第6話:国語と英語のお話
英語なんて嫌いだ。国語も嫌いだ。
私は何回、これらの言葉を言ってきただろう。
多分、読み切った小説の数よりは多いだろう。
「……漫画はたくさん読むんだけどね。文字ばっかりのやつを見てると眠くなるって言うか。……って。そんなこと、ここで言っちゃダメでしょうが!」
わたくしの所有者様……否、御主人様は、この小棚に収まった兎のぬいぐるみに申しつけました。中学一年生。画面の向こうに気遣いができる年頃です。
「英語と国語、どっちも嫌いですか?」
わたくしは御主人様に聞きました。
「大嫌い。英作文の宿題ってさ、日本語で元ネタを作ってから英語に訳すわけじゃない? それってつまり、宿題が2つあるようなものだと思わない?」
「一石二鳥ですね」
「泣きっ面に蜂の間違いだよ。……もうぃい。宿題やめた。漫画読む」
どうせ読むならカクヨムにしてあげたらどうですか? と、わたくしは心の中で粘り強く呟いてあげます。
「……しかし御主人様。泣きっ面に蜂なんて言葉、良く出てきましたね」
「たまたまだよ。……別に、私だって昔はそこまで国語嫌いじゃなかったし。英語だって、習って半年くらいは楽しかったよ。最近は、なんか飽きてきたって感じ」
「I like tuna. ……いっぱい言ってましたよね」
「本当はエンガワの方が好きだけどね。……」
ちなみに、エンガワを英語で言うと“the flesh from around the base of dorsal and ventral fins of a flounder or flatfish”です。長いです。
……さて。
さんざん躊躇った末に、根が良い子な御主人様は、白紙と対面しました。
「ぁうー!」
そして突っ伏しました。
漢字の送り仮名に四苦八苦し、物語文では登場人物の心情に悩まされ、英単語の発音は身につかず、とりあえずpardon?とだけ言えるようになった御主人様の脳味噌は、とっくにキャパオーバーでした。
国語と英語。もう、どちらもウンザリのようです。
「……キャラクターの心情に採点基準って何よ! どう読み取ろうが私の勝手じゃない! cousin《いとこ》って何よ! コウシンじゃないの!? 自信満々に発音したらもの凄い笑われたんだけど!!」
「That man is my コウシン。……」
物語文における心理描写の理解って、意外と難しいですよね。実際、作者に問題を解かせたら結構な割合で間違えるんじゃないかと思うほどです。
英単語の発音。これもなかなかに厄介です。riceとlice……片方はお米で、片方はシラミの複数形ですが、発音が似ています。でも、レストランでシラミの山盛りを出すシェフはいません。物知り顔の英語かぶれは放っておいて、普通に「ライス」と言っておけば問題ないでしょう。
「ぅがー!! もぅやってられるか!!」
「ちなみに、高校の国語には古文と漢文が本格参戦して、物語文は評論文と組んで現国という教科になります。評論文では、やけに込み入った哲学的な内容──心身二元論とか、モダニズム批判とか、ジェンダー論とか──を扱います。高校英語は中学英語の延長です。とは言え、過去完了形や関係代名詞といった新要素も登場します」
「もぅ絶望しかないわ。……、こうなったらエスペラント語の出番よ。世界を1つの言語で統一するのよ!」
「また、えらくケッタイな代物を持ち出してきましたね……」
世界エスペラント協会の会員は2万人ちょい。言語の統一は夢のまた夢です。
「……たまには、御主人様を直接助けるような小話でもしましょうか。今、御主人様が取り組んでいる英作文のテーマは何ですか?」
「“小学生の頃の思い出”について。だよ」
「……6年間、御主人様の思い出はゼロですか?」
「いっぱいあるよ! ……逆に、いっぱいありすぎるから選べないって言うか、……まぁ、超ド級のイベントがあったわけじゃないから、どれも普通の思い出で、楽しかったとか大変だったとか以外に話が膨らまないって言うのはあるけど……」
御主人様はぅんぅんと唸りました。
完全に、頭がこむら返りを起こしていました。
「いっぱいありすぎる考えを整理するのも、小さな話を膨らませるのも、御主人様と不仲な国語や英語といった“言葉”の仕事です。今回は堅苦しい論理学やレトリックよりも、訳語や字義を使った連想を使って考えてみましょう」
「訳語……じぎ……連想……?」
「さて。思い出を英訳すると、もっぱらmemoryになりますが、他にremembranceやbaggageといった単語もあります。Baggageは普通“手荷物”という意味ですが、“嫌な思い出”という意味もあります」
「どうせ書くなら、良い思い出の方が良いかなぁ……」
「memoryとremembranceには、“思い出”の他に“形見”という訳語があります」
「形見って……忘れ形見の、あの形見?」
「はい。今回は遺品という意味は気にせずに、読んで字の如く“形が見える”思い出という視点から考えてみてはいかがでしょうか?」
「形が見える思い出、ねぇ……」
御主人様は、部屋中をぐるりと見回しました。
「……ん」
御主人様は、真っ赤なランドセルに目を留めました。
「ランドセル。確かに、形が見える思い出ですね」
「すっかりホコリまみれになっちゃって。……、」
御主人様は立ち上がると、ランドセルに優しく触れました。
そして、表面の革生地に刻まれた白い傷に気が付きました。
「この傷は……、……ぁあ。確か小1の時に、私が土手から落っこちて、その時、ランドセルがクッション代わりになって……」
「昔の御主人様は本当にヤンチャでしたよね」
その昔、御主人様はフリスビー代わりにしていた黄色い帽子を拾うため、土手を下り、途中で足を滑らせ河原に転がり落ち、でんぐり返しをしたのでした。
「これ、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんからのプレゼントだったから、私……あの時けっこうヘコんだんだよね」
「確か、中身は川の中にぶちまけたんですよね」
「ぃやあ……。あの日以来、ちゃんとマグネットの鍵は回すようにしたよ」
「立派にエピソードじゃないですか。良い思い出かどうかは微妙ですけど」
「ぅん……。でも、案外悪くないかもね。……」
御主人様は、サラサラッとシャーペンを走らせました。
「ところで、何文字くらいの宿題なんですか?」
「40字くらいだよ」
「わりと短い課題だったんですね……」
「短くても難しいものは難しいんだよ」
御主人様は口を尖らせました。
御主人様は、エセ筆記体を駆使して、短い英作文を書き終えました。
そして、うっかり紛失しないよう、英語の教科書に挟み込みました。
しばらくの間、御主人様は教科書を見つめていました。
「御主人様……?」
わたくしが声を掛けると、御主人様は、スッと立ち上がりました。
そして、椅子の影に隠れるように、鞄の前にしゃがみ込みました。
「……本当はね、最初は、ラビちゃんの話で書いても良いかなって思ってたんだけど……。さすがに、中学生が小学生時代の思い出にぬいぐるみを持ち出すのは恥ずかしいって言うか、何て言うか……。その……」
わたくしの位置からは、御主人様の表情を窺うことはできませんでした。
御主人様は、鞄の中の教科書類を特に意味もなく整えながら、言葉を探していました。
「……40字だと、短すぎるかなって思ったの」
「御主人様……」
記憶を整理して、思考を積み上げるのは、言葉の重要な仕事です。
そして、誰かに想いを伝えることも、言葉の大切な仕事なのです。
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