第5話 霞敷く 起-5 葵と東岩ー出生譚ー
ごほん、と咳払いを一つ。正蔵は作業場に霞たちを通し、自分用の飲み物を用意すると話し始めた。
「まず一定の条件からお伝えしよう。」
そう切り出し言葉にしたのは以下の条件だった。
ひとつ。あまり遠くへ離れず、まずは近場のみにしておくこと。その事前準備としてこれから葵にヒアリングを行う。
ふたつ。町々の寺社仏閣を調べ相性の悪そうな神仏のいる領域を把握、共有しておく。そしてその領分と思わしき場所には極力近づかないよう努める。
みっつ。霞の深緑の髪と眼、巫女装束をどうカモフラージュするのかの話し合いを行い、解決しておく必要がある。
これを丁寧に紙へ書き起こして寄越す。まじまじと何度か読み返してみたが、ここまでする必要があるだろうか?困惑して正蔵へ目を向けると、いよいよという風に話し始めた。
「まぁ、お主は世俗に触れてみたいその一心で申し出たのだろうが、予想される問題は山積しているのだ。」
それを理解して、辛抱強く聞いてほしい、と正蔵は頭を下げる。
「・・・まぁ、それは外れてはいませんが。神でもないわたしが、杜も健在であるのに少し外へ出てみたいというだけでそんなに問題がありますか?」
葵と東岩はじっと紙面に目を落とし、耳を傾けている。
「ああ、残念ながら多いにある。まずこの一つ目で言えば、お主たち神でも人でもない揺らぎのような存在が、本体同然のものとどれだけ離れられるのかが不明だ。もし問題があって差し障りがあるならばそれは離れたら突然くるのか自覚したうえで来るのかもわからん。・・・ただ、前例が無いわけではない。」
「前例があるのですか?」
「ああ、そうだ。よくよく考えてみれば多少なら問題ないことを証明しているのがいるだろう。・・・葵だ。」
「あら、私?」
「あ・・・そうか、姉様はいつも境内にいらっしゃるけど、姉様の本体は社と切り離されたあの川だから・・・!」
ということは、と喜色一面で正蔵を仰ぎ見る。
「すっかりこの社の一部のようなものだから、盲点だった。まず葵にどういうものなのか聞いてみたい。実際、どうなのだ?」
毎日川を離れるとき異変はないか、最初なぜ離れられたのかを尋ねる。そして、そもそも離れること自体自分たちにとってどうなのかを。
「私が川を離れるのは…まあ、一番初めの時に不安がなかったと言えば嘘になるわね。」
「…それはどういった不安だったのか話せるか?」
「そうね、第一に自分から離れるという漠然とした不安。不在にしている時に何かあったら…という危惧からくるものね。その次に、どこまで離れられるのかわからなかったというのもあるし、十科の社の方々に拒絶されないかどうかも恐ろしかった。…正蔵さんの危惧はもっともね。」
「そうだったんですか…。」
「まぁ、それでも私が川を離れられたのは貴女がいたからなのよ、霞ちゃん。」
「えっ、わたしですか?」
意外なところで名前が出て素っ頓狂な声をあげてしまう。何かあったっけ、とうんうん頭を捻るが何も思い出せない。葵はその様子を微笑んで見つめている。
「そうなのよ。そもそもとして社の方に一人、私と似たような方がいるとは思っていたけどそれまでで。…あ、これは東岩さんのことね。気にはなっていたけど私自身はただの川だし、境内に入るのは神様方を怒らせてしまいそうで怖かった。」
「僕もなんだか似たような人が裏にいるなぁとは思ってたよ。」
「あら、知っていてくださったんですね。嬉しい。」
ふふ、と笑った葵は続ける。
「ある夏の日、私は川で遊んでいる子どもたちと跳ね上げる水しぶきをぼんやり見ていたのだけど、気がついたら川辺の大きな桜の木の麓に知らない小さな女の子がいてこちらをじっと見てた…それがまだちいさい頃の霞ちゃん。」
ちょうど水遊びをしている子と同じくらいだったから、背丈はこれくらいだったかなぁ、と自らの腰の辺りに手を持っていく。なんだか気恥ずかしい思いがする。自分の覚えていない自分を知られているのは、何だか安心するような恥ずかしいような気持ちで一杯になってしまっていたたまれない。葵が楽しそうなのでまあ良いのだけども。
「ふふ、それでね、この子はあのお社の子かなって予測はついたからお社まで送って行ったのが私の初めての本体離れね。」
「へぇ・・・って、なんでわたしがこの社のだってわかったんですか?」
「その頃は初夏で木々が青々としていたんだけど、新芽で綺麗な薄緑をしていた葉が多い年だったの。その緑と霞ちゃんの髪がおんなじ色をしてたっていうのと、あとは単純に人と私たちの気配は違うというのが理由ね。」
あとは木に隠れるようにしてこちらを見つめてきてたからそれもヒントだった、と微笑む。霞はまたもや面恥ゆい思いをしつつ、はたと気づく。
「ってあれ?それだとわたし、もう既に多少であれば境内から出て問題ないって証明されてません?」
「そうね。」
「「「「・・・・・・・・・・・・・・・」」」」
思わず全員で顔を見合わせ沈黙する。
「早く言ってくださいよー!」
こんな簡単に一個条件が解消されるなら最初に言って助太刀してくださいよお、と葵にすがる。
「ご、ごめんなさいね、すっかり頭から抜け落ちてて、もう、ごめんなさいね?」
「それはそれで酷いですっ。」
も~!!と裾に縋る霞と完全に袖で顔を覆ってしまった葵を見つめて正蔵は呆気に取られている。
そういえば、じゃあ東岩さんはどうですか?と聞いてみる。東岩は突然話を振られ、目を瞬かせている。
「東岩さんは境内の大岩だし…。いつだって拝殿や大岩の裏の静かな場所にいるイメージですけど、どこかへ立ったことってあります?」
この社が建つ前でも後でも、どちらでも大丈夫です!と見つめる。霞だけではない、距離を知りたい正蔵と興味がある葵の視線も熱く送られていた。東岩はしばらく考え込んで、口を開く。
「僕はそうだなぁ、思い出せる限りで言えば、特別この岩、境内から離れたことはないかな。」
「え、じゃあずっとここにおられるのですか!?」
じきに霞ちゃんもそうなっていくよ、と笑みつつ、でもずっとここにいたわけではないよと訂正を入れる。
「え、でも離れたことはない・・・んですよね?」
「どういうことかわかる?」
うんうんと唸る霞を眺める。霞はころころと表情がかわるからついからかってしまいたくなる。それだからしょっちゅう意地が悪いなどと言われてしまうのだが。可愛さ余って、という親心のようなものと思ってほしい。親じゃないけど。と、そこで
「…あっ。」
という声をあげたのは葵だった。
「姉様何故かわかったんですか!?」
「ええ、何故かはわかったけど・・・これは霞ちゃんへの問題よね?」
ちらりと伺うように見られる。
「まぁ、どちらが答えてもいいですよ。」
「姉様ぁ~~!」
東岩のゴーサインとひしとしがみつく霞に根負けし、葵は考えを話しはじめる。
「まぁ要するに、東岩さんがその大きさになるのに、水の力が加わったのではないですか?」
「多少ざっくりしすぎてる感はあるけど…流石は葵さん、ご明察です。」
一言余計です、といいつつも得心したように頷く葵を、正蔵と霞は食いつくように見つめている。
「水の力ってどういうことですか?」
東岩が答える。
「僕は気がついたらこの岩にいたけれど、この本体にいるようになってから随分時間もたってるからね。いろいろあったんだ。」
「そういうものなんですか・・・」
早くとせかすように見つめてくる霞に苦笑いし、そう焦らなくていいよ、全部話すから少し回り道になるし長くなるよと前置きしたうえで話しはじめる。
〇
「僕はね、もともと山の上のほうにいたんだ。めったに人が来なくて、たまに鹿や熊たちがいて、それよりもっとたまに送られてきたひとびとが昇っていくような、そんなところ。」
思えばあれから永いようなそうでもないような時を過ごしてきた。最初はこんなに僕という自意識も本体もあるとは思っていなかったから、昔の光景を思い出すとしみじみとした趣がある。
しかしそこに浸らせてはおかない好奇心に満ち満ちた三人分の視線を感じる。
「僕はそこで生まれたんだけど、しばらくして大きな大きな地震があって、山の上の方から転がり落ちてしまったんだ。周りの小さな小さな石ころたちとともに。その過程で僕は割れて三つに分かれてしまった。その時は、それはもう凄く痛かったし悲しかった。自分も割れるし周りの小さな石たちも粉々に砕けてしまったりしたしね。・・・それに、とっても綺麗で特別な山々だったんだ。きっと僕と同じようなのもいたかもしれないし、霞ちゃんや葵さんと同じような存在も居ただろう。」
本当に立派な山々だったんだ、今でも誇りに思うくらいにねと呟く。
「恐らくそういった存在も皆引っくるめて傷ついたり消えていった。土砂崩れが起きて山の形が変わってしまう程の地震だったから・・・。」
