葵と霞

第16話 始まり


「それ」はただぼんやりとそこにいた。いつからいたのかは「それ」にも定かではない。ずっとかもしれないし、ついさっきからなのかもしれない。とりあえず今、「それ」…もとい私はここにいる。どこからどこまでが自分なのかと問われれば応えるべくもない曖昧なものなのだけれど。

——そんなゆらゆらとした思考を続けている。いつからだっただろう。わからない。でも、どうでもいい。そんな風に。


そんな幽鬼は、髪を烏羽色、衣は袖の長くたゆたう青海波文様のものを身につけ、ぼうっと川べりに佇んでいるのだった。

幽鬼は、溶けかけていたり、姿をしっかり保ったりと形状がなかなか安定しない。それゆえかまた違う理由があるのか、行きかう人々には見えていないようだった。だがしばらく日数が経つと、幽鬼は思考能力も備わり、自意識を持ちしっかりとした足取りで立つことができるようになった。

それからは、付近を歩き回ってみたり、座って川の様子を眺めてみたり。雨の日は川岸の大木に身を寄せて水の音に聴き入ったりなどして暮らしていた。


そうして彼女が現れてから幾数年。その頃になると彼女は、自分自身の名を得ていた。得たその名を、「葵」という。自身でそう定めたのだ。

その由縁というのは川にかかる橋に、「あをい川」「葵川」と書かれていたから。ただそれだけだ。どういうわけか「葵」は川から離れようとすると恐怖心が過ぎり、すぐさま取って帰ってきてしまう。人の助けも頼れず何もわからぬ身の上だが、恐らくこの川から離れられぬ運命なのだろうと察していた。


加えて葵はここで遊ぶ人の子たちのように水に触れて遊べるでも、何か食べないと生きて行けぬわけでもない。それに、しっかり形を保てるようになった今でもやはり人の子には葵の姿が見えていないらしい。ずっと木陰から見守っていても誰からも気づかれたことがなかった。

流石にそこまで条件が揃ってしまえば、ここに見えるあらゆる生命たちとは違う存在なのだと気がつきもしよう。彼女は、ここから離れられないことから自身とこの川の縁というものを感じていた。一心同体、とでもいうべきか。


それを裏付けるものとして、この川の水が枯渇すれば息が苦しい。楽しげに子どもたちが遊んでいるとこちらも楽しい。流木やゴミなどが溜まれば体が重くて嫌になる。そこから察していたのだ——自分は、この川そのものなのだと。

ならばこの川と運命を共にする他あるまい。ここでいつ消え失せるかわからない命だとしても、川を人を生命を、ただただ見守り続けよう。それが課された自らの運命なのだと、そう思うようになっていったのだった。


                 ○


 ある日、気まぐれに他にも似たようなものがいないだろうかと気配を探ってみた。するとどうだ。目の前にあるお社に、ひとり似たようなものがいるではないか。

…話がしてみたい。どういう方なのだろうか。純粋に興味を覚えた。お社にいるのだから、祭礼関係のもの?それとも、杜?はたまた巌や神酒かしら。そんな浮き立つこころも、探るにつれて次第に萎んでいった。


ああ、そうね、当然よね、と独りごちた。お社なのだからそこに神様がいるのは当たり前。しかも四柱、また祀られているのが武神となると、境内に立ち入りなどしてみればすぐに怒らせてしまいそうなものだ。それは、流石に恐ろしい。せっかく最近、子供たちが遊ぶのを見るのが楽しくなって来たというのに、今逆鱗に触れてかっ消えてしまうのは恐ろしかった。

・・・仕方がない。気配のするあの方は諦めよう。しっかりと存在感のある、頼もし気な気配の君。いつか縁があれば相見えることもありましょう。そう自分を納得させ、川べりに腰を下ろした。今日も柔らかな日差しが降り注ぎ、キラキラと水面に光っては子供たちに蹴散らされていく。ただそれだけの、なにもない平穏な一日だ。


                ○


葵が自分として確立して幾数年。すっかり自らが九十九だという自覚も、本体からは離れられないのだということも、人がこの川を愛しそして生まれたのが自分だともわかった頃に、それは起きた。


葵はいつものように、朝は川を見てまわり、生命たちの謳歌するさまを見つめ、流れ行く水の清らかさに心穏やかにし、そして川べりに腰を下ろしていた。


・・・しかし、なにかひとつ。弱々しいが輪郭のある何かが、近くに紛れている。ふんわりとした輪郭の、まだ頼りない気配のものがぽつりといる。そう察知した葵は、ゆっくりと左右を見渡した。するとそれは案外すぐ近くにいてじっとこちらを見つめていたのである。

すぐ真横の大木の根元に、新緑の髪と瞳、白い上衣、緋袴…そんな出で立ちの少女が、木影からこちらを覗いていた。人々が感知しないところからみても、同じ存在と見ていいのだろう。

恐らくこの子は、木だ。青々としてみずみずしい雰囲気がそう断じさせる。この近くでそういうものが宿る木といえば、あそこしかない。——目の前の、あの社だ。


                   ○


「あの、こんにちは?」


葵は、努めて柔らかく問い掛ける。しかし驚かせてしまったようで木陰に隠れてしまった。怯えさせてしまっただろうか…そう思っていると、ちらりとまた顔を覗かせてこちらを伺う。

・・・率直に言って、凄く可愛い。葵の胸に、庇護欲が沸いた。


「私ね、葵っていうの。」

「・・・。」

「ずっとこの川にいるのよ。あなたはあのお社の杜の子かしら?」

「!」当たったようだ、頭をぶんぶんと縦に振っている。

「・・・どうしてここに来たの?」何か嫌なことでもあった?と訊ねる。

「・・・ここに」

「ここに?」

「ここに、おんなじような人がいるってわかったから。あと・・・あとね。」

「あと?」

「・・・抱っこして?」喉乾いちゃった、と呟く。


葵はなるほどそういうことができるのかと驚いた。こういうことがわかるのも本体から作用する本能的なものなのだろうか。


「ええ、ええ。こちらへいらっしゃいな。抱きしめてあげる。」


そう言うと、覚束ない足取りで歩み寄って来てくれた。抱きしめたその髪からは、暖かな日だまりの匂いがする。

抱きしめていると、自分を経由して何かがこの子に流れ込んで行くのを感じた。けして不快なそれではなく、これが、これこそが本来の役割だ、と思えるものだった。今、あの境内の木々はこの子を通じて水分を吸い上げているのだろう。最近雨が降らなかったから、それでこの子もここへ来ざるを得なかったのかもしれない。木を、生命を育む喜びに胸が震えた。


しばらくそうしていると、この幼子は寝入ってしまった。まずい。出てきたばかりの子に仕事をさせすぎてしまったのかも。それに・・・あの杜の子だとして、どうすれば。お返ししないわけにも行かないし。

うんうんと悩んで、ふと腕の中の幼子に目を落とす。現れたばかりなせいだろうか。ふくふくとした頬に長いまつげ。あの木陰から覗いていたときの不安げな表情とは似ても似つかない、穏やかな寝顔だ。その顔を見て、葵は決意する。


——この子を不安にさせないためにも、元のところへお返ししなければ。例え、自分がどうなろうとも。


それをさせたのは生命を育む川としてのものだったろうか、葵個人としてのものだったろうか。今となってはわかりようもない。

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