第10話 措置解除
1981(昭和56)年5月1日(金) よつ葉園応接室にて
養護施設よつ葉園は1936(昭和11)年12月に岡山市津島町で創立され、戦争をはさんで45年。鉄筋コンクリートの園舎はまだ築後20年ほどで十分使えるが、創立以来のこの養護施設の雰囲気を醸し出している木造園舎はすでに2階を職員宿舎にしている程度で、1階は一部を除いて物置の役割を果たすのが精一杯。
24年前の2月に竣工した銭湯機能付きの風呂は、自家風呂の普及と岡山県からの行政指導もあって「銭湯」としての機能はすでに停止し、元女湯に至っては倉庫になって久しい。現在は、かつての男風呂のみを沸かし、園児と職員らの入浴をさせているのみ。夏場はある程度仕方ないにしても、秋から冬にかけては隔日で週4日程度しか沸かさない。これはもちろん、経費節減のためである。
よつ葉園の目の前は国道X号線。交通量は、この十数年の間に激増し、路線バスやトラック、そして自家用車が行き交う上下2車線の幹線道路である。この地でやっていくにはあまりにも手狭になった。
いくら目の前に「運動公園」と銘打たれた総合運動場があるとはいえ、遊び場も狭く、屋上の半分を運動場代りに使用してようやく何とかなっているようなこの地で、いつまでもとはいくまい。幸い周囲の地価が上昇している。この土地を売ってしまえば、それなりの金になる。郊外の地価の安い場所に移転すれば、補助金も出て特に借金せず、うまく行けば剰余金も出るかもしれない。移転問題は、昭和50年代に入って間もなく理事会などで持ち上がった。数年にわたる協議の末、津島町から郊外の丘の上によつ葉園の園舎はじめ機能を全面移転することが決定した。
この日よつ葉園では、普段第1月曜日に行われる職員会議が前倒しで行われた。3日以降は3連休となり、学校なども休みになる。移転が5月下旬へと迫っており、職員会議を後ろ倒しにするわけにもいかない。移転に向けて様々な協議事項もあるため、職員たちは年明けより大忙しであった。そのため、新年度恒例の「部屋替え」などは行わず、退職した職員と新任職員の引継程度のことは行ったものの、大規模な変更は行わないまま、移転までの2か月弱を過ごすこととなった。
よつ葉園が創立以来なかったことであり、移転後もしばらくの間、内外にさまざまな混乱を起こしていた。
その日の会議中、児童相談所から電話が入った。小学校入学前から6年近く在園している米河清治という入所児童の措置解除を決定した、とのこと。これはある程度、職員らには予想のついていたことであった。彼の父方の叔父・米河佳治氏が津島町で学習塾兼自宅を構えることにより、甥である米河少年を引取ろうという話である。彼は父方の祖父母の養子とされていたのだが、その養父母が彼の小学校入学を前に相次いでがんで死去。その頃はまだその叔父は若く、引取る余力がなかったのだが、学習塾を街中である程度軌道に乗せることができ、生活基盤も整ったということで、これを機に、彼を引取ろうということになったのである。
この叔父は兄である米河少年の父の経営していた電気屋を手伝いながら、大検を経てO大の二部法学部を卒業したという人物である。もっともその兄、すでに電気屋を倒産させていて、兵庫県赤穂市で花屋を営む親戚宅に身を寄せていた。その下にいる姉は看護婦(現「看護師」)になっていたが、まだ20代前半で独身であり、とても兄の子の面倒まで見られるゆとりはない。今は結婚して神戸市内にいるとのこと。やむなく児童相談所を通して岡山市内にある養護施設よつ葉園に「措置」されて少年期を過ごしていたのだが、この叔父はよつ葉園の移転があると聞き及び、津島町に自宅兼学習塾を開くこととした次第である。津島町の小学校区は文教地区として脚光を浴びつつあって、住宅も激増していた。そのため、学習塾を開けばそれなりの需要が見込める。すでに市街地の学区で学習塾を開いていた叔父は、次なる教室展開の地を津島町に定めていた。それは幸いにも、甥がいる養護施設のある学区だった。米河佳治氏は、この年6月より津島町で教室を開く予定で動いていた。同時に、甥を養護施設から「救い出さねば」と思っていたのである。
それほど面会できていなかったが、小5の12月に面会した折、これなら引取って自分の手元で学ばせた方がよいという結論に達した。そして、年明けから教室展開の準備とともに、知己の弁護士などと協議し、甥を引取る手はずを少しずつ整えた。
彼は、何度かよつ葉園にも来た。そして、東園長や大槻指導員らとも協議した。
3月末に彼が来園したときには、ついに、こんな言い合いに発展してしまった。
「いやあ、30歳前の若いあなたが12歳の甥を引取られて、本当に大丈夫ですかな。うちも、今どきのことですから、このよつ葉園におる子どもたちを、せめて高校まではいかせてあげたいと思っております。幸い、移転先は自然に恵まれた丘の上ですから、彼をそういう環境で育てるという選択肢もあると思います。その方が、あなたの家計にとっても利益になるのではと。何、面会はいつ来てくださっても構いません。彼が自然豊かな地で情緒を育んで、今まで一緒に育ってきた兄弟のような子たちと、同じ釜の飯を食べて、共に過ごすことで社会性も育めると思うのですが、どうでしょうか? 何でも、O大のサークルに呼ばれて大学にも行っておるようですけど、それより今は、まだ子どもなのですから、子どもらしく、移転先で同世代の仲間たちとともに過ごした方が、長い目で見ていいのではないかと、私は思うのですが・・・」
70歳を超えている東園長は、そう言って、若い叔父に甥の措置継続を勧めた。
米河少年の叔父は、その言葉を黙って聞いていたが、静かに、反論を始めた。
「何が高校までですか、恩着せがまし気に。高卒程度でこれからの社会、わたっていけますか。彼には、最低O大学に行くだけの学力をつけさせなければならん。それを何だ、あんた達偽善福祉屋風情が、自然豊かの同じ釜の飯の仲間のヘチマの、そんな美辞麗句ともつかぬ言葉をまぶして、うちの甥の将来を奪う権利があるのか? 子どもは子どもらしく? 笑わせるな! 当方は甥が大学に行くまでの学資は用意しています。O大附属中でもよいが、近くの津島中を受験させます。この私学独自の奨学金制度もありますから、それを使って学ばせることも十分可能だ。公立の伊島中も悪くはないが、せっかく勉強するなら、徹底的に学ばせねばならん。何が悲しくて、路線バスも走らん僻地に住まねばならん! 私はすでに、児童相談所相手に移転までには措置解除できるように手続しておる。あなたや県の木っ端風情がガタガタ抜かすなら、訴訟も辞さん! すでに訴状作成について、バスの車掌をしながら定時制高校を出てO大に進んで弁護士をされとる奥澤渡大先輩と、鋭意協議しておる。私はね、勤労党筋の考えは好きになれんが、目的達成のためなら悪魔とでも手を結ぶ。わかった口も、ほどほどにされることですな!」
若い叔父は、ドスを利かせたような声で老園長に言葉の刃を向けた。
「わしはあんたやあんたの甥が憎くて言っているのではない。ためを思って言っているのだ。それがわからんのか? 大学まで行けなくとも人間としてよければ、手に職をつけて家庭をもって、子どもに夢を託して幸せに暮らせれば、それもよしではないか!」
老園長が声を荒らして反論した。若い叔父も、それに負けず罵声を浴びせた。
「人間としてよければ? 手に職? 寝くそトボケたこと抜かせ! 仮定法の出来損ないを並べるしか能がない師範学校の落ちこぼれが教師に成りあがったそのなれの果てのロートルがこれか、無能の浅知恵の羅列とは、このことを言ったものなのだな。ためを思えば何を言っても免罪符になるとでも思っておるのか知らんが、ええ加減にさらせよ! オドレ見たような偽善者教師に教わった教え子サンら、ホンマに、可哀そうやナ!」
これではまずいと思ったのか、老園長は、いささか下手に打って出た。
「まあまあ、君・・・」
「まあまあなあなあは、私には通用せん!」
「そねぇ怒らぁでもエエがぁ。あの子に対する思いは、私らぁも一緒じゃぁがなぁ」
「小汚らしい岡山弁でネチネチまとわりつくような、くだらん情緒論を述べるな!」
ここで、30代半ばの大槻和男児童指導員が止めに入った。
「米河さん、お待ちください! ・・・それから園長先生、どうかお静かに願います」
大槻指導員は、激情を込めて口論を止めた。彼は自らの職業観においても、さらに世代差という点においても、彼は老教師よりも入所児童の親族である若い叔父の弁に共感していた。大槻指導員は、米河氏に対し口を開いた。
「東が先ほど無礼なことを申したことは、どうかお許しください」
「いや、許さん。大槻さんが土下座されても、だ! 人の人生を軽く見よって!」
自分よりいささか若い叔父の言葉に、大槻指導員は一瞬ひるんだ。
「いずれにせよ、このよつ葉園があなたの甥御さんに力をつけてやれる場所になっていないのは、残念ですが現実です。ですがひとつ、米河さんにお願いがあります。措置解除となれば、そこであの子とはお別れとなるが、津島町に来られるあなたのご自宅にも、時に伺わせていただきたい。これはよつ葉園の職員としてではない。あくまでも一福祉人大槻和男として、彼のこの後を、きちんと見守りたいのです」
叔父は、大槻指導員の言葉が終るのを待って、少し間をおいて答えた。
