできなかったけれども、耳だけはどうにか機能していた。もしかしたら平生よりも鋭かったかもしれない。突然の出来事にもかかわらず由良さんに慌てた様子はなかった。声の調子からすると随分落ち着いていたのではなかろうか。ちょっとくらいあたふたしても罰は当たらないんじゃないかと複雑な感情が生まれてしまうくらい。由良さんの、常に地に足の着いた冷静沈着な所を羨ましがり、自分に無いものと認め好きになった。俺の名を呼び、女将(おかみ)さんに救急車を頼み、電話では俺の容態を分かりやすく説明していた。優しく俺の手を握りながら。心底心強かった。おちゃらけと集中力という鎧を剥ぎ取られたら不安と恐怖しか残らない。自覚してたつもりだったが、しんどいな。その後由良さんは俺の荷物から薬を取り出し、救急隊員に渡していたようだ。俺の意識はこの辺で力尽きる。

 

 浴槽にて。三日連続で血を流している。さすがにちょっと貧血気味かな。加えて手首の傷が拡がってしまって、長袖が少しめくれただけで見えてしまう。包帯を巻くと余計に目立ってしまうし、どうしたの?という質問に対する返答が用意できない。困ってしまう。藤近君が倒れてから精神が安定しない。自らの意思と自分の手で実行したのに、我ながら情けない。湯船に手首を浸す時間が長くなっている。意識が遠のくわけではない。いっそのこと気を失ってくれれば楽なのに、頭はしっかりと冴えてしまっている。『G線上のアリア』もさすがに飽きてきた。それでも止まらない。止めることができない。病室に泊まりたい旨を藤近君に話したが、決して許してくれなかった。男と猫は、弱り死に果てる姿を他人に見られたくないんだ、なんて格好つけていた。そんな人に、私は助けてなんて言えるはずもない。きっと全力で助けようとするから。それこそ命を賭けて。もうすぐ夏休みが終わる。水谷くんにどうやって説明しよう。



 始業まで5分。後期日程初っ端の講義。由良と俺は軽く挨拶を交わし、授業の準備を済ませた。あとはムードメーカーの登場を待つだけ。これまでより幾らか待ち遠しい。夏休み何してた、の質問に対してちゃんとした受け答えができそうだ。きっと盛り上がるぞ。藤近は驚くだろう。冷やかしてくるかもしれないな。それもいいだろう。飲み会は今週か来週か。そこで明かしてもいいか。生武さんとの約束は入れないようにしないとな。

 始業3分前。軽やかなスニーカーの音も、リズミカルな鞄の擦れる音も聞こえてこない。無論、姿は見えず。こんなことは今まで一度もなかったが、

「珍しい、寝坊かな。」という由良の一言でそうなのだろうと独り合点した。そして授業に集中。明日、藤近が来たらノートを貸してやろう。その時に話してみようか。だから由良にもまだ内緒にしておくことにしよう。由良も俺もいつもどおり講義を受けた。

 次の日も、その次の日も。二度と3人で講義を受けることはなかった。



 9月23日

 梶山さんが亡くなった。

 私のせいだろうか。

 私が殺したのだろうか。

 違う。

 けれども守れなかった。

 地元をより住みやすく、

 区民が皆、幸せに。

 自己犠牲も厭(いと)わない。

 その思いに偽りと変更はない。

 ただ、こんなはずではなかった。

 これは私の夢でも希望でもない。

 悪夢に他ならない。



 秋晴れが続く。後期日程が始まって2週間経過。水谷の我慢が限界に達した。状況が変わらないのならば、自らの手で変化の糸口を手繰り寄せてやる。水谷の変化を複雑な思いで実感する由良。1年前の水谷であれば藤近への配慮は口にしても、おそらく実際に行動へ移すことはしなかっただろう。わざわざ手間と面倒と労力を増やすことはしまい。それは今はどうだ。

 「俺、藤近の家、行ってくるわ。全く何やってんだか、ほんとに・・・」

 「えっ。」

 ある日の講義終了後、水谷は宣言した。

 「連絡つかないしさ。藤近の奴、ブッ倒れていたら困っちまうしさ。」

 水谷君は変わった。特にこの後期日程に入ってからは一層。本気で藤近君を心配して、怒の感情を顕にして、今日はこれから家を訪ねるという。夏休みに良い事があったのだろう。羨ましいし、呪わしい。だから聞いていないし、今も止められなかった。家に居ないことを知っているのは私だけなのに。理由を問われ説明する状況がはっきりと想像できてしまって、恐ろしくて、首を突っ込むことができなかった。それじゃ、宜しくね、なんて白々しく見送ることしかできなかった。


 潜行の日は予定通り11月2日。父の命日に当たる。あと3日。雨の心配は無し。雨予報であれば日にちをずらすことも考えなくてはならなかったが、変更の必要はなさそうだ。私のささやかな、命を賭けた抵抗。新たな命を吹き込まれた場所に、かつて輝いていた命の姿を捧げる。それで何かが変わるわけではない。変えようとも思わない。願わくば、ひと握りの人でも構わないから思い出して欲しい。失われた命を。私の命もあげるから。万年筆で描かれた絵画は喪章とでも認識してくれればいい。逆恨みだということを重々承知の上で、この故郷に父の生きた証を刻み込んでみせる。言いたい放題、好き勝手に振る舞い、気が済んだら何事もなかったようにあっさりと忘れてしまう。そして人の命が、父の命が奪われたことなどどこ吹く風。

 これで思い残すことはない。

                                         

                                                           【4 宿痾(しゅくあ) 終】

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