「・・・・・・・・・。」
「しばらくは悲しくて痛くて辛いばかりだったんだけど、少しして周りを見てみると、おや、ここも素敵な場所じゃないかと思えた。山裾の村の側まで下りてきてしまってたんだ。その村は活気溢れるところでこどもたちやその親たちが慎ましい生活を送っていた。」
中には僕を見つけてくれる子もいて、あぁ、僕は他の存在と話ができる生き物なのかって感動したのはよく覚えている、と目を細めて言う。
「でもしばらくしたら、また大きな地震があった。子が親になり、孫を持つくらいの時間が流れたから…ざっと五十年と少しくらいかな。今度は地震のあとに水が駆け上がってきて、それに呑まれた。…ああ、子どもたちや村の人々は粗方無事だったよ。きちんと地震のあと避難したからね。」
「でも僕を見えていた子は一緒に逃げるんだって聞かなくてね、必死にしがみつく小さな手も、子どもを説得しながら僕をなでる武骨な大人の手もよく覚えてる。まあそんなこんなで水流に流されてごろごろと転がるうちに角が取れて、丸い今の形になった。そして気が付いたら山から少し離れた場所の街道脇に転がっていて、これからは何も起きませんよう、なんて祈りを込めてしめ縄を結ばれて、縁起担ぎで信仰された。そしてそこにこの社が建って、今に至った…。」
そういうわけで、僕はこの本体から離れたことは無いんだ。参考にならなくてごめんね、と断りを入れる。
〇
「この神社の縁起にある通りだな。東岩の宿るあの大岩は、この社ができるよりずっと前からあった。ここが建つ頃には、既に苔むした立派な岩だったそうだ。」
あまりに地震の多かった平安の時代にこの社は立てられ、以来この地の平穏を祈願し続けている。その中には災厄のないように、人々が円満であるように、との願いも含まれており、したがって武神を中心とした一家の神々を祭る神社として創建されたという歴史を持つ。
東岩は葵よりも人の形を取ったのも、桐畑の家の人間に確認され接触されたのも一番初めだった。今しがたの話を加味すれば、東岩は正しく気の遠くなるような悠久の時間を過ごしているはずだ。霞は
「…東岩さんの出生譚、初めて聞きました。」
「私もです。今のお話からすると、もともといらした山というのはあの裏手の山ですね?なだらかで荘厳なあの山脈の一部の。」
「うん、そうだね。あそこへ行けずとも、眺めれば昔のことは思い出せる。僕は今、ここで穏やかに時間が過ぎているのがただただ嬉しいんだ。」
安産祈願に訪れた方が初宮にきて、すぐに七五三詣でをする。親御さんに口答えをするようになったり、美しい衣装や化粧を施して初詣にくるようになる。そして時間がたてば、無事花嫁花婿になった姿を見ることができるときもある。そしてその人が、また安産祈願に来たりなんかして命が連綿とつながっていく。それを見られるだけで、時折聞こえてくる話を聞いて成長を分けてもらえるだけで僕はもう満足なんだ。そう、東岩は語った。
「………!!!」
「あの、霞ちゃん?」
霞は泣きに泣いていた。
「わたし、なんて浅はかなっ…!!!東岩さんはこの社の父ですっ!!!」
「ええ~、僕、父なんて柄じゃないんだけどなあ。」
「いえ、何をご謙遜を。その由緒、最年長の年季、そしてひとを見守る目の長さ、さすがです。父と呼ばねばなんと呼びましょう。」
「いや葵さん、東岩でいいですよ…。」
「いやしかし、よく腰かけてぼうっとしているだけなのかと思っていたが、恐れ入る。その目線見習わせてもらおう。」
「おや、僕のを採用してくれるのか、それは嬉しいなあ。」
「でもね霞ちゃん。」
「はい?」
ぐすっと鼻をすすって霞が答える。
「僕は、霞ちゃんの在り方も素晴らしいと思っているんだよ。僕は基本的になにも干渉せず見守るものだから。霞ちゃんのようにひとの子と触れ合うのも、その子にとっては必要なものなのかもしてない。というより、必要だから見えているのかもしてない、と僕は思ってる。…僕や葵さんは職員の人にしか見えないから。新しい在り方をしている九十九なんだと思う。だから、僕は今回の霞ちゃんの考えには大いに賛成してるんだよ。」
ま、霞ちゃんに危険がなければの話なんだけどね、とウインクを一つ飛ばした。
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