「全面移転までには、甥を引取らせていただく。丘の上などに住ませる気は毛頭ない。それから、大槻さんと以前おられた高尾先生のお二人には、特に感謝しております。あなた方のような職員さんがおられたことで、甥も、この地に足掛け6年過ごして、大いに生きていく糧を得られたと思っております。大槻さん、私の甥・米河清治はこちらで引取りますが、その後も何かあるようでしたら、ぜひとも、力になってやっていただければと思っております。それにしても大槻さん、あなたは大したお方だ・・・」
「いえいえ、とんでもない。私どもとしては、随分至らぬところばかりでした。うちには山上敬子というベテラン保母がおりまして、彼に対しても、先ほど東が述べたようなことを述べております。もっとも彼女は、終戦直後からずっと30年以上にわたってこのよつ葉園で保母として働いてきた人物ですから、確かに、子どもたちに対する愛情とか、保育技術、それに子どもたちの仲間づくりや行事など、そういう方面に対しては確かに素晴らしい人材ですが・・・、まあ、それ以上は申しますまい。よつ葉園としては、無理を言って彼を押しとどめるわけにはいきません」
東園長は、憮然とした表情を崩さず、席を立った。
「そういうことなら、仕方ありませんな。言い過ぎたことは済まなかった・・・」
いささか力なく言い訳がましい言葉を並べた老園長を、入所児童の叔父は決して見逃すことはなかった。
「人の人生を軽く見て適当な寝言並べくさった挙句に「済まん」で済まそうって? 大体だな、あんたたちの常々のたまっておる「家族」だの「親兄弟」だの、「同じ釜の飯」だの、そんなものはどれもかしこも「ギミック」に過ぎんのや! それでわからんなら教えて差し上げるよ、「子どもだまし」だ! よく覚えておかれることですな!」
30歳前の「若造」の吐き捨てるような嫌味と罵声を、老園長は黙って耐えた。
入所児童の叔父が去って後、老園長は30代の男性指導員の横でつぶやいた。
「彼の言うことは、確かに、当たっておる。辛いが、それが現実じゃ。でもなあ、大槻君、この地を維持していくには、彼の言う「子どもだまし」であっても・・・」
大槻指導員は東園長の言葉を、黙って自らの頭と心の中で咀嚼し続けた。
あの「口論」から、すでに1か月半が経過した。この日の職員会議では、移転に関わる事項が次々と協議された。会議は夕方までかかった。
大卒3年目の尾沢康男指導員は、移転先の児童宿舎となる各寮の担当者と入所児童の割振りを提案し、その意義を熱心に語った。それはすでに4月中に、同学年の谷橋英男指導員とともに各職員らに根回しして決めていたもの。
各寮の担当職員と児童の割振りは、いくらかの変更はあったものの、おおむね尾沢指導員の提案通りの形で決定した。
「これまで大舎制で運営してきたよつ葉園を、この移転を機に中舎制にし、さすがに男女は部屋を分けるにしても、あらゆる世代の子が同じ寮のひとつ屋根の下で、兄弟姉妹、家族のように過ごす。3つの寮は、それぞれ子どもたちの「家」として、そこでずっと過ごし、そして社会に巣立っていく。そんな「家庭」を、あの地に3つ作るのです。自然に囲まれた丘の上で、交通事故などの心配もなく、子どもたちが情緒豊かにのびのび過ごせる3つの「家庭」が、私案のコンセプトです。今までのように毎年春になったら「部屋替え」とか、そんなことで子どもたちの住む部屋や担当職員を変えたりすることはできるだけやめて、暖かい家庭をあの地に作るのです」
東航園長と山上敬子保母は、満足な笑みを浮かべて尾沢指導員の提案を聞いた。
3つの「家庭」があの丘の上にでき、それぞれの「寮」という名の「家」の子どもたちを時々集めて、地域の子どもたちの集まる行事にもしっかり取組んでいける。ベテラン保母はそう感じ、期待に胸をふくらませた。
しかし、来年度より園長就任が確実視されている大槻和男児童指導員は、尾沢指導員の提案に理解は示したものの、果たしてそうそう、いつまでもうまく行くものかと思いつつ、冷めた気持ちで彼の熱弁を聞いていた。
5月半ば、移転より一足先に、米河清治少年は岡山県より「措置解除」を受けて養護施設よつ葉園を退所し、叔父の米橋佳治氏が住む学習塾兼自宅へと移っていった。
小5の秋に「スカウト」されたO大鉄研の例会にこそ通い続けたが、それ以外の日は、中学受験に向けての猛勉強が始まった。彼は、養護施設という名の自らの自由を束縛する場所から逃れて自由になった喜びと徹底的に学ぶ機会を与えられた喜びとを、それから約10か月間味わいつつ小学校最後の1年を過ごした。
私立津島中学には無事合格し、入学できた。
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