番外編/僕と音〜REN〜

始まりの音(1)


 僕の名前は葉山はやまれんです。子どもの頃から女の子みたいと言われてきた男です。虚弱体質で身体はなかなか太くならず、身長もあまり伸びなかったせいだと思います。顔立ちはお母さんに似ました。でもそれだけじゃなくて、24歳になった今でも僕だけが凄く幼く見えます。


 僕は19歳のときに自閉症スペクトラム障害と学習障害があると言われました。感覚過敏の症状もあって、特に聴覚に苦痛を感じることが多いと聞きました。


 でも子どもの頃、あまり自覚はしてなかったです。


 音の聞こえ方、弟の泣き声が怖かったこと、服の締め付けが苦手なこと、お風呂で顔に水滴がついただけでも落ち着かなくて掻き毟りたくなったこと。食べられるものが少ないこと。晴れた日、光が眩しすぎる窓際の教室が嫌だったこと。曇りの日が心地良かったこと。


 どれも特に変わったことだとは思ってませんでした。僕は人とお喋りすることがあまり無かったけど、小学3年生のときにやっと幼馴染の二宮にのみや花鈴かりんちゃんに言ったことがあります。


 そしたら花鈴ちゃんは


「ああ、わかる! 私の兄貴も友達連れてきたときうるさいもん。そういうのはみんな嫌いだよ」


 って言ったから、そうなんだと思いました。みんな同じなのに我慢してて偉いと思いました。



 僕はお母さんに似てるから自分ではよくわからないけど、見た目も変わってると言われました。肌は白すぎてお化けみたいだと言われたこともあります。中学生になると毎日のようにそれを言われ、髪を染めるな、生徒会役員のくせに調子に乗るなと同級生たちから怒られました。僕は髪は染めたことありません。ついたあだ名が『白骨』で、みんな本当に気持ち悪がってるように見えました。


 数学は凄く苦手だったから必死に覚えようとしました。足し算も引き算も二桁以上はすんなり出来ないし、割り算の筆算も出来ないままやり方を忘れました。九九も全部言えない。公式も覚えられない。小数も分数も。数学というより算数のレベルから出来ないものばかりでした。


 それでもいつかみんなと同じように出来るようになりたいと思って頭が痛くなるまで考えました。でも学校に居るときよく筆記用具を捨てられちゃうから、ノートとりたくてもとれなくて、算数も数学もますます出来なくなりました。


 中でも幼稚園のときに花鈴ちゃんからもらったお花の模様の鉛筆を捨てられたときはとても悲しくて、僕は教室を飛び出しました。何人かの同級生が笑ってて、男のくせにキモいって声が聞こえてもっと悲しくなりました。授業が始まっても教室には戻れなくて、体育館の裏でずっと泣いていました。先生に見つからないように木の陰に隠れてました。


 そしたら夕方になって、花鈴ちゃんが僕を見つけてくれました。捨てられちゃった、ごめんなさいと言うと、花鈴ちゃんは僕の手を握って言いました。



「蓮の欲しいものなら私がまたあげるから。いつか一緒に暮らそう? 私はずっと蓮の味方だから」



 それからすぐに僕は熱を出して、しばらく中学を休みました。花鈴ちゃんは学校帰りによくお見舞いに来てくれました。そのとき、大人になったらどんな街に住んでどんな部屋を作ってどんな仕事をして暮らそうか沢山お話ししました。熱は苦しかったけどとても楽しかったです。花鈴ちゃんが一緒に居てくれるなら頑張れそうな気がしました。弟のりくには付き合ってるの? っていつも聞かれたけど、花鈴ちゃんとは友達だから違うよっていつも答えてました。



 花鈴ちゃんはとても綺麗な子です。身長はいつもみんなより高めで、だけど笑うと可愛いです。髪はツヤツヤしてて肌は瑞々しい。化粧品に詳しくて服装は大人っぽいです。猫みたいに大きな目がかっこいいです。将来はモデルになるんだと小学生の頃から言ってました。きっとなれると僕も思いました。


