第18話 ゼニのとれる風呂
この短編は、拙著「最弱球団と養護施設」にて公開しているものをよつ葉園編としてダイジェスト化したものです。
1956(昭和32)年12月X日 よつ葉園園長室
「そうか。それなら、少しばかり先行開業しよう。なんと申しても、せっかくできる『ゼニのとれる風呂』じゃからな、南海の鶴岡監督の弁ではないが」
よつ葉園では昨年末以来、地域住民の福利厚生を兼ねた銭湯機能付の園児用の浴場を建設していた。
当時は戦前の創立以来の木造園舎であったのだが、さすがに手狭になってきたこともあり、風呂場を改築して、それをさらに近隣住民の憩いの場とでもできればよいかという案がある理事から出され、その具体化のための組織づくりも行われていた。
そんな折に、願ってもない話が舞い込んできたということで、森川園長は、大いに喜んだ。
2月1日、川崎ユニオンズのキャンプが始まった。よつ葉園では、昼から風呂を沸かして、選手たちを風呂に入れた。球団からは、寄付名目での入浴料を毎日精算して支払うとの申し出を受けている。
彼らはランニングがてらに球場からよつ葉園まで走ってきて、それから風呂に入って汗と泥を毎日流した。その後、ベテラン選手たちはそれぞれタクシーで街中へと出向いて行った。若手選手たちは、風呂に入った後、ベテラン選手たちの荷物をタクシーでまとめて旅館に帰り、それから出るものは街中へと繰り出した。
だが、ユニオンズを取り巻く情勢は刻一刻と変化していた。東京では、すでに球団解散に向けての動きが活性化していた。練習が突如休みになる日も増えた。
そんなときでも、彼らはよつ葉園の風呂に来てひと風呂浴びてから、街中へと繰り出していた。
「よつ葉園もそうだが、養護施設っていうのは、昔の『孤児院』だよな。新聞や週刊誌に言わせれば、俺たちユニオンズは、人呼んで『球界の孤児』だぜ」
ある中堅選手が、キャンプが始まって最初の休みの日の前、滝沢旅館での夕食時にすきやきをつつきながら、そんなことを言った。周りの空気は、一気に重くなった。
少し間をおいて、彼は言葉をつないだ。
「ほっとけないじゃないか。そうでしょ! 練習がない日も、俺はよつ葉園さんの風呂に行くよ。運動を兼ねて。球団が金を出さなくたって、俺の金で入るよ!」
「そうだな、そうしようじゃないか」
「ぼくもいきますよ!」
「よしわかった。じゃあ、明日も各自、よつ葉園さんの風呂に入りに行こう」
笠岡和也監督が音頭を取った。誰からも、異論は出なかった。
翌日、彼らはウォーキングを兼ねて、各自、街中の旅館から少し郊外の津島町まで散策がてらに歩いた。よつ葉園銭湯の前には、彼らもよく知っている大学生が待っていた。その日の番台には20代にしては少し歳を重ねた、しかし品のある女性職員が座っていた。
「じゃあおねえさん、男4人です」
少し年長の青年が、100円札を出した。
「おつりは、いいです」
「ありがとうございます。ユニオンズの皆さんと大宮君ですね。どうぞ、ごゆっくり。あ、皆さん、お風呂上りにはその冷蔵庫の牛乳を1本ずつどうぞ」
「え? いいのですか、本当に? 牛乳までいただいて・・・」
「うちの仕入先の梶岡乳業さんの御厚意で、飲み物の中古の冷蔵庫を2台寄付してくださって、牛乳も売って頑張れと励まされているものですから。うちは4人分と牛乳4本でも、100円ならおつりが来ます。在庫を抱えてもしょうがないですし、せっかくですから、皆さん、ご遠慮なく」
「ありがとうございます。それでは、後ほどいただきます」
まるで青春映画に出てくる女優のような透き通った声が、更衣室にこだました。彼らはその声を受けて脱衣所で服を脱ぎ、風呂へと入っていった。
「哲郎、あの人は誰?」
体を洗い、すでに湯船につかっている西沢選手が、同級生になるO大生の大宮青年に尋ねた。彼は大学の講義が終わって後、西沢選手と風呂の前で合流して一緒に入っているのだが、この後彼らは、先輩たちと一緒に街中で酒を飲むことになっている。
「ああ、あの人はね、山上敬子先生といって、よつ葉園の保母さんだよ」
「独身の方?」
「残念ながら、人妻だよ。子どもさんも上が今年で4歳になるって」
「大宮君、天下のO大法科生が、人妻なんて言葉、人前では出すなよ」
同行していた先輩の井元四郎投手が、笑いながらたしなめた。
