第17話 いつまでも あると思うな 給料日

2019(令和元)年9月中旬 岡山市中央区H町付近のすし店にて


注:この文は、××ラジオ代表大宮太郎氏が妻でありアナウンサーでもあるたまき氏と、よつ葉園卒園生の馬場寛治氏を取材されたときの手記です。


 あたりもほぼ暗くなった18時過ぎ、ぼくら夫婦は自転車に乗って寿司屋の前にたどり着いた。仕事場に行くとき、ぼくらは基本的に自転車で行くことにしている。自宅から職場までおおよそ15分もあれば行けるからね。大病を患った経験のあるぼくはともかく、たまきちゃん(昔からそう呼んでいるし、呼ばされてもいるので、お許しを)は運転免許も持っているが、あまりクルマを運転することはない。乗るのは、たまに買い物に行くときとか、どうしても仕事で必要な時ぐらいだ。

 寿司屋の玄関には、馬場さんと思われる年配の男性が待っていてくれた。60歳をいくらか超えたとのことだが、見かけは40代後半かと思えるほど。早速店内に案内され、お話を聞くことに。ありあわせの食材で簡単な食事も作ってくれていることに加え、よかったら一杯飲んで帰られませんかとおっしゃるので、お言葉に甘えて飲むことにする。大将の馬場さんも飲める口で、しかも店の上が自宅でもあるから、飲酒運転の心配もない。奥さんは数年前に亡くなられたそうだが、子どもさんたちはすでに成人して独立している。皆大学まで行って、寿司屋を継ぐ人はいない。というより、身内には誰にも継がせない方針だ。

 ぼくらは自転車だし、どうせ自宅はここからそう離れた場所じゃないし、押して帰ればなんてこともない。子どもたちは大学生や社会人になっていて家にはいないし、両親も別居で今日は特に来るとも言っていないから、ちょうどいい。ここで夕食を済ませてしまおうってことになった。あいさつを済ませ、用意している食事と何本か瓶ビールを持ってきていただき、早速乾杯して食事をしつつ、インタビューも並行して進める。

 一応ボイスレコーダーも回しているが、もうこの際気にせず飲んで食べる。

 馬場さんも、何杯かビールを飲んで御機嫌よくなってきた。

 広島カープの元オーナーの言葉で、「茶は10年、酒は1年」という言葉がある。

 これは、相手の本音を引き出すうえで、お茶ばかり飲んで話してもそう簡単にはいかないが、一緒に酒を飲めばその時間は大幅に短縮され、より深い話も聞ける、という趣旨だとか。しかし「酒は1年」どころか10分ぐらいで、よつ葉園のことも、こちらが聞くまでもなく話し始めてくれた。追加の瓶ビールを取りに行くついでに、カウンターの横においてあった写真をもってきて、見せてくれた。


 私は、物心ついた時からよつ葉園にいました。両親も、どこにいるかわかりません。住民票や戸籍の附票などで追ってみましたが、無駄でした。その過程にはいろいろありましたけど、まあいいでしょう。今に至るまで、両親には会ったこともありませんし、顔も知りません。

 ただ、よつ葉園にいたころの写真は今も持っていますよ。

 確か昭和43年の夏頃ですかね。写真の日とのことで、よつ葉園に写真館の人が来て、集合写真を撮影してくれました。黒縁眼鏡の若い男性が、前園長の大槻和男先生です。この年確か、新卒でよつ葉園に就職されたはずです。こちらのノーネクタイのワイシャツの年配の男性が、小学校の校長を定年退職してよつ葉園に来られて、のちに園長になった東航(ひがし・わたる)先生です。それから、丸眼鏡をかけている、こちらのお年を召された方が、当時園長の森川一郎先生です。この先生は本当に立派な方でした。この方が努力されていたから、よつ葉園は地域の人たちからも愛されていて、ぼくらも、よつ葉園で伸び伸びと育つことができました。大槻先生の横にいる中学生が私です。このとき確か中3でしたね。大松君、彼はこの春、事故で惜しくも亡くなられてしまったが、彼は、前のほうに座っている、ほら、このちょっとやんちゃそうな子がそうです。


 そうそう、当時、よつ葉園の風呂を銭湯にして津島町近辺の近所の人たちに来てもらっていた話ですけど、私もね、そういうことは積極的に手伝っていましたよ。目の前にある武道館や野球場に来た大相撲やプロ野球チームがあれば、寄付がてらに幾分お金ももらっていたそうですし、近所の人たちの入浴代もあって、この建物は割に早く償還出来て、運営上、大いに助かったと聞いています。

 ほら、岡山県営球場で解散になった、川崎ユニオンズという球団があったでしょ、あの年にちょうど、この風呂はできていましてね、できてすぐ、それから1か月少々、あの球団の選手たちが練習後に来てくれていたので、あれでよつ葉園は相当助かったみたいです。

 そういうときは、それなりの寄付も入っていて、燃料もそれなりに買えますから、大人が入ってもいいぐらいの熱さになるように炊きますけど、普段は、子どもが基本的に利用する風呂ですから、そんなに熱くはできないじゃないですか。

