悪魔
月澄狸
第1話
僕は今、生きる気力を無くしていた。明確な理由があるわけではない。何をやってもうまくいかなくて、もうなんだかめんどくさいのだ。
昔から勉強ができず運動神経が悪く、歌とか絵とかの才能もなく性格も良くなかった。何をやっても叱られるだけで褒められたことなんてありやしなかった。表彰されるