第19話 十一年ぶりの舌戦
この話は、拙著「一流の条件~ある養護施設長の改革人生」における、「老保母の定年退職」の続編です。また、同著「退職勧奨」の章で登場人物らが述べている事件の事実関係でもあります。
1996(平成8)年2月上旬 よつ葉園園長室
2月のある平日の昼過ぎ、よつ葉園に老婦人が来訪した。彼女の名は、山上敬子。かつて、よつ葉園が津島町にあった頃から38年にわたり、保母として勤めた人物である。
「大槻先生、おひさしぶりです」
「山上先生、お久しぶりです。まあ、どうぞお掛けになってください」
そう言って、大槻和男園長は大先輩である元保母に、ソファに腰掛けるよう勧めた。
「7年ほど前のOB会以来ですな。お元気そうで何よりです」
「ええ、おかげさまで元気にさせていただいております。一番上の孫が、今日来てくれている19歳の子でして、S女子大生の彼女を筆頭に、皆大きくなりました。まだ幼い孫娘は、何ですか、土曜日の夕方にやっている「セーラームーン」とかいう番組が好きで、毎週欠かさず見ていますね。親と言いますか、うちの息子ですけれども、気を利かせて、見られないときのために、すべて録画を撮ってやっています。孫以上に、息子のほうがセーラームーンにはまってしまいましてねぇ。いい年のおじさんが何を考えているのかと言いたくもなりますが、まあ、それは言わないでおります。それにしても、私がこのよつ葉園にいた頃に比べて、随分変わってしまいましたね、世の中も、人の心も。でも私自身、同世代の人たちといろいろ楽しみながら、悠々自適に過ごしております」
大槻園長のことばに続けて、山上元保母は近況を述べた。彼女が定年でよつ葉園を去って11年。
昨年50歳になった園長は、この数年来のよつ葉園の状況を老保母に話した。
それは、慶賀に堪えないことですな。
確かに、世の中は随分変わりました。ここにいる子どもたちの雰囲気も、私はよくなったと思っていますけれど、なかには、悪くなったとおっしゃる人もおられよう。それはいい。捉え方は、人それぞれですから。
そうそう、今年久々に大学進学者が出る見込です。8年前のZのときは、こちらもまだ力がなく、ろくな対応ができなかった。尾沢君にこの仕事での実績を作ってもらおうと思って任せましたが、どうも、裏目にばかり出たきらいもありました。それもあってね、くすのき学園から来た山崎君に中高生男子の担当を全面的に任せて、あとは、彼らとうまくやっていけそうな保母にサポートさせて回しております。
まあねえ、この手の仕事は、短大を出てすぐの保母でも回せる仕組みにしておかないと、いざというとき収拾がつかなくなる。
職人技的な対応は、確かに、よいときはよいのですが、いざその「職人」が倒れてしまえばそれまでですからな。
「手に職」なんて言葉を使って子どもたちに進路指導をしていた時代じゃない。今どき、そんな道に進む子は、ゼロではないが、あまりいません。
大槻園長は、社会性を重視する人物である。そこを「人間としてよければ~」といった言葉でごまかして肝心なことができていない状態を改革すべく、園長就任後10年以上にわたり、努力を重ねてきた。
それがようやく、全体的に実を結びつつあるという手ごたえを感じていた。
そうですか・・・。
私はもう年ですから感覚がいまだに違うままなのかもしれませんけど、私個人の思いとしては、昭和の昔、それこそ、Z君や米河君が生まれる前の、子どもたちが子どもらしく、外で元気よく遊んでいたあの頃が、とても懐かしいです。大槻先生にしても、大学を出て児童指導員として津島町で頑張っていた頃の、子どもたちと毎日元気に遊んでいた若い頃が、私には、ずっと印象に残っています。
園長になられて後は、立場上致し方のないことですが、それでも、あの頃の大槻指導員のように、情熱を持って、子どもたちを引っ張って行って欲しいと、私は、ずっと思っていました。今も、それは変わりません。
よつ葉園から大学に行く子が出たことは、いいことです。でも、それよりも大事なことが、あるのではないでしょうか?