 よく風呂に来てくれる人の中には、近所のよく知っているおじさんがいましてねぇ。津島町のよつ葉園の近くで工務店をしていた人でした。風呂上がりに薪を焚いている私らに向かって、

 

 「ぬるいぞ!」

 

 なんてよく言っていました。なんでも、ひと風呂浴びてから街中に寿司を食べたり一杯飲んだりしに出かけていたそうです。ですけど、もともとよつ葉園の子どものための風呂だから、あまり熱くするなと言われているし、園長先生から薪も節約しろと言われているし、大体、近所のほかの銭湯より料金だって「安め」なんだから勘弁してくださいよと言ったことがありましたね。

 そうすると、そのおじさん笑いながら、そんなことはわかっとる、それよりも、手伝いと称して風呂焚きをするのが悪いとは言わないが、しっかり勉強しろよ、って、言われました。

 実はそのおじさんが、私に修行先の寿司屋を紹介してくれたのです。なんでも、その寿司屋の大将の幼馴染で、小学校の同級生でしてね。その後、私が寿司屋を出した時もお祝いに来てくれましたし、引退した今も時々店に来てくれます。大将も、今は90歳近くになっていますが、これまたお元気な方で、工務店のおじさんと一緒に時々うちに来ては、私にひとしきり訓戒を与えられています。工務店はとっくに息子さんが継いでいらっしゃいますし、大将は10年ほど前に店を閉めたというか、若い人に譲りましたから、お二人とも、とっくに悠々自適です。たびたび、朝から郊外の源泉かけ流し温泉に行っては、一杯飲んで帰ってくるのが楽しみなのだそうです。

 おじさんからは、修行中にも、もし店を出すつもりなら最低でも簿記だけは勉強しておけとか、いろいろとアドバイスをくれました。税金のこととか人の使い方とか、店に来るたびに様々なことを教えてくれました。

 学校こそ行っていませんが、独学で、あるいは中学の同級生の知合いの高校生や大学生になっている人たちから、いろいろ教えてもらいました。おじさんも、俺の話ばかりじゃなく、頭下げてでもそういう人らに教えてもらえ、それが将来にわたって君にとっての「人脈」につながってくるぞ、って、よくおっしゃっていました。

 そのころ知り合った同世代の元高校生や大学生の人たち、今もうちに寄ってくれます。偉くなっていった人もいます。その人たちがまた、いろいろな人を連れてきてくださる。本当に、人とのつながりは大事です。


 私たちがいたころのよつ葉園は、本当に貧しかったですが、夢はありました。

 「一生」懸命に働けば報われる日が来る。そう素直に思えた時代でした。

 なんせ金の卵といわれた地方の中学生が、東京や大阪の都会へ集団就職していた時代です。岡山県でも県南はともかく県北では、大阪方面への集団就職が実際ありました。もっともそれなり以上の労働力の需要がある県南では、そんなことされると、働き手がいなくなってしまう。逆に、近隣の地方から働き口を見つけにくる若者も多かった。もちろん、よつ葉園で育った先輩の山根さんみたいに、こんな田舎街なんか居たくもないと関西方面に出て行った人もいますが、中学校を卒業した生徒が集団で出ていくなんてことは、この一帯ではまずなかった。

 私は中学校を出てすぐ、駅前の寿司屋へ修行に入りました。確かに厳しかったが、暴力は大将から厳しく禁じられていましたし、先輩も殴るようなことはなかった。面白おかしくいろいろなことを教えてくれた人もいたし、ものすごくまじめな人もいました。

 大将は社会性という面でものすごく厳しかったから、あまりに仕事に対する姿勢の悪い者は、容赦なく辞めさせられました。大将も含め尊敬できる先輩方はどなたも、言葉は一見穏やかだけど、よくよく聞いてみればこんな厳しいものもないほど厳しかった。

 当時の子どもたちは普通に叩かれて殴られて育っていたはずですし、現によつ葉園だってその頃はそんなものでした。

 ですけど、その寿司屋はそんな場所じゃなかった。

 殴られるより厳しい世界があるのは、その修行先の店で始めて身をもって知りました。

 その店に最初に勤めた日のこと、忘れもしません。


 君は、この店にいつまでも勤められて、飯も賄いで食わせてもらえて、実質住込みでいられて、しかも小遣いがてらに給料がもらえる、なんてことを思ってはいないか? もしそうなら即刻辞めたまえ。今ならいくらでも働き口はある。何なら紹介してやらないこともない。

 だがうちに来た以上、君が寿司職人という仕事を通してこの社会で身を立てていくために、私はいくらでも協力してやる。高校や大学を出て就職して定年まで勤めて、なんて感覚でうちに居られても困る。君はいずれ独立して、一国一城の主となるべきだ。君には力は十分ある。だからこそ、この言葉をしっかりと胸に刻んで修行に励みな。


