特異性サメ収容財団SPC 魔法少女対無限増殖シャーク
ターレットファイター
魔法少女対無限増殖シャーク
灰色の空の下、真っ青な荒波が護岸に砕けては空中に白い飛沫を散らす。海岸からいくらか離れたところを通る国道からも、その飛沫ははっきりと見えた。
国道を走る車は一台。パステルカラーのボディに愛嬌のある前照灯。ファミリー層向けに販売されている軽乗用車。ほかに車は走っていなかった。車内には二人。助手席で小学生低学年ほどの年頃の少女が首から提げた錨を象ったアクセサリーを弄び、運転席ではその母親ほどの年齢の女性がハンドルを握っていた。
車内には、子供向けに放映されている魔法少女ものの主題歌が流れている。
ぼんやりと荒れる海を眺めながら助手席に座る白いシャツに黒い吊りスカートの幼女――烏羽嗣がぼやく。
「あーもう、本当だったら今頃老神温泉でまーったり温泉に浸かってるはずなんだよ。温泉でさ、痛めた腰を労りながら有給を楽しんでたはずなんだよ」
烏羽の姿に見合わない発言にハンドルを握る薄月しぐれは「嗣さん、それ何度目ですか」と苦笑を浮かべ、ウィンカーを点ける。烏羽の実年齢は見た目に反して三十二。二十九歳の薄月よりも年上だった。
薄月は速度を落としながらハンドルを切り、軽乗用車を海へと向かう側道へ乗り入れさせる。側道のそばには、水族館がこの先にあることを示す看板が掲げられていた。主題歌に合わせて指先でリズムを取りながら、烏羽のぼやきは続く。
「それがなんだい、たしかにね、水はあるよ、温水もあるだろうさ。でもね、ここでまったりと風呂につかってとはいかないだろうに」
軽乗用車は「閉館中・立入禁止」の札が上から貼り付けられた看板を無視して水族館の駐車場へと入り込む。一見したところ、手入れされず放置されている駐車場。
しかし、古ぼけているようにウェザリングを施された最新型の監視カメラや用途の定かでない観測装置があちこちに潜んでいた。
「記録によると、この施設には温泉も併設されていたようですが」
「おいおいおい、本気かい?」
軽乗用車を止め、サイドブレーキを引いた薄月に烏羽は慌てたように腰を浮かせる。「なんだい、君も収容対象物になりたいって言うのかい?」
「冗談ですよ」
しれっとした顔でそう言うと、薄月はエンジンを切った。車内に流れていた軽快なメロディが消え、海岸に打ち付ける荒波の音が取って代わる。烏羽はダッシュボードから取り出した白いベレー帽を被り、シートベルトを外しながらぼやく。
「……まったく。たまにどこまで本気かわからないから困るなぁ」
ドアを開けると、海から吹き付ける冷たい風が烏羽の濡れた烏のような黒髪を揺らす。
「でも、
「そうはいっても特異性オブジェクトだからサメの死体を浸けたりしたら大変なことになるんじゃなかったっけ。だいたい僕がそれに浸かるなら、クロスチェックテストの申請が必要なんじゃないか?」
「どうなんでしょうね。今度ノア博士に聞いてみましょうか」
「……流石にちょっと勘弁願いたいな」
心底嫌そうな顔で烏羽が肩をすくめる。
「まあ、烏羽さんの性能が劇的に向上するといろいろ困りそうですが」
薄月はそう応じると、薄緑のロングコートを羽織っい、後部座席から取り出したかばんを背負う。手慣れた手付きで首から下げたクレフ万能記録機の連続記録スイッチを入れた。がさごそとコートのポケットを探り、ひしゃげた箱からタバコを抜き出すと片手で風を遮りながらライターで火を付ける。
烏羽はさり気なく薄月の風下を避けながら、トランクから翼とハートのレリーフのついた桃色のステッキを取り出す。グリップの根本にあるスイッチを入れると、ハートのレリーフの中でライトがキラキラと光る。
玩具売り場に行けば売っているような、プラスチックで出来た平凡な魔法少女のステッキ。
烏羽がステッキを振ると、電子音声が海風に吹き散らかされながら微かに響いた。何度か振ったあと、烏羽はステッキのスイッチを切る。
ひときわ強く吹いた海風が薄月のコートの裾をはためかせ、烏羽は帽子を押さえた。
「さて、仕事に取り掛かりましょうか」
「そうだね。早く終わらせて、帰りに一風呂浴びたいものだ。……有給を潰されたんだ、ビールもつけたいところだな」
二人の仕事は、この世に溢れる特異性サメ科オブジェクトの調査(Search)、追跡(Pursuit)、収容(Contain)。
二人の仕事は、その理念を掲げ、人類存続を目的とするSPC財団のエージェントだった。
水族館が営業していた頃には、来館者を出迎えていたであろう吹き抜けのホールには数フロア分ある壁をまるまる使って巨大な壁画が描かれていた。
「またサメか」
ステッキを腰のあたりで持ちながら烏羽は壁画を見上げて呆れたような表情を浮かべる。薄月は万能記録機のカメラで壁画を撮影しながら「サメ特異性オブジェクトですからね」と応じた。
「サメサメサメサメ、なんだい、この世界の怪異は全部サメばかりだとでも言うのかい?」
烏羽は肩をすくめながら、ホールから入場ゲートの方へと足を向ける。この水族館の特異性について、薄月は先だって行われた調査のレポートに目を通していた。レポート類へのアクセス権限の認められていない烏羽も、ここまでの道中で大まかな内容を薄月から聞かされている。
「でも実際、財団の収容対象オブジェクトはほぼサメですね。私もすべての報告書や取扱方をチェックしたわけではないですが……」
「で、結局のところここもサメなんだろう?」
「そうですね」
雑談を交わしながらも、二人はたゆまず、そして油断なく周囲を見回し続ける。
怪異性オブジェクトとは、すなわち常識では測れない
そして、放置すれば人類滅亡シナリオにつながる存在も少なからず含まれている。むろん、それに対峙するエージェントにとっての死の可能性は決して低くない。
薄月は万能記録機に「報告の通り、サメの壁画確認。アサイラム財団の関与の可能性。報告のあった特異性サメは確認できず」と報告を吹き込みながら入場ゲートを潜る。烏羽がステッキのスイッチを入れると、アニメの中で魔法を使うときに鳴らされる効果音が響いた。
「それで、このオブジェクトの異常性というのは……」
「ええ、ここからです」
ゲートの先の展示エリアは、照明が落とされていた。壁面に埋め込まれた水槽から差し込む弱々しい光がリノリウムの床で揺らめく。薄月はペンライトを取り出し、目の高さに構えた。
「シャークランドへ……ようこそ?」
ペンライトの光に照らし出された文字を薄月が困惑しながら読み上げた瞬間、ぴんぽんぱんと館内アナウンスの電子ベルが響く。報告書では、そのような事象は確認されていなかった。
同時に、天井の照明に光が灯る。深海のような青に彩られ、真っ直ぐに伸びた通路が暗闇の中から浮かび上がった。
「アサイラムのシャークランドへようこそ!」
館内アナウンスの電子音声と同時に、入場ゲートにシャッターが勢いよく降りる。
「只今より、空中遊泳ショーが始まります。皆様、お楽しみください!」
アナウンスが廊下を反響し、その残響が消え去るよりも早く水槽の表面から人間の背丈ほどもあるサメが現れた。照明の、LEDの光の下でサメ肌が青く揺らめく。
「では皆さん、食べられることのないよう、逃走をお楽しみください!」
空中に浮かんだサメがゆっくりと体の向きを変え、その目に薄月と烏羽を写す。
「げ」
「あれが観測済みの特異性ですね。報告通りの姿です」
尾びれが振るわれ、サメが空中を駆ける。
烏羽が首から提げた、錨を象ったチャームが揺れた。烏羽の小柄な身体が低く沈み、リノリウムの床を低く疾走する。
突進するサメが口を開く。下顎がリノリウムの床を削り取る。口の中に並ぶ鋭い牙へ向けて烏羽が駆ける。
サメの顎が届く寸前、烏羽が床を蹴った。
「サメ特別収容法一番、《殴打!《ぶん殴れ!》》」
ステッキの先端に付けられたハートの輝きが軌跡を描き、サメの頭蓋へとめり込む。
