其の涙は雫と成りて

才野 泣人

第1話


「――――――――」


 そうして彼女は泣きながら笑った。その涙は雫となって地面に吸い込まれていった。





「綾田君は二次会来ないの?」

「今日は遠慮しときます。明日も早いんで」


 嘘だった。未玖さんのいない二次会なんて興味無い。というかそもそも忘年会すら欠席するということを事前に知っていたら今日俺は来なかったのに。


「そっか。じゃあ気をつけてね。良いお年を」

「はい。お疲れ様です」


 喧騒と雑踏の街に背を向けて一人で歩き出す。火照った体に冷たい夜風が丁度良い。このサークル自体は嫌いじゃないんだけど、どうも飲み会というのだけは苦手だ。ずっと酔った先輩に気を遣い続けるのは神経が摩耗する。


 家に向かうにつれて徐々に人と灯りが減っていく。こんな時間だからかいつもより車通りも少ない。

 一人の時間というのは嫌いじゃない。お酒も入っているせいか足取りはふわついていた。



 道端で女性が倒れていた。最初は見間違いかとも思った。でも近づくにつれて徐々にハッキリと人の形を成す物体が浮かび上がってくる。

 きっとどこかのサークルの忘年会で潰れてしまったのだろう。話には聞いたことあるが遭遇するのは初めてだ。

 このまま寝てしまうと彼女は二度と目覚めなくなってしまう。取り敢えず声掛けないと。


「ちょっと、大丈夫ですか?」


 瞬間、息が詰まった。驚くほど美人だったのだ。ゆるくウェーブしたショートカットの茶髪、すっきりとした輪郭。どこから見ても文句のつけ所がない顔立ちだった。


「……ぅ……ん」


 声にもならないような小さな呻きを上げて彼女は目を覚ます。


「立てますか? 肩貸しますよ」


 半分抱えるようにして彼女を担ぐ。ほぼ全体重がこちらにかかってきた。


「家どこですか? 送りますよ」

「家……ない」

「はい?」


 家がない。聞こえるギリギリの声量で彼女はそう言った。


「家、ないの」


 明らかに弱った彼女の目はそれでも真っ直ぐ芯を通していた。

「……僕の家来ますか? ここから近いんで」


 反射で出た言葉。下心皆無の純度百パーセントの善意。


「行く」


 一瞬、誘拐の二文字が頭にちらついたが振り払う。事情を聞くのは後で良い。

 半分引きずるようにして進み始める。完全に脱力されていると非常に歩きづらい。負ぶった方が早いかこれ。

 半ば意識も無いようなので独断で背中におんぶする。軟体動物でも背負ってるのかと勘違いしそうなくらい彼女に力が入ってない。油断したらずり落としてしまいそうだ。


 いつもの倍ぐらいの時間はかかったものの何とか家には着いた。取り敢えず中に入ってベッドに彼女を寝かせる。

 来客用のプラコップにミネラルウォーターを注いで彼女の所まで持っていく。


「これお水です。置いときますね」


 とうとう返事も返ってこなくなってしまった。仕方がないのでこのまま寝かせておく。ベッドが埋まってしまったので今日は炬燵で寝るとしよう。

 リクライニング式座椅子の背もたれを完全に倒してベッド代わりにする。歯磨きやら着替えやらを手短に済ませてその日はそのまま眠りに就いた。



「あ、おはようございます」


 目が覚めると彼女はキッチンに立っていた。ゆるりと香ばしい匂いが漂ってくる。


「ごめんなさい。勝手にキッチン借りちゃってますね」

「大丈夫ですよ。それより体調はどうですか?」

「お陰様で。昨日はありがとうございました」

「いえいえ」


 と、向こうからお皿が運ばれてくる。ベーコンエッグとトースト、ホットコーヒー。


「じゃあいただきましょうか」


 面と向かう形で炬燵に座り合う。


「美味しい……」


 そもそもシリアル以外の朝食が久しぶりだ。このベーコンだって賞味期限大丈夫だったっけな。いつ買ったのかも覚えてない。


「それは良かったです」


 彼女は薄く笑う。こうして灯りの下で見るとますます美人だな。

 如何とも形容し難い空気が流れる。聞きたいことは色々とあるのだけれど、いつ切り出せばいいのか分からない。だからといってこの間を埋める話題も思いつかない。


 そんなこんなでタイミングを図ってるうちに皿が空になってしまった。


「ごちそうさまでした」


 食べ終わるや否や彼女はすぐにシンクにお皿を持っていき洗い物を始める。

