第17話 決意


 葵は決心して川べりから一歩、また一歩と離れていく。今までこんなことをしたためしのないせいか、不安が募る。もし、途中で霞が消えるように自分がなくなったら。もし、自分のいない間に川になにかあったら。不安が湧いて出るように胸を占めていく。

大丈夫、大丈夫。きっと行ける。この距離なのだから、大丈夫。この子も川まで来れた。だから大丈夫。そう言い聞かせて歩いていると、気が付けば腕の中の幼子に縋るように抱きこんでしまっていた。


「うぅ…ん」

「あっやだごめんなさい、苦しかったね。」


聞こえていないとわかってはいても、声に出てしまう。そうして杜の子どもを抱きかかえ、漸く社の裏参道の目の前まで来た。葵はゴクリと唾をのむ。


どうか、どうか四柱のお怒りに触れませんように——。そう願いながら、念のため口上を述べる。


「恐れ入ります、お邪魔いたします。私めは裏手の川の葵と申しますものでございます。こちらの杜の子とお見受けしてこの子を送り届けに参りました。しばしの間失礼をいたします。」


意を決して、境内へと歩を進める。意外にも抵抗感やお叱りが飛んでくることもなく、どちらかと言えば…思い過ごしかもわからないが、歓迎されているような心地にさせる開けたお社だった。 


杜は鬱蒼と茂り、こういった存在が現れるのもうなずける、立派なものだった。しかし「喉が渇いた」とこの子も言っていた通り、木々は多いのにこの社には水の通り道がない。これでは日照りがあればさぞ辛いだろう。そうして、この子は耐えかねて私のもとへ…そう思うと、ぎゅうと胸が締め付けられる心地だった。


「あの、もし。」

「ひぃっ」


考え事に耽っていて、完全に油断していた。他に自分が見えるものもいないだろうと思いこんでいたのだが、この社には当然ながら神事を務める神職や巫女もいるし、前々から察知していた同じ様な存在に、神々までいる。遭遇することを危惧していなければならなかったのに。そのどれだろうか——そう気配を探りながら振り返ると、着流しを纏う男がいた。


               〇


「ああ、そうしてわざわざ。どうもありがとうございます。」


なかなか帰ってこないから心配してたんです、と言う彼の名は東岩というのだそうだ。幼子を引き渡す。よく眠っており、目を覚ますことは無かった。


「せっかくなので、この子の本体までご一緒しませんか。」

「え、よろしいので?私めはこの境内に入るのも恐れ多いものですのに…」

「まあまあ、ここはそんなに厳しい場所ではないですよ。それにせっかくここまで足を運んでいただいたんだ。少し助言をいただきたい。」

「助言…ですか。」


葵は戸惑った。自分は初めてここに足を踏み入れた。対し、彼は以前からいた、あの——「輪郭のはっきりした頼もし気な君」だと、すぐに気が付いたからだ。そんなにも長くここにいる方に助言ができるかしら、と悩んでいると、着いたよ、と声がかかる。


「わあ…!」


葵は息をのむ。立派な神木でしょう、という東岩は、何故か自慢げな響きを含ませて言う。それもそうかもしれない。葵が両腕を思いっきり伸ばして抱き付いてみたとしても半分も周らないのではないかというくらい幹のしっかりとした神木がそこにあった。この幼子がこの神木の、と一目では信じられないくらいだ。


「随分立派でしょう。」

「ええ、驚きました…。それにしてもなぜ、こんなに立派な御神木の方があんなに小さくていらっしゃるのです?」

「それはね。」


彼が言うにはこうだ。この社には木々が生い茂っている。大変立派な神木もある。しかしあまりに密集して良い木が集まってしまっているため、日照りなどには弱い。自分たちを形成するものをエネルギーの意味の「気」でいうならば、盛んなときは盛んだがその日の日照具合で差が出てしまい、どうしても気の量が安定せず、現れることがなかったのだというのだ。

杜は一本一本の樹木で形成されているがために、四季の何処かによっても気の量は違う。夏は盛んに、冬は乏しい。そこに夏の水不足がたたればなかなか現れるものも現れられないというものだろう、と彼は結論付けていた。