サメの身体が床へ叩きつけられる。その背後に、子供用スニーカーを鳴らして烏羽が着地した。即座に体勢を立て直し、ステッキをサメへ向ける。サメが何らかの変異を示せばすぐに対応できる姿勢。サメへステッキを向けながら、薄月の元へと戻る。
しかし、サメは床へ叩きつけられたまま何の変化も示さなかった。
「……これだけかい?」
烏羽が首をかしげ、薄月が「さあ、第一収容法はまだ試されてませんので」と応じる。
「これで終わってくれないかなぁ。そうすれば、僕は夕方には温泉で有給を満喫できる」
「私も、久々に柔らかい布団で眠れますね」
「でも、だいたいこういう場合だいたいうまくいかないんだよな……」
烏羽が嫌そうな顔でつぶやくと同時に、館内アナウンスの電子チャイムが響いた。
「お客さまに案内申し上げます。恐れながら、館内のサメへの殴打はご遠慮ください。また、サメを殴打された結果お客さまに生じた被害についても当館では関知しかねますので、ご了承ください」
朗らかなアナウンスと同時に、床に横たわったサメの身体がびくりと跳ねる。アナウンスに気を取られて一瞬、警戒が緩んでいた烏羽がステッキを握り直す。
直後、床に横たわるサメは二体になっていた。サメの尾びれが床を叩き、二体のサメが空中に飛び上がる。即座にステッキが二連続でサメの頬を張り飛ばした。
二体のサメが折り重なって壁へと叩きつけられ、一瞬の後に四体へ増える。一斉に飛びかかってきた四体のサメを即座に烏羽のステッキが張り飛ばし、サメは八体に。飛びかかってくる八体のサメのうち、六体までを烏羽のステッキははたき落とす。しかし、残る二体へは対処が追いつかない。
「これは――逃げるに限る!」
腕へと食らいつこうとするサメの顎からすんでのところで逃れると、烏羽は即座にスニーカーの底を鳴らして駆け出す。薄月も「殴打することでサメが増殖。殴打の回数と個体数が対応するのかは不明」と万能記録機へと吹き込みながらあとに続く。「ポケットの中にはビスケットが一つ、一つ叩くとビスケットは二つ……じゃないんだよ!」
「ビスケット、美味しいですよね。私はチョイスが好きです。森永のあの四角いやつ」
「ああそうかい! 僕かぁムーンライトが好きだよ!」
一度に襲いかかるのではなく、微妙にタイミングをずらしながら交互に襲いかかる十四体のサメをステッキではたき落としながら烏羽が駆ける。薄月はその数歩先を駆けながら、万能記録機のカメラを烏羽の方へと向け続ける。いつの間にか、周囲の光景は水族館から黄昏時の公立高校のものへと変化していた。
「周囲の環境の変化が発生。……嗣さん、この光景になにか心当たりはありますか?」
「むかぁし通ってた高校だよ! ええい! だからそんなに増えるな! 君たちは量を見誤った増えるわかめかなにかか!」
「嗣さん、高校に通ってたんですか?」
「なんか棘を感じるねその言葉! というかそのとき君もいただろうその高校に!」
「そういえばそうでしたね。そういうことになってました」
廊下の橋までたどり着くと、烏羽と薄月は手すりを滑り台代わりに階段を滑り降りる。曲がりきれなかった無数のサメがぶつかり合い、廊下の壁へと叩きつけられる。
「嗣さん、ぶつかり合ってますけどサメは増えましたか!?」
「百体越えた時点でもう数えるの止めたよ! 」
「ところでこの校舎、一階から外出れましたよね!?」
「出れたと思うけど、正直これ外出ても危険なんじゃないかな! たぶんこの空間自体が特異性オブジェクトだ!」
「じゃあどうするんです!? チェーンソーでも探すんですか!?」
「窓ガラスはどうか知らないけど、あのサメは壁抜けできない! だから地下の電機室に立てこもる!」
烏羽は地下一階まで階段を滑り降りると、「電気室 立入禁止」という看板の掲げられた扉の取っ手を引く。
しかし、鍵のかけられた扉は小柄な烏羽が引いたり押した程度ではガタガタとなるだけで開かない。薄月の背後からサメが雪崩を打って押し寄せる。
「ええいそうだった! そんなところまで再現しなくていいよまったく!」