 気まずさをコーヒーで胃に流し込む。少し温くなっていた。


 マグカップも軽くなったところで彼女は戻ってきた。少しの沈黙。切り出すなら今しかない。


「あのさ」

「はい」

「色々と聞きたいことはあるんだけど。まず、家がないってどういうこと?」


 取り敢えず最優先で聞かないといけないであろうこと。


「そうですね……どこから話しましょうか」


 少し彼女の表情が曇る。


「私、吸血鬼なんです」


 一瞬思考がフリーズする。即座に解凍し、再思考。


「一緒に住んでた人に追い出されて。行く場所もないんです」


 情に訴えかけられているようだが一旦待て。前提条件が成立していない。

「ちょ、ちょっと待って。吸血鬼ってあの……?」

「あの吸血鬼です。血を吸ったり日光に弱かったりするあの」


 すごく綺麗な瞳でこちらを見つめてきた。


「ほら、この犬歯だって長いでしょう?」


 口をぐわっと開けて見せてくる。確かに普通の人よりかはちょっと長いように見えるけど。


「なんなら今から貴方の血を吸ってもいいんですよ」

「そ、それは待った!」


 完全に会話の主体を彼女に持っていかれている。


「だってあれだろ? 血を吸われたら俺も吸血鬼になっちゃうんだろ?」

「なりませんよ」


 彼女は柔らかく笑った。


「昔はそんな機能もあったんですけどね。使わないでいたら無くなっちゃいました」

「そんな簡単にアイデンティティ無くしちゃって大丈夫なの……?」

「まぁ、眷属なんていた所で何にもなりませんし」


 えらくスッパリと言い切るものだな。まあでも現代社会において吸血鬼が仲間を増やしたところで究極は生きづらくなるだけだろう。


「それで?信じてくれましたか?」

「そうだな……零から三十には増えたかな」

「まだ三十かぁ」


 信じてはいないけど否定はしない。今はまだそんなレベルだ。

 充電中のスマホを手に取る。検索アプリのボックスに吸血鬼と入力。ヒット件数四千九百万。


「吸血鬼……コウモリや狼に変身できる」

「出来ませんね」

「心臓に杭を打ち込むと死ぬ」

「誰でも死にますよそんなの」

「ニンニクや強い香草を苦手とする」

「まぁ匂いの強いものは苦手です」


 伝承のものとは多少差異があると。さらにスクロールする。


「鏡に姿が映らない」

「それは本当ですね」

「十字架を嫌う」

「別に平気です」

「日光に当たると死ぬ」

「あ、それはマジでヤバいやつです。ほんとに死んじゃいますから」


 明らかにそこだけ声のトーンが違った。ここはイメージ通りなんだな。


「それじゃこの部屋はちょうど良かったね。陽当たりの陽の字もないから」


 カーテンを開けても窓から見えるのは大きなブロック塀だけ。陽当たり最悪。でもその分家賃が安い。一人暮らしの大学生でも手が出るくらいには。


「そうですね。朝でもこうして隠れずに済むっていうのは久しぶりです。前の家では

日中お風呂場に住んでましたから」

「お風呂場……」


 確かに陽は当たらなさそうではあるが。もうちょっといい場所はなかったのか。


「あ!じゃあ昨日倒れてたのって」

「昨日は満月でしたからね。いくら直日じゃないとはいえ月光だって太陽の光ですから」


 なるほど腑に落ちた。背中に負ぶっているとき酒気を感じなかったから変だなとは思っていたのだが、これなら納得がいく。


「それでお願いなんですけど、私を拾ってはくれませんか?」


 会話の流れからなんとなくは予想出来た言葉。


「できる範囲で家事もやりますし、吸血鬼なんで食費もかかりません。……まあ、あの、偶に血は貰ったりするかもしれませんが」

「いいよ」


 好奇心と同情が半分半分ってところ。彼女がいたところで別段不利益なこともないだろうし、このまま追い出してまた野垂れられても後味が悪い。


「そんな軽くいいんですか!?」


 何故か提案した側の彼女が驚く。


「だって今僕が断ったところで行く宛もないんでしょ?このまま見殺しにするのも嫌だし、僕の家で良かったらいくらでもどうぞ」

「ありがとうございます……!」


 そんなこんなで吸血鬼との共同生活が始まった。

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