第3話 霞敷く 起-3 思い起つ


 日も傾き、境内にもぼんやりと暖かい灯が燈るようになった。遅くまでいる参拝者や職員が砂利道を歩くのに不便しないためだ。たださわさわと木の葉の揺れる音と微かな砂利の音、人目を忍ぶような声が聞こえるだけの境内は昼間とは全く別の生き物のようだと東岩は言う。確かにそれは尤もで、昔はよくひとがいるといないとではこんなにも違うのかと思ったものだった。もう少しすると人の声も聞こえなくなる。宮司とはいえ正蔵だって住まいは別所だ、残されるのは霞と東岩とこの社の祭神の四柱だけになる。


「今日も大わらわでしたねぇ、お陰でとても楽しかったです!」

「僕はあれほどまでに人がいると疲れてしまうよ…。」

「東岩さんは静かな所が好きですものね。」


そう言って口元を袖で抑えた葵を東岩は少し困ったような笑みで見る。


「葵さんの立ち居振る舞いを見習いたいよ、いつだってすぐに心地の良いところを見つけるんだから。」

「ふふ、水は流れの良いところに流れるものですよ。」

「お姉様お上手っ!」


座布団いちまーい!とふたりで遊ぶ。これは正蔵が教えてくれたのだ、上手い事を言ったものには山田くんという人が座布団を持ってきてくれるのだと。しかし霞たちはひとに見えないものである、仕方がないので誰かが上手いことを言ったら座布団一枚!と相槌を打つのが恒例の遊びとなっていた。


「おや、正蔵くんどうしたのかな。あんなところで顔だけ背けている。」

「えっ?怖。」

「あら、今日のお勤めで首を痛めたのかしら、それとも怪しいものでもあるのかしら。」

「あんた方は座布団の話してからずっとそれをやってたのか!?」

漸く顔を合わせた正蔵は真っ赤な顔をして涙を浮かべてまで—-笑いを堪えている。

「やってたもなにも教えてくれたのは正蔵さんじゃないですか?結構これ楽しいですー!」

「こうなることはわかってて教えたのでしょう?」

「お姉様、こうなるって?」

「私たちの間で流行ることを言ったのですよ。きっと想定していなかったのでしょうね、思いがけず流行っているのを目にして面白くてああなってしまったのだと思いますよ。嗚呼、幼い頃から先を見るのが苦手なのは相変わらず治らないのね正蔵さん…。」


よよよ、と顔を袖で覆う。その肩は小刻みに揺れていた。


「もう、わたしが面白いもの新しいものを楽しみにしてるのは知ってるでしょー?」

「末娘…御前、御前自身のあの神木のように真っすぐなようで誠に喜ばしいが、人が好きというならもう少し世俗を知ってもよい気がするぞ。」

「え?なんですかいきなり!ちょっと!」


お姉様ぁ、と振り仰ぐも葵も東岩もちらともこちらを見ようとしない。


「もう!なんなんですかっそう言うのであればわたしは明日から日中町々を練り歩いてきますからね!」


揶揄われたのだとわかってやけくそ気味に宣言する。その瞬間正蔵の笑みがすっと引く。


「そ、それはあまりに軽々だ。せめてこの境内で収まるものにしてくれ。」


ここででもわかることがあるだろう、と続ける正蔵に「いえ、境内で“ちょっかい出し”ていてこれなのですから外へ出ねば意味がありません!」と返す。

正蔵が葵と東岩に助けを求めるような視線を送ったが二人は無言を貫いている。霞は「決めましたからね!さてどこ行こっかな~」などと言ってみる。


「いかんと言うのに!それは御前にとって危ないのだ、わかってくれ。」


さっきまでの和やかな雰囲気は一変し、正蔵はぴしゃりと言う。霞だけでなく葵や東岩にも本気で止めているのだとわかった。たしかに世俗を知らないから明日から町を歩いてここを離れるというのはさすがにこども染みていたかなとは思うが、しかし向こうから振った話で突然本気になってかかられると少々後味が悪い。


「もう、わかりましたよ…。しょ、正蔵さんが世俗を知ってもよいとかいうし、さんざん笑ったくせに…っ!」


霞は袴のすそをぎゅうと握りしめて杜へ消えた。その場に重い沈黙が下りる。


「…どうするんです、正蔵さん?」


葵が問う。


「どうするもなにも、明日気が付いたら市井に繰り出していた、などということは避けねばならん。私は至急調べてくるから二人は霞が出てしまわないよう見ていてくれないか。」


下手をすると大ごとになる——と二人に伝え、一旦急ぎ社務所へ戻った。



                    〇



 この神社にいるのは霞や葵、東岩のような九十九達と、夫婦神とその両親二柱の併せて四柱である。人とは違うという点では同じだが、霞たちと神々との交流はさしてあるとは言えない。どちらも信心や手入れにより支えられている存在ではあるが流石に格が違うということもあって、夜にはそれらの邪魔をせぬよう九十九も眠りに付くのが慣習となっていた。昼と夜とでは違う顔を見せることもあり、人からも九十九からも畏怖される対象なのが神なのだった。


また霞個人にとっても、ひとありきのはずなのにひとの息遣いのない境内はまるで打ち捨てられた社のようで恐ろしいものだった。だから、普段正蔵を含めた職員達がが帰路につくと葵と東岩へ別れを告げて真っ先に霞は杜へ消える。


今日は正蔵に突然固くものを言われてすぐに自分の寄代の神木へと帰ってきてしまった。いつもより早い戻りだったのだから杜の状態の確認でもしてみようかと思い立ち、自らの領分である杜をざっと回って見てみた。しかし当然ながら、どこにも異常はない。体調に異変もなく健やかだったのだから当然わかっていたことではあるのだが。


見上げた木々は夜闇を被り黒々とした葉を広げている。適度に枝が梳かれ、伸び伸びと腕を広げている大木の様はなんとなしに自由さと威厳を感じさせた。

・・・杜がこうしてあるのはひとがいろいろと労をかけて手を入れていてくれているからなのよね。

と、ふと思った。いつも自分たちはひとにより支えられひとにより存在する、想いの塊のようなものとは理解しているが、何か足りない気がするのだ。中身というか、生々しさという類のものが。

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