烏羽が振るうステッキに弾き飛ばされたサメが後ろから押し寄せるサメへと叩きつけられ、空中で一瞬静止。その間に、烏羽がステッキをドアノブへ叩きつける。異様な音をたてて金属製のドアが歪み、ドアノブが弾け飛ぶ。続く二撃でステッキがドアへとめり込んだ。烏羽が力任せにステッキを引くと、軋みながらドアが開く。
烏羽と薄月が扉の向こうへ飛び込むと同時にサメが押し寄せ、ドアが圧力で閉じられる。
「これで一安心、という訳わけだが……」
なんとか引き抜いたステッキで鼻先を室内に突っ込もうとしていたサメを殴り飛ばし、扉を完全に閉じると烏羽はため息をつく。
「こりゃ、身動き取れないね
「そうですね」」
ペンライトで飛び込んだ先の室内の様子を探りながら薄月が首をかしげた。「それにしても妙ですね。電気室というのは、畳敷きで押し入れを備えているものなんでしょうか」
「さあ、どうなんだろうね。……ところでしぐれさん、手から血が出ているようだけど大丈夫かい?」
薄月の指先から血が滴っていることに気づいた烏羽が手を伸ばす。烏羽の指が触れた瞬間、薄月が弾かれたように手を引っ込めた。ペンライトが転げ落ち、光が狂ったように壁と天井を駆け回る。押入れの襖が動き、暗闇の中で何かが動く。
「痛たた……」
「大丈夫かい? サメに噛まれたのなら大変だけど……」
「いえ、嗣さんが守ってくれたのでそういうことはないですね……」
薄月は首を傾げるとペンライトを拾おうと身をかがめる。不意に、転がったペンライトが拾い上げられた。
「お姉さん……大丈夫?」
烏羽が無言でステッキを正眼に構え、声の主をハートの中に仕込まれたライトが照らし出す。
声の主は、十歳ほどの少年だった。
機械室の中に広がっていた和室の襖を開けると、その先は夕焼けで朱く染まった縁側だった。片目を眇め、ガラス戸の向こうに広がる景色を眺めながら烏羽がつぶやく。機械室へ踏み込んだときに見つけた少年は、薄月にもたれかかりながらうとうととしていた。
「……薄月さん、僕は行方不明者がこのオブジェクトで出ているとは聞いていないのだけど」
「話していませんから。それに、報告書にい書いてあったのは近隣で一名行方不明者が出ていることと、彼の自転車が水族館の駐車場で発見されたことだけです」
縁側に腰を下ろした薄月は、そう応じながらくわえたタバコに火を付けようとライターを取り出す。指に巻いた包帯に血がにじむ。窓の外では、海へ向けて落ちていく緩やかな下り坂の斜面に沿って広がる集落が夕焼けに染め上げられていた。
「行方不明になったのは?」
「一週間前。家族からの捜索願いが所轄の警察署に提出されてます」
「彼は、ここに来て一晩だと言っていたね」
「ええ」
烏羽の問いに薄月は頷き、手の中で弄んでいたライターをポケットに放り込む。ほんの数十センチ横で少年がうたた寝をしているときにタバコを吸うのははばかられた。烏羽はガラス戸にくるりと背を向け、うたた寝する少年の横に腰を下ろす。窓の外に広がる景色はすべてが夕焼けの朱に染め上げられていたが、どこにも太陽は浮かんでいなかった。
「この空間では、時間の流れも歪んでいる。……しぐれさん、現実性係数は測定できた?」
烏羽は包帯でぐるぐる巻きにされた少年の指先に触れそうになり、慌てて手を引っ込める。うっかり触れてしまったときに起こることは、容易に予測ができていた。ほぼ確実に、烏羽が触れたところから少年の身体は崩壊していくだろう。
「ええ。ロバート値は三.〇〇一……」
ロバート値とはその空間の「現実性の強さ」、具体的には「ニュートン力学の法則が量子論的振る舞いに対してどの程度優越しているか」を示す値だった。空間の現実性係数を介入性係数で割った無次元数で、空間のみを対象とするときは介入性係数を一.〇としたときの値が用いられる。通常の空間であれば一.〇となるその値が高ければ高いほど歪んだ空間――特異性の低い空間であるということになる。
「間違いなく、低現実性空間か」
そして、ロバート値が高い空間――現実性係数の低い空間とは、現実改変が発生しやすい空間であった。