「いつまでも学生でいたいって言う人の気が知れないわ。馬鹿みたい。大人になれば自分で自分の道を選べるのよ。籠の中なんて私は御免だわ。安全が確保されてるってだけで他にはなんの魅力も無いじゃない。そういう奴ほど人の粗探しとかゴシップとか、ど〜〜でもいい話題しか出てこないのよ。ねぇ、蓮。噂なんて脆弱ぜいじゃくなものよ。事実には勝てないんだからね」


 言葉使いはちょっと難しく、怖いときがありました。花鈴ちゃんは笑っててもイライラしてるときが多いように見えました。実際、学校という矮小わいしょうな世界にうんざりしてると言ってました。



――葉っぱ2つ。



 花鈴ちゃんが帰った後、僕はいつもこう呟きました。子どもの頃からずっと覚えている言葉です。お母さんの言葉です。



――こんなふうに寄り添える人を見つけられるといいね――



 僕の部屋の窓の外。幼い頃に見た仲良しそうな葉っぱ2つはとっくに散ってしまってもうそこにはありませんでした。だけど僕の心にはずっと残っていました。



――私はずっと蓮の味方だから――



 花鈴ちゃんの言葉がそこへ重なって。そうなれたらいいなって思いました。気は強いけどこんな僕を許していつも側に居てくれる子。ずっとずっと仲良しの友達でいられたらいいなって思いました。



 でもそうやって支えられてきたのに僕は……



 高校2年のときに問題を起こしてしまいました。



 ちょうどインフルエンザで学校を休んでるときでした。



 僕が同級生たちから言われてきた言葉、はっきり思い出そうとしても思い出せない部分があるんです。多分いじめられてるって気付いてもどういう被害なのか説明できないから、実際先生に相談してみたときも証拠が無い、被害妄想もあるんじゃないか、繊細だから気にしすぎてるんじゃないかって言われたから……


 布団の中、朦朧もうろうとしてるのに絶望ばかりが膨れ上がってきました。



 一方でやけに鮮明な記憶もある。


 僕を蔑むようなみんなの目。


 こっちを見て何を喋っているか、何を笑っているか想像するしかなかった。



――キモい――



 はっきりと聞こえた言葉だけを頼りに推測すると、ザワザワと音を立てて繁殖していくような感覚がありました。この身体を蝕むウイルスみたいな。



――男のくせにキモい。ひょろひょろだし――



――何考えてるかわかんないし――



――近づかないで、ばい菌が感染うつる――



――言葉が言葉になってなくね?――


――日本語喋れよ――


――キモい白骨が――


――すぐ泣く――


――音がダメって神経質すぎるだろ――


――計算するのに指使ってんだって〜――


――なにそれ馬鹿じゃん――




「…………っ!!」



 確かな雑音となって伝わり始めた声に耳を塞ぎ、それでも止まなくて、全身で振り払うようにして身体を起こしました。


 震える僕の頰へ一雫伝い落ちました。



 嫌だ。



 嫌だ嫌だ嫌だ。



 治らないで。学校に行ったらまた言われる。馬鹿にされる。みんなが僕の悪口を言ってる。今も聞こえる。



 それでもやっぱり行かなくちゃ。頑張らなくちゃ。そう思って僕は深夜にキッチンへ行って水を飲もうとしました。でも何度もむせました。息を切らし呻いている自分が、自分の声が、本当に気持ち悪く思えてきました。