彼はやんちゃな選手なのだが、しっかりしたものを持っている。後にプロ球団のスカウトになったが、獲得する選手やその家族の持つ「気品」といったものには、他のスカウト以上に目を光らせていた。
川崎ユニオンズのスローガンは、「闘志と気品」。
その言葉を、彼はスカウト時代にも忘れることはなかったばかりか、自らの仕事に大いに活かしていたのである。
「わしらみたいな馬鹿はええけど、テッチャンはやめとき」
大宮青年より1歳年長の青野一郎捕手も、先輩の井元投手の意見に同意する。
「そら、確かに、残念かな(苦笑)。あ、そういう趣味はないからな、ワイ」
西沢青年が、面白おかしく言いながら話を戻したのを、大宮青年が受けた。
「でもさあ、ここの仕事って、結婚を理由に退職される保母さん、多いのよ。でも、あの方はつい何年か前に子どもさんが生まれたときに休職をされたけど、子どもを育てながら、ずっと、保母として勤めておられる」
「それはすごいね。なんか、時代を先取りしているみたいな人だな。うちの洋菓子屋にも、若い女性社員はいるよ。だけど、結婚後も続けるって人は、ほとんどいない。なんせなぁ、うちは神戸やから、お客さんと仲良くなったり、取引先の人に見そめられたり、店の外のどこかで出会ったりとまあ、きっかけは様々だけど、出会いが多いのよ。それで皆さん、結婚を機に辞めていかれる。だけどあの先生、よつ葉園の他の保母さんとは随分、雰囲気が違うみたいだな。いずれは、あの先生みたいな女性、増えるだろうね」
「確かに。ぼくが小学校の高学年の頃かな、あの方が18歳のときに保母見習でよつ葉園に来られた時から知っているけど、ホント、子どもたちのために、熱心な人でね、前の古京友三郎先生が園長をされているときから、その熱心さはすごかった。なんでも、満州の偉いさんの娘さんらしくて、戦争が終わるまでは何一つ不自由しなかったのが、戦争に敗ける前に親父さんの故郷の岡山に戻されて、そこから女学校にも行っていたのだけど、戦争に敗けてからほとんど無一文、自分も働かなくてはってことになって、随分、辛い思いをされているはずよ。でも、そんなことはおくびにも出さないで、若い頃からずっとここで子どもたちと一緒に生活されている。結婚されて、さすがに住込みというわけにはいかなくなったけど、それでも、熱心さは変わらない。むしろ、磨きがかかっているように思えるほどだ。でも、あの先生の気品は、ホンマものですよ」
西沢選手に限らず、大宮青年の話を聞いていた選手たちは皆、その弁に頷いた。
風呂を出て瓶入牛乳を飲んだ彼らは、タクシーを呼んで街中に行く予定である。
「済まんが、西沢と青野、よつ葉園さんの事務所に行って、電話を借りてタクシーを呼んでくれるか? 大宮君に、ちょっと、話しておきたいことがあるのでな」
井元投手は、普段ならこういう時、自ら先頭に立って先方に挨拶をしに行くほどの人なのだが、この日は後輩らに行かせた。
説教の続きかと思われたが、そうではなかった。
「大宮君、わしな、よつ葉園さんの敷地、どうにも、敷居が高すぎて・・・」
「え? 何かあったのです?」
「よつ葉園さんには何の恨みもないし、特に問題を起こされたわけでも、ましてわしが問題を起したわけでもない。牛乳もうまいし、風呂も悪くないし。一応、わしの名誉のために言っておくけどさ(苦笑)。実はだな、わしの名古屋の実家の近くに、同じような養護施設があるのよ。若松子どもの家というの。中学校の同級生で、そこから通ってきている奴が何人かいてね、仲良くなった奴もいた。あるとき、遊びに行ったのよ、そうしたら何だ、その施設の門をくぐろうとしたとき、あえて言うよ、若い女の怒鳴り声がしたのさ。ナニナニしなさい! って、年端もいかない子どもに、怒鳴って指示しているわけ。今の君らくらいの若い職員が。わしは、心底、ビビった。女のヒステリーと言ったら、君に下品なこと言うなとか偉そうに言う資格ないけど、それしか、高卒のわしには言葉が浮かばなかった。彼に聞いたら、その時たまたま何か事件が起こったってわけじゃない、その施設では、いつものことなんだそうな。そんなわけで、養護施設って言われると、何か辛くて、どうも足がすくんでしまうのよ。あの手の場所の独特の寂しさというか、うまく言えんけど、そんなことも感じられてしまってねぇ・・・」
