ショートショート Vol16 「TYLER HATZIKIAN」という名のブランド

森出雲

「TYLER HATZIKIAN」という名のブランド

 土曜の早朝の雨は、僕にとって何よりも憂鬱な出来事である。

 なぜなら、日曜は週に一度しかない家族と共にすごせる「休日」 であり、僕が自由に使える時間が「土曜の午前中」 しかないからである。

 妻に言わせれば、「どうせサーフィンするんでしょ? 上から濡れるか下から濡れるかの違いで、結局は濡れるんだから、雨だっていいじゃない」 という事らしい。しかし、たった数時間の自由しかないのであるなら、「気分は快晴」でありたいものである。


 仕事の都合で、三週間ぶりの「自由な時間」を満喫できると楽しみにベッドについたものの、起こされたのは「小鳥の鳴き声」ではなく、シトシトの「雨音」であった。

 僕は、まだ家族が眠りに落ちたままの静かなキッチンでマルボロに火をつける。素肌にまとわりつくような、じっとりと湿った空気が紫の煙を白く濁す。

―― 天気予報は間違いなく、雨ではなかったはず……。

 そんなことを呟きながら、キッチンの小窓を開ける。

 五月雨と言うのだろうか? 

 シトシトと同じテンポで降り続く。

 小窓からは見ることの出来ない空は、きっと灰色に覆われているのだろう。

 気を取り直し、コーヒーを煎れる。

 雨を気にせずに、海に出かけるか。それとも、もう一度ベッドにもぐりこみ、久しぶりの「自由な時間」を無駄に過ごすのか。

 大型のコーヒーメーカーで、多めにコーヒーを造る。どうせ、妻が起きれば、真っ先にコーヒーを飲むだろうし、一人分より幾分美味しくなる気もする。

 コーヒーメーカーから、勢い良く湯気があがり、アラビカ・モカの香りでキッチンが満たされると、突然、妻が現れた。

「あら、コーヒー? 私も頂けるかしら?」

 眠そうにキッチンテーブルにつくと、僕のマルボロに火をつける。

「海は?」

 煎れたてのモカを大きなマグカップに注ぎ、テーブルの向こうに座る妻の目の前に置く。

「ああ、雨が降っているから、どうしようかと」

 妻は、熱いコーヒーに息を吹きかけ、少しずつ口に運ぶ。

「昨夜、天気予報で雨だって言っていたわよ?」

 僕は小さなステンレス製のマグカップにコーヒーを入れるのをやめ、眠そうな妻に聞きなおす。

「晴れって言ってなかったっけ?」

「それは、明日の日曜じゃない?」

―― そう言われればそうかもしれない。

『一日中、良い天気に恵まれるでしょう』 テレビのアナウンスだけが脳裏に木霊する。

 半分ほどしかコーヒーの入っていないマグカップを持ち、妻の正面に座る。

「で、どうするの?」

 僕が答えられずにいると、妻は小さく笑って、席を立った。

 暫くして、僕が僅かなコーヒーを口に運び終わると、リビングの窓が開き、妻が僕を呼んだ。使い古したスタンドに乗った僕のサーフボード。その上に、見慣れないTシャツが雨に濡れている。

「お友達に頼んで買ってきてもらったの、TYLER HATZIKIANって人のTシャツだって」

「濡れてるじゃないか!」

「いいじゃん、どうせ今から濡れるんだから、楽しんでくれば?」

「……」

「このTシャツの人だって、サーフィンを楽しんで欲しいから、Tシャツ作っているんだと思うな」

 僕は、庭に下り、「TYLER」のTシャツを掴んだ。そう言えば、TYLER HATZIKIANは、争うことを嫌い、サーフィンの大会には出ないと聞いたことがある。純粋に、ただ「サーフィンが好きだから、ゆっくりと楽しみたいから」 と。

 僕が、笑うと妻も笑っていた。

 きっと、TYLERも、どこかで笑っているだろう。


 TYLER HATZIKIAN

 1960年代のレジェンドと言われるサーファー・シェイパー。サーフィンと自然をこよなく愛し、数々の名作を残したサーファーであり、シェイパーである。

 シェイパー:サーフボードを造る職人。有名サーファーには必ず、そばに寄り添うシェイパーがいる。

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ショートショート Vol16 「TYLER HATZIKIAN」という名のブランド 森出雲 @yuzuki_kurage

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