 もう一回、先生に相談してみようかなと思って、涙目のまま練習しました。


「せ、せんせ……」


 そこに相手が居ると思って声に出してみました。


「キモいって言われました。僕、ずっと白骨って呼ばれてます。白くて細いから、からかってるつもり、なのかも知れないですけど、ゲホッ、僕、は、傷付いて、いて……」



――そう言われても私が聞いた訳じゃないからねぇ。君がそんなに悪く思われてるようには見えないんだけど?――



「しょ、証拠がなくちゃ……駄目ですか? 本当に……? 先生、本当、なんです……本当に……信じて……っ」



 今思うと幻だった先生の声に僕は一層の絶望を覚えました。それは気味の悪い青い炎となってジリジリと僕の理性の糸を焦がし、やがてプツンと途切れる音がしました。



 やっぱり駄目なんだ。


 こんな声じゃ。


 何一つ伝えられない。何度頑張っても駄目だった。



「要らない! もうこんな声要らないッ!!」



 叫ぶと同時に僕は果物ナイフを取り出し、自分の喉へと向けました。


 泣いている声さえ気持ち悪い。みんなの悪口以上にうるさい声。自分の声。役立たずの声。こんなのもう必要無い。虚しいだけ。



「やめなさい、蓮!!」



 そこにお母さんが助けにきました。だけど僕は錯乱していて滅茶苦茶に暴れました。喉と胸に怪我を負ったのがなんとなくわかったけど、痛いというより痺れるような感覚でよくわかりませんでした。



 それよりお母さんの腕を切ってしまったときの方が痛く感じました。大好きなお母さんの腕を。



 この瞬間に少し我に返ったけど、ただ自分の声を消したかっただけなのに、何故こうなってしまったんだろうと怖くて怖くて……



 僕は多分、そのショックで気を失いました。




 これがきっかけで僕は精神科にかかるようになりました。


 鬱病、パニック障害、PTSD、統合失調症……といろんな疑いがあってなかなか診断が下りず、最終的に(※)統合失調感情障害と結論付けられたことがありました。根本的な原因が発達障害だとわかったのが全日制高校を中退し、定時制高校へ入学し直した1年後。19歳のとき。


 そして定時制高校を卒業して間もない頃、花鈴ちゃんが僕の家を訪ねてきました。まだ就職するのは難しい状態で、ほとんど自宅に居た僕。家族のみんなは仕事や学校に行ってる時間帯で、僕たちは2人きりになりました。



 こんなにも久しぶり。何を話したらいいんだろうと考える暇もありませんでした。部屋に入るなり花鈴ちゃんは僕を強く抱き締めました。


「迎えに来たよ、蓮」


 掠れた声で、少し泣きながら僕に言いました。



「私、高校別だったし実家もちょうどゴタゴタしてたから気付くの遅くなってごめん。まさかアンタがこんなことになってたなんて……」


「かり……ちゃ……」



「声……出ないの? 辛かったんだね」



 僕の頰を撫でた花鈴ちゃんはすぐに強い眼差しを取り戻しました。神経がすり減って声がほとんど出せなくなった僕だけど、表情もあまり作れなくなった僕だけど、強そうな彼女を見ている方がやっぱり安心できました。



「約束、覚えてる? 一緒に暮らそうって」


「いっ、しょ……」



「ねっ、やっぱり学生なんかよりさっさと大人になった方がいいって言ったでしょ? 心配しなくてもこの街の連中はすぐに私たちのことを忘れてくれるよ。社会人なんてみんな自分のことで精一杯。他人への関心なんてあっさり失くす。その薄情さが却ってやりやすいんだ」



「ずっと……とも、だち……?」



 僕が訊いたとき、花鈴ちゃんはちょっと悲しそうな顔をしたように見えました。何か間違ったかなと不安になったんだけど、それからすぐに頷いてくれました。



「一緒に大人になろう。今はわからなくてもいいの……私が教えてあげる」



 だけどなんだか不思議な言葉を最後に残していました。



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 ※統合失調症感情障害・・・精神障害の一つ。統合失調症の症状に明白な躁病あるいは鬱病の症状の両方が同時に混在している。統合失調症の症状、あるいは気分障害(躁病、鬱病、または躁鬱混合性)の症状だけが別々の期間に現れる場合は、統合失調感情障害とは診断されない。再発しやすいという特徴を持つ。

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