「ええ。……彼の介入性係数も出ましたけど、聞きます?」
介入性係数とは「観測者として周囲の現象にどの程度介入できるか」を示す値であった。通常の人間の示す介入性係数は一.〇であり、高くなればなるほど現実改変を行い、周囲の物理法則を捻じ曲げる力を有することになる。
「いや。いい」
薄月の問いに、烏羽は首を振る。「だいたい想像は出来る」
介入性係数と現実性係数は対象が空間であるか知性存在であるかという違いがあるだけで、本質的には現実性キャリアーと呼ばれる存在が予想されている粒子の密度に比例するものだった。
そして、現実性キャリアーは通常、熱力学第二法則――エントロピー増大則に従って密度の高い場所から低い場所へと流出していく。
「それで、タイムリミットは?」
「おそらく、あと一晩でしょう」
烏羽の問いに、薄月はタバコをくわえたまま応じた。
現実性キャリアーを失うに従い、人間は末端部から崩壊していく。その第一の症状は、手足からの出血。である
烏羽は深々とため息をつくと、「まったく……僕かぁまったり有給を楽しみたいだけなんだけどな」とつぶやいて立ち上がった。ベレー帽をかぶり直し、薄月に背を向ける。
「……ところで、彼が無事外に出るにはサメを倒さないといけないよね?」
「ええ、そうですね」
烏羽の問いに、薄月は静かに頷いた。和室の襖の方から、サメが繰り返し体当りするガタガタという音が響く。ガラス戸の向こうの空にはサメが群れをなして泳ぎ回っていた。
烏羽はそっとガラス戸へ手を当て、「それともう一つ」と重ねて問いかける。
「……『魔法少女は、絶対に諦めない』『魔法少女は、みんなの幸せのために戦う』、そうだよね? この前しぐれさんと観に行った映画でもそう言っていた」
「ええ、そうでした」
薄月がもう一度頷くと、その動きで眠りを妨げられたのかうたた寝をしていた少年がのそのそと目をこすった。烏羽は背を向けたまま、少年に問いかける。
「ときに少年、君は、家に帰りたいかい?」
寝ぼけなまこの少年の示した答えは、肯定。
「つまり、彼をここから脱出させようと戦うことは、彼の幸せのために戦うことだ」
「ええ」
烏羽の言葉に同意を示すと、薄月はタバコを唇から抜き取った。再びうたた寝を初めた少年の身体をそっと押して、背後の柱へもたれさせる。
「そしてあのサメは、明らかに特異性を示している。財団の収容対象だ。ついでに言えば、僕たちは財団のエージェントとしてここに来ている」
「そうですね。財団の倫理規定ではサメ科特異性存在に巻き込まれた一般人は可能な限り保護、救出すべきと定められています」
薄月は頷くと静かに立ち上がった。「しかし、現状の装備では収容はおろか、私達の脱出も叶いません」
「機動部隊が同行していれば、こんなことにはならなかったんじゃないかな。まったく、経費削減さまさまだ」
「そうですね。そういえば通常の規定では、このようなオブジェクトの調査にはエージェント複数名に加え機動部隊が護衛として同行することが定められていましたね」
「けれども、今は同行していない。僕たち二人で、あのサメと戦わなければならない」
「ええ」
薄月は頷くと烏羽の隣に立ち、その横顔をうかがう。烏羽は、じっと窓の外を見つめていた。
「つまり……薄月上級研究員、魔法少女が必要な状況なんじゃないかな?」
「……ええ、そうですね」
薄月は頷くと、ポケットから鍵を取り出す。烏羽が差し出した手に、その鍵を握らせる。
少年をおぶい、数歩後退ると薄月は大きく息を吸い込んだ。
「エージェント・烏羽嗣……いえ、収容対象物二三九号、上級研究員薄月の権限のもと、特異性の発露を許可します」
薄月が宣言すると同時に、烏羽は首から提げた錨のチャームに鍵を差し込む。
「ミラクル・マジカル・ドレスアップ!」
烏羽が叫んだ瞬間、空間が作り変えられる。縁側が、和室が、黄昏時の景色が消え、水色の光が広がる。烏羽の服が薄く光り、もともとのシルエットを失う。光の中から現れた薄水色の宮殿のなかを羽が舞い、烏羽を包み込む。