「井元さんのおっしゃるところ、よくわかります。このよつ葉園にしても、いくら地域からも評価されていて、先駆的な取組みで定評のある養護施設だと言われてみでも、そういう感じがないわけじゃないです。茂の話じゃ、休みの日もよつ葉園の風呂に行こうって言いだしたの、井元さんだったって。青ちゃんに聞いても、そうだと言うし。それなのに今日はなぜ? と思ったら、そういうことがあったのですね」
「うん、そういうわけで、一人で行くのはどうも気が引けて、君たちを誘ったわけだ。やっぱりわしには、なんか、あの建物の中に入っていく勇気がないのよ」
「度胸満点のいつもの井元さんらしくないですけど、そういうお話でしたら、確かに、仕方ないですよ。ぼくも、よつ葉園に子どものころから何度も来ていますが、時にそういう声で保母さんが子どもに指示すること、見たことあるにはありますから。亡くなられた古京先生や今の園長の森川先生は、そういうことはできるだけするなと指導されていますけれども、時にやっぱり、そういうことが起こってしまうようですね」
やがて、事務所に行った2選手が電話を終えて帰ってきた。
「今日は詰まらんことにつき合わせて悪かった。わしのおごりだ!」
度胸満点の投手に戻った井元選手が、少し若い青年たちの前で高らかに宣言した。
タクシーがやってきた。彼らはタクシーに同乗し、街中へと出向いて行った。
この年の3月初旬、岡山キャンプの途中で、ついに川崎ユニオンズは「解散」の憂き目にあった。その日、選手たちは急ごしらえで作った「サヨナラ川崎球団」という模造紙とともに記念写真を何枚か残している。その記念写真の中には、球場の背後の反田山という小高い山を背景に、かつて「孤児院」と呼ばれた養護施設の建物が移っているものがある。
選手たちが「U」のマークをかたどって並び、帽子をとって手を挙げて振っているその向こうに移っていたのは、よつ葉園の園舎と、その年の2月に完成したばかりの白亜の銭湯であった。
そのときすでに銭湯は、煙突から煙を出していた。その日も、よつ葉園銭湯は入浴客を招く準備をしていたのである。
近鉄球団への移籍が決まった井元四郎投手は、そそくさとよつ葉園の風呂に入った後、旅館に戻って荷造りし、夕方の特急「かもめ」の三等車で近鉄球団がキャンプをしている大阪へと向かった。この日ばかりは、彼はよつ葉園の事務所に出向き、森川園長ら関係者にお礼の挨拶をして、新天地へと旅立った。
この日は、「若い女の怒鳴り声」は聞こえてこなかった。
後に彼がスカウトとなって岡山に用事ができたときにも、何度かよつ葉園銭湯に来たが、子どものはしゃぐ声こそあったものの、「職員の怒鳴り声」は聞かなかった。
「ゼニのとれる風呂」は、それから約四半世紀、その地にあった。10年ほどは黙認されていたものの、児童に労働をさせているという点を問題視した岡山県の福祉担当者は、銭湯事業の「中止勧告」をした。しかし、地元の人たちにも愛され、プロ野球や大相撲の興行などの折のこうした寄付を絡めた入浴がときにあったこともあり、この風呂の建設費はわずか数年で償還できた。
もっとも、その5年後に完成した鉄筋園舎の償還には、随分苦しむこととなった。
銭湯は金を生むが、ただ子どもたちと職員が寝泊まりするだけの園舎は、そうした利益を生むことはない。今以上に福祉への手当が不十分だった当時、それでもよつ葉園は、手をこまねくことなく、様々な方策を立てて子どもたちを育て、そして巣立たせていた。
やがて、津島町近辺は文教地区として脚光を浴び始め、自家風呂もほぼ完全に普及し切った。かつては近隣の銭湯に比べて安いからということで近隣の大学生も利用していたが、1970年代に入ると、各下宿にも自家風呂が出来始めたこともあり、わざわざよつ葉園の銭湯に来る学生も少なくなっていた。
最後の10年近くは、かつての男風呂だけを子どもたちと職員らの入浴に使うだけにとどめ、かつての女風呂は資材置場になった。そこを会議室にできないかという案も出たが、改築にあまりに金がかかるというので、その話はたちまちのうちに立消えとなった。
「ゼニのとれる風呂」はよつ葉園の移転とともに取り壊され、現在は個人病院兼自宅が建てられている。しかし、その建物の外壁もなぜか、白色である。そこはかつてのよつ葉園銭湯と同じだが、玄関はよつ葉園銭湯の逆で、国道に面した南側に設けられている。
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