「そこでです、貴女に一つ訊ねたい。」

「はい。」

「この杜が安定して育てるようにするのにはどうすればいいと思いますか。」

「安定して、育つように…。」

「簡単なものでも難しいものでも構いません。何でもよいのです。」

「…少々お待ちください。まずはこの杜、ひいてはこの境内を見てみてもよろしゅうございますか。」

「もちろんですとも。ご案内いたしましょう。」


そうして葵と東岩は境内めぐりを始めた。もちろん出発前に、子を神木へ還すのも忘れず。

まずは杜。鬱蒼と茂っている。次に社務所。人の気配はしないが小綺麗にきちんと人の手が入っていることが見て取れる。次、東屋。社務所同様、過ごしやすいように手を入れている。その後に社殿。扉は閉ざされていて中を伺うことはできないが、蜘蛛の巣一つ張っておらず、落ち葉なども見当たらない。よほど手をかけているのだろうことが見て取れた。


そうして一周ぐるりと見て廻って、葵ははたと気が付いた。

「東岩さん…でしたっけ。」

「ええそうです。何か気づきがありましたか?」

「はい。私個人として思うに…。この子、杜に対してもう少し人の手を入れるべきではないかと思うのです。」

「ほう。人の手を…。具体的にはどういうことをお考えで?」

「少し長くはなりますが…。」


そう前置きして葵は話し始めた。


「まず第一に、あの幼子が私めのところへ来た時に言った言葉は喉が渇いた、だったのです。最近は雨も少なくなっていますし、この杜の密集具合では水不足になるのも当然というものでございましょう。まずは木々が水を吸い上げることのできる水路を作ってあげるのがよろしいかと。

また、失礼を承知で申しますがこちらのお社では社殿や社務所には手を入れている様子ですのに杜はそのままの印象を受けます。少し酷なものでもあるかとは思いますが、少し人の手を入れて枝を少し落として、日が差すようにして差し上げるのはどうでしょうか。そうすれば全体的に明るく風の通りも良くなりますし、効率よく日光を浴びることができます。

それに余分な枝がなければ必要とする水分量も少量でも変わってくるかと。先ほどあの子が還ったのが神木であったところからすると、本体として定義されているのはこの杜全体、ないしはこの御神木と見受けられます。であれば少々杜に手を加えるだけであれば問題は無いのではないでしょうか。」


そう言い終えると、東岩がまじまじと葵を見つめていた。


「あ、私ったら、差し出がましく申し訳ございません。」

「い、いえ、答えを求めたのはこちらですから、気にしないで…って、凄いですね。」

「?何がでしょう。」

「思った以上のお答えをいただきました。早速明朝、見えるようなら宮司に提案してみましょう。きっと聞いてくれます。」


葵はその一言に目を見張った。今、この人は何と言った?


「?どうされました?」

「あ、あああの、いま、なんとおっしゃいました。」

「?ただ、宮司に明日提案してみましょうと…。あ、大丈夫ですよ、必要なものは必要で費用を捻出しますし、不要は不要で切り捨てることのできる人ですから。」

「…と、東岩様は人と言葉を交わすことができるのですか⁉」


               〇


東岩は葵の取り乱しようを見て、つい噴出した。


「な、なんです⁉何かおかしなこと言いました⁉」

「い、いや、あの、ちょっとまって、とりあえず様はやめてほしいです…」


完全に俯いてしまった東岩を葵は気にかけた。どうやら気を使って様と言っていたのが駄目だったらしい。葵はひとり納得する。

東岩はひとしきり笑い終えた後、いやあすみませんね、と断りを入れて話し出した。


「僕たちは、完全に人から見えない存在というわけではないんですよ。中には僕らを見ることのできる人もいる。…ここの宮司を務めている桐畑家も、比較的見える方の家柄だなんですよ。」


だから宮司一族を務められるんだろうけど、とあっけらかんという。葵は愕然とした。今の今まで人と自分たちは隔絶されたものだと思っていた。それどころか、今日まで自分が対話できるとは思ってもみなかったし、こうしてこの社へ足を踏み入れるなんて夢にも思わなかった。だというのに、今のこの現状はどうだ。…物事の展開が早すぎて理解がついていけない。


「…ということは、ちょっと整理させてください、ここの宮司さんは私たちのような存在も見えることがあるんですね。」

「そうです。毎日ではないけれど。」

「そして、比較的見える家、と断言するということは東岩さん、貴方は何代か世代交代するくらいの時間をここで過ごしてきたということですか?」

「ええ、そうです。」


葵さんは聡明だ、などとにこにこ笑っている。どことなく上機嫌のような東岩の様子に、ほっと一安心着く。


「…一つ、伺ってもよろしいでしょうか。」


葵の脳裏には、一つの決意が生まれていた。

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