彼女の言いたいことは、おおむね判っている。大先輩でもある老保母に対し、大槻園長は声を荒げるでもなく、静かに話し始めた。
山上先生のおっしゃる「それよりも大事なこと」ですが、それを否定し去るつもりはありません。しかし、今このよつ葉園で暮らす子どもたちに対して、そんな言葉を錦の御旗にして、今なすべき努力を怠っていいことにはならない。これから大学に行く子や、これから社会でしっかりと仕事をして行くべき子たちの将来を妨害する権利など、私どもにあるはずもない。
森川は園長時代、このよつ葉園はここで過ごす子どもたちの家であり、巣立ってから後も、彼らの故郷になってほしいと申していた。私も、Z君がO大学に合格した頃にはまだ、そういう理想に一縷の望みを持っていました。彼が大学に合格してこの地を去ったときのことは、忘れもしません。確かに私は、最後にこう言いました。
「このよつ葉園を、おまえの帰ってくる家だと思え」
とね。彼は、その場では反論しませんでした。
しかし、彼は私に対して、明らかに軽蔑を込めたまなざしを向けてきました。
後にZ君が尾沢君や山崎君に述べていた言葉を総合すれば、確かに、彼は怒るだろうなと思うに余りあった。
「くだらない上に役に立たない情緒論ばかり述べて、物事を判断するにあたって肝心な情報を何一つ伝えられないあなた方に、人を指導とか、おこがましいにも程がある!」
そのような趣旨の言葉を、彼は散々、山崎君と尾沢君に浴びせました。
それでも彼は、言うだけのことはありました。
自らの社会性を高めるべく、高校時代からずっとたゆまぬ努力を積んでいましたから。そんな彼に、子どもだましなど通用するはずもありません。
そうそう、あのOB会の件でも、こんなことがありました。O大の授業料免除に関わる申請で彼が私のもとを訪れようとしたとき、その電話で、尾沢君が、何を言ったか。
「ハネにしよう(排除しよう、の意)としたわけじゃないが、実は、この11月X日に、うちの集会室でOB会をやるので、もしよかったら、来たらどうだ」
とね。たまたま私は、事務室で聞いていた。これはちょっとまずいなと私は思ったが、そのときは何も言わなかった。やっぱり彼、その後授業料免除の申請の件で来た時は、怒るのを通り越して、すっかり、呆れていましたね。
「そういう話は、きちんと案内を送るなり何なりすることでしょうが。家族だからとか何とか、そういう言葉でごまかして、こちらが電話をかけてきたついでの駄賃でへらへら笑いながら述べることではないでしょう!」
そのことで山崎君は、電話代や郵送の手間を省くために、尾沢君がそういう形で伝えたと、そうとることはできないだろうか、とZ君相手に言ったそうです。それで相手をなだめたつもりか知りませんが、そりゃあ、ますます相手が怒りこそすれ、怒りを納めるなんてことになるものかと、私も内心呆れました。ご存じのとおり、結局彼は、あのとき、来ていなかったでしょう。
こうも社会性のないことを「家族」とか「家庭」とか、それこそくすのき学園で園長をされた稲田健一先生みたいに、何ですか、「子どもたちのムラ」とか何とか。
そんな美辞麗句でごまかすような職員しか育てられていない私自身が、本当に情けなかった。
私がジャガーズクラブに入ったのは、あの翌年です。確かに、寄付を集めやすくしたいという下心のようなものがなかったと言えば、嘘になる。しかし何よりも、私自身が社会性をもっと身に着けて、Z君や米河君あたりに対してもきちんと顔向けできるだけの仕事をしなければいけないと思い立ったからです。ご存知とは思いますが、そこには、企業の経営者や弁護士や税理士などの専門職、大企業の管理職クラスの人が集っています。彼らと御付合いさせていただく中で私は、社会性を磨けているという実感をもてています。
山上保母は、大槻園長の話を、顔を少しばかり下に向けて聞いていた。
園長先生、いや、大槻君。あなたは、随分変わってしまいましたね。確かに、大槻君の言われる通り、養護施設の職員に社会性が乏しいことは、私も、定年退職後に様々な人と御付合いしていく中で、痛感することが多々ありました。ですからそれを克服するべく、大槻君が努力されてきたことは、大いに認めます。
米河君もそうですね、O大学の先輩方に随分可愛がっていただいて、小学生以来様々なことを学んできたとのことですし。それも、私は認めます。