風が強く吹き、舞い散る羽毛が吹き散らかされる。舞い散る純白の羽の中から、青を基調としたワンピースを身にまとい、髪を蒼く染め上げた烏羽が現れる。
「羽ばたく空の魔法少女、スカイブルー・スカイ!」
烏羽が手にしたステッキを構えると同時に、薄水色の宮殿が消え去った。
「はああああっ!」
烏羽が跳ねると同時に、あたりから一斉に白い羽が舞い上がる。縁側は消え去り、薄月の立つ場所は洋風の町並みの道路へと変わっていた。
現実改変。烏羽の持つ特異性であり、烏羽嗣を財団の収容対象オブジェクトとした原因となる力だった。
上空のサメが素肌をきらめかせ、逆落としに烏羽へと突進する。烏羽の振りかぶった拳がサメへと突き刺さる。その瞬間、無数の光の粒子となってサメが消え去った。烏羽の拳がサメへと突き刺さるたび、あたりに白い羽が舞い上がる。
現実改変能力者とは、高い介入性係数を示す存在。現実性キャリアーが以上に集中し、さらにその向かう方向性をコントロールできる存在である。
「マジカルロッド、エクスプロージョン!」
烏羽が叫ぶと同時に、構えたステッキから巨大な白い花が広がる。広がる花に飲み込まれ、サメが消滅していく。吹き飛ばされたサメは消し飛ぶのみで、増殖することもない。
サメは殴打されることをトリガーに周囲の現実性係数を希釈し、増殖している。それが烏羽と薄月の仮説だった。
ならば、大量の現実性によってその希釈を補填すればいい。
烏羽がステッキを振るうたび、周囲の現実が改変され、サメは増殖を封じられていく。
烏羽の攻撃がサメに突き刺さるたび、どこからともなく大量の羽が舞い上がる。プラスチック製のおもちゃに過ぎないステッキから、巨大な花が現れる。
魔法少女。
アニメの中にしか存在しない、魔法少女そのものとなって烏羽は空を舞う。特異性オブジェクトそのものであった空間が、介入性係数五.〇の烏羽の現実改変によって上書きされる。
増殖したサメが消え去るまでに要した時間は十数分。
水族館から脱出すると同時に、烏羽は変身を解いた。ワンピースの表面から無数の羽が舞い上がり、黒い吊りスカートへと戻る。薄月におぶわれた少年はまだうたた寝を続けていた。
「しぐれさん、ヘリで温泉まで送ってもらうことはできないかな?」
軽自動車にもたれかかりながら首をかしげる烏羽に、薄月はそっけなく「ダメですよ」と応じる。薄月の連絡に対し、財団はヘリで人員を派遣すると応答していた。
「でも、この近くの施設内に温泉旅館があります」
「……それ、特異性があるやつじゃないの?」
「ええまあ。お湯を吐くサメから採取された温泉です。効用は肩こり、腰痛、美肌などがあるそうです」
「まーたクロステストうんぬん言われたり……しないよな、うん、しないと信じよう」
烏羽は小さく頷くと、大きく空に向かって手を突き上げた。
「せっかくの有給なんだ、温泉を楽しもう、楽しむんだ!」
少年を軽乗用車の後部座席に寝かせた薄月が頷き、「帰りの運転のの心配はいりませんし、私もビールを頂きましょう」と微笑みを浮かべる。遠くから、ヘリのエンジン音が微かに響き始めた。
烏羽嗣は、魔法少女である。
その特異性は烏羽が己を魔法少女であると信じる限りは財団にとって、有用な武器たりうるもの。
しかし同時に、その力は世界を滅ぼすことさえもできる力でもあった。烏羽が己を悪の魔王だと信じれば、あるいは戦う魔法少女の作品には必ず存在する邪悪な敵がこの世にもいると信じれば、その存在はこの世に現れる。だからこそ、烏羽はエージェントであると同時に、収容対象物でもあった。
彼女の名前は、烏羽嗣。
彼女の名前は、サメ科特異性存在第239号"魔法少女"
特異性サメ収容財団SPC 魔法少女対無限増殖シャーク ターレットファイター @BoultonpaulP92
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