第13話 ミスマッチ3前編 ~ 大槻園長からの手紙
この記事は、よつ葉園の高部友子元保母に××ラジオアナウンサーの大宮たまき氏が電話でインタビューをした時の記録です。
~本シリーズの「ミスマッチ 2」の続編です。
先日、お二人の放送で、よつ葉園祭りのことをご紹介くださり、ありがとうございます。あの放送の日以降、当園に元職員や元児童から連絡が相次いでありました。
津島町にいた頃の地域の人々からもご連絡いただきました。
それから、うちの元保母で高部友子という、Z君を高1の時に担当させた者より、久しぶりに私宛に電話がありました。
最初は懐かしさもあって連絡を取ってきたようですが、私がZ君の話をすると、かなり戸惑っていたようです。
そのことに関わるエピソードを、お伝えしたい。
もう20年以上前のことです。ある年の大みそか、Z君はじめもうその前後の世代の卒園生たちが、よつ葉園に何人か集まって、私ら職員とともに飲んでいました。
その席で、烏山省吾君という卒園生が、Z君にいささかしつこく、在園時に印象に残っている保母はだれかと聞きました。
その途端、Z君の顔つきがみるみる険しいものに変わっていきました。私も、同席していた指導員の山崎も尾沢も、皆、彼の顔を伺うように見ていました。あとで尾沢君に聞くと、自分たち当時の職員がやり玉に挙げてつるし上げられるのではないか、そんな恐怖を感じたと言っていました。
烏山君も相当焦ったのでしょうか、詰問するかのようにZ君に問いかけました。
周囲が凍り付きました。
あちこちの雑談が、すべて止まりました。
しばらくの沈黙の後、Z君は、静かに言いました。
「私はね、ある時期のとある保母の対応によって、その手の女性に対しては、不信感を持っております。よって、そのような質問には、今後一切、お答えするつもりはない。また、そのような話を、私には金輪際しないでいただきたい・・・」
幸い、この日はZ君自らとりなしてくれて、事なきを得ました。
「どうか、話題を変えていただきたい。せっかくの酒の席じゃないですか」
数秒後、私が別の卒園生にまったく別の話を振って、その場を収めました。
彼の怒りは高部保母に対してのものだと、私は気づいていました。
なぜ彼がそこまでの怒りを持つに至ったか?
私は、その年明けに早速、自らZ君の育児日誌をもう一度精査し、原因を突き止めることにしました。
彼女は育児日誌に、こんなことを書いていました。
「昭和60年5月Y日(木) Z、大検について話す。夢のようなことを言っていないで、現実を考えなさいと、厳しく指導するも、小馬鹿にしたような態度をとられる。普通科高校を受けなおせばよいと指導しているのに、どうして、聞く耳を持たないのか?」
「8月a日(火) Z、昨日、県庁の学事課に行って大検の資料を取り寄せたとのこと。(これから先はボールペンではなく欄外に小さく鉛筆で書かれていた)何でそんなことまで? 私には、彼の指導はもう無理です。しかるべき人がきちんと指導してほしい。」
「昭和61年1月B日(水) 定時制高校の在学を継続する意向をZ示す。卒業に向けて頑張りなさいと言ったら、おまえは馬鹿かという目で見られた。高校を足場にするようなやり方はよくないと言ったら、わざわざ再受験を勧めるあんたらも、U高校(定時制高校)を足場にさせとるじゃないか、人に無駄な時間を押し付けるな! とも言われた。梶川指導員より、とりあえずその問題はしばらく棚上げしておこうとアドバイスを受ける。」
彼の育児日誌を読むほどに、私は、何とも言えない気持ちになりました。
当時、児童指導員の梶川に、Z君については高部に丸投げせず、さらに一層きめ細かく指導するよう指示しましたが、彼も他の児童の対応に忙しく手が回らなかった。それに加え、彼自身もよつ葉園を近いうちに退職する意向を示していました。
もうこれ以上は彼にも任せられない。
そこで生え抜きの児童指導員である尾沢君に、Z君の最後の2年間担当させました。彼は、よくやってくれました。