先程のZ君に対するOB会の案内にしても、確かにいかがなものかと思います。彼に対する前川先生や高部先生のような若い保母さんたちがまったく至らなかった点についても、それは大いに問題です。でもね、よつ葉園というのは同じ釜の飯を食べた仲間、家族じゃないですか。もっと、寛大になって欲しいのです。
これは、私の勝手な要望です。
大槻君には、大学を出てよつ葉園に来て、森川先生のもとで一所懸命、児童指導員として子どもたちと毎日元気よく遊んでいた頃に、どうか、戻っていただきたい。米河君やZ君には、時には、このよつ葉園という「故郷」に帰って来て欲しい。過去のことは水に流して、昔の仲間たちと、この地に帰ってきて、思い出話に花を咲かせて欲しいのです。
おそらくこんな願い、今の大槻君にも、ましてZ君や米河君にも、金輪際届くことなどないでしょう。
大槻先生に、ジャガーズクラブなんかやめて、昔のように子どもたちと遊べ、などと述べる権利は私にはありません。
ですが、どうか、私の言葉に耳だけでも傾けてくださいと言うのは、どうやら、無理な相談のようですね・・・。
トントントン
「失礼します。少しばかり遅れまして、申し訳ありません」
中高生男子担当の橋田好子保母が、二人にお茶を持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
「あ、橋田さん、すまないね。ありがとう」
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
彼女は盆を右手に抱えてお辞儀し、去った。大槻園長は静かに、しかし、11年前の彼女の定年退職のとき以上の毅然とした口調で、老保母に自説を主張した。
私はZ君や米河君の叔父さんのように、そんなくだらない郷愁論を言うな、とまでは言いません。あのOB会の件については、尾沢君や山崎君に対して、彼にはもう少し寛容になって欲しいという思いはある。とはいえ、それはこちらが求める性質のものではない。
ましてや、指導員時代の私に戻れと言われても、そんなことはできない相談です。
そういえば、こんなことを言っている人らがおりましたな。
「社会に出たら、泣きたいときは、便所で泣かなければいけないこともある」
何ですか、あの言葉。昭和40年代の終わり頃ですか、「エースをねらえ!」とかいう、バレーボールのアニメの曲の歌詞を用いているのはわかった。しかしねぇ、便所なんかで泣いて、何の問題解決がもたらされますか? そんなことをヘラヘラ述べ立てて、仕事をした気になっているような保母がいましたな。どなたかは覚えていませんが。
それを自ら言って得意になるような中高生を生み出した責任は、誰にあるのか?
前園長の東にしても、山上先生、あなたもそうでしたな、そういう言動をたしなめるどころか、同じ方向の言葉を子どもたちに事あるごとに述べるだけでした。あなたはさておき、東さんは、今さらなことでしたけど。ま、60(歳)を過ぎてそれじゃあしょうがないなと、内心、私は思っていました。そういう風潮は、よつ葉園から完全に払しょくされるべきである。よつ葉園に縁あって来てくれた子どもたち一人ひとりの社会性を、しっかりと底上げしていかなければならん。あんな程度の言葉で指導した気になっていても通用した時代は、もう、とっくに終わっているのです。
その後、話は和やかな話題へと変わり、それから約10分間続いた。
「山上先生、遠くからわざわざありがとうございました。どうぞ、お元気で」
「大槻先生、お忙しところ、失礼いたしました。ごきげんよう」
男性と女性の声が、園長室のドアのこちら側と向こう側から事務室へと響いた。
園長室から出てきた山上元保母は、事務室にいた事務員と児童指導員らにあいさつをした後、自動車運転免許を取得したばかりの孫娘が運転するクルマで、よつ葉園を去っていった。
老保母の乗るクルマは軽快に丘を下り、今よつ葉園にいる子どもたちの通うT中学校の横をすり抜け、やがて上下1車線の幹線道路へと出た。ひと山超えてしばらく電車道を行くと、そこに彼女の住む仕舞家がある。帰りのクルマの中で、山上元保母は、これまでの保母人生を振り返った。彼女が若い頃、日本を占領したGHQこと連合国軍総司令部のダグラス・マッカーサー元帥が語った言葉が、助手席からぽつりと漏れた。
「老兵は死なず、ただ、消え行くのみ・・・」
祖母を自宅へと送る19歳の孫娘は、その言葉を、黙って聞いていた。
山上敬子元保母は、この後亡くなるまで、丘の上のよつ葉園を訪れていない。
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