 そういうが早いか、大将は、一枚の紙を私に差し出し、これを、部屋の机の前にでも貼っておきなさい、と言いました。

 その紙には、こんなことが書かれていました。


「いつまでも あると思うな 給料日」


 読んでみろと言われるまでもなく、口に出して読んでみると、大将は、にやりと笑って、さらにこんなことを言われました。


 君ができるだけ早く自分の店を構えられるように、私も力になれることはしてやる。そのあとは、その店をもとに事業を興していくもよし、その店を守り続けるもよし。これから先、まずは高校、それから大学に行かないとどうにもならない時代が来るだろうが、今は幸か不幸かそうでもない。少しでも早くスタートして自ら身を立てられるように頑張ってほしい。君には、それだけのことができると踏んだからこそ受入れた。

 それから、寿司を握れるようになることがこの店の「修行」ではない。寿司さえ握れたらいいなら、そんなことはいずれ、機械でもできるようになるだろう。

 もっとぶっちゃけた本音を言うと、よつ葉園の職員らにしても、福祉関係の公務員近辺の者どもにしても、子どもらに「手に職をつけて」などと言っている大人は、技術でも身に着けてせいぜいがんばれと相手を小馬鹿にしているのが実態でなぁ、さして信用できないのが相場よ。

 まあ、これはよつ葉園の先生なんかに、私がこんなことを言っていたなんて言うなよ。工務店のおじさんは、昔から散々言っていることだから、いいけどな。

 寿司屋をやっていくことで一番大事なのは、寿司を握る技術なんかではない。手に職なんかで済む話じゃないことは、店をやっていけばよくわかる。寿司職人としての修行は、ここを独立してそれで終わりじゃない。一生続くものだからな。よく心得ておきなさい。


 自分でも思っていないほどの評価をされているようで、びっくりしました。確かに小中学校を通して、勉強はしっかりやってきたつもりです。公立の普通科高校こそ無理でも、中3の2学期で、全日制の商業高校に何とか合格できるぐらいの学力はありました。中学校の先生も、これなら商業高校に行って簿記などを勉強してから社会に出ても遅くないだろうと言ってくれましたけど、それは、思うところあって辞退しました。大将は、幼馴染の工務店のおじさんを通して、私に関する話を聞いた上で受入れを決めてくれたのです。

 それにしてもねぇ、その後、寿司を握る機械ができたとニュースで聞いたときは、びっくりしました。本当にこんな時代が来たのか・・・とね。

 

 後にZ君という子が、それこそ私が寿司屋に修行に入った年に生まれた子のようですけれど、彼がよつ葉園で初めてO大に進学したことを、30年ほど前、大松君や大槻先生からお聞きしました。Z君とは直接お会いしたことはありませんが、彼の話を大松君や大槻先生からお聞きする限り、確かに「努力」したことは認めるにしても、時代が違うとはいえ、中学を出てすぐ働き始めた私からすれば、何だか贅沢な「苦労」というか、そのように感じることも確かです。でもね、Z君の話す内容が確かに大槻さんや大松君の述べている通りであるなら、その指摘は、よつ葉園に限らず養護施設を取り巻く状況の問題点、いや、社会全体の問題点が含まれていることも、また確かです。

 そのような指摘がきちんとできる卒園生が出てきたことを、よつ葉園は喜ぶべきです。ボロクソ叩かれたからむかついたとか、ましてやあのクソガキはとか、そんな姿勢じゃだめだ。

 話を私自身のことに戻しましょう。

 私はその店で10年ほど修行して、25歳で自分の店を出しました。大将が、陰に陽に様々な力を貸してくださいました。独立するにあたって、「この後は事業化するもよし、生涯一寿司職人としてやっていくもよし」と、かねて言われてはいましたが、結局、事業化はせず、寿司職人として一生を過ごしていくことにしました。支店を出すことも考えましたが、そこまで経営の才覚もないと思ったのでやめました。

 ただし、大将が高齢になって引退するにあたって、かつての勤め先だった店の手伝いには行きました。いずれ自分自身が身を引く時のために勉強を兼ねて出て来い、とのことでね。

 私も、何人かの弟子をとりました。今もこの店で修行中の子はいます。今日は休ませていますけどね。ただ、長続きする子、まして、この世界で身を立てていけている子は、そういるわけではない。

 そうはいっても、私のもとで修業して、他の道に行って成功した子はいますよ。どんな世界に行ってもそこで通用するだけの人材にしてやろうという気持ちだけは、忘れていません。私がこれまで関わった若い子たちの中には、すべてとは言いませんが、養護施設出身の子も、何人かいますよ。

 一方では、勉強自体はよくできたのだろうが、普通科高校の受験に2度にわたり失敗して定時制高校に行き始めたのはいいが、ここでは勉強できないと言って退学して、どういうわけかうちに寿司屋の修行に来た子もいました。確かあれは宮本哲三君という子でね、県北のほうから出てきた少年でした。別に養護施設出身だったわけじゃないけど。

 大検でも受検して大学に行けば行けたのでしょうけど、大検は難しいからとか何とか言って、物事をろくに調査もせずにそういうことばかり言うような人物で、仕事でもそういうところが多々ありました。これじゃあどうにもならないから、3か月ほどで辞めてもらいました。そんな姿勢では、私らの世界でも使い物になりません。

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