Z君には入試その他きちんとフォローしてやるべきでしたが、人手はあっても人材が全く足りていなかった。
その前年度も、前川喜子という短大の幼児教育学科を出てすぐの保母に担当させたり、入試に失敗したとなれば、今度はこの高部に担当させたりして、結果として丸投げのような形になったのは、痛恨の極みです。もちろん彼にはその後、できる限りのことはしてあげたつもりですが、それとても免罪符にはならない。
昭和43年に私が就職した当時の園長は、遠縁の森川一郎でした。
明治生まれで当時すでに70代の老人でしたが、子どもたちへの愛情は、確かに深かった。中学を出て就職した子どもたちがよつ葉園に来て愚痴をこぼすたびに、
「今辞めたら、銭もたまらんし、結婚もできんがな。辛抱のしどきじゃ、辛抱せいよ」
「また、報告に来て、飯でも食って帰ってくれ」
そんなことを言って、卒園生たちをやさしく励ましていました。
本当に、「慈愛に満ちた好々爺」でした。
だが、具体的な対応策を講じて子どもたちに示せていたかというと、手放しでそうと言えないところもあった。
Z君にはあるとき、こんなところまで報告と称して遠路はるばる来て与太話などするのは、時間の無駄だと言われました。
我々にしてみれば寂しい話だが、それは実際、大いに当たっているかもしれない。
私は、Z君が中学生になった年に園長に就任しました。彼が成長していくにつれ、私自身の仕事に対する姿勢を徐々に変えていきました。
まず園長である自らが、社会性を身に着けないといけない。
Z君が大学合格後間もなく、私はジャガーズクラブに入り、地元の経営者や財界関係の人たちとのお付合いを始めました。世の人々に顔向けできる仕事をするには、養護施設界隈の交流程度では限界だと悟ったからです。
私より2回りほど年上の山上というベテラン保母がおりまして、彼女はZ君が高校入学の年、昭和60年に55歳の定年を迎えて退職しました。
園長などの役職者を除いて、当時は55歳を定年にしていましたが、そもそも役職者以外で定年まで勤める職員は、全くいなかった。いちいち統計を出したわけでもないが、当時の職員らの平均勤続年数は3年程度で、稀に長期間勤める人物がいるとすれば、一部の児童指導員か、男性の事務職員ぐらいのものでした。
彼女は、ある日よつ葉園を久々に訪ねてきて、若い頃の子どもたちと共に暮らして一緒に元気に遊ぶ大槻指導員に戻って欲しいと言いました。
しかし、そんな立場に戻ることが許されないことは、私自身よくわかっていました。彼女が定年を迎えた際、嘱託として定年後も引続き子どもたちと関わりたいという申し出を拒否したのは、他でもない、当時園長の私でした。
戦災孤児の時代からの養育手法をかたくなに守って、子どもたちを「慈愛の心」で導こうとしていた彼女には、若い保母や男性指導員たちさえ距離を置いていました。 終戦直後からの功労者とはいえ時代に合わなくなったベテラン保母の雇用よりも、子どもたちの未来のほうが、今のよつ葉園にとっては、はるかに大事なのです。
一方、Z君が考え動いてきたことは、社会性を高める上で必要な要素ばかりでした。残念ながら、よつ葉園の当時の職員には、私を含めて誰一人、彼をきちんと導く力量のある職員がいなかった。それが彼を鍛えたと言うのは、詭弁です。
あの頃から私は、児童福祉にとって必要なのは人間性より社会性だと、さらに声を大にして言うようになりました。それまでは「仕方ない」で済んでいたことも、「金がない」などという免罪符で逃げおおせていたことも、徐々にそれでは済まなくなってきた。
実はこれ、私とZ君の問題でも、よつ葉園という施設内の問題でもない。日本の児童福祉全体がそういった方向に舵を切っていることを感じずにはいられなかった。Z君への対応、今思えば至らないことばかりでした。私としては、彼にはあの時代の怒りを乗り越え、前を見て進んで欲しいと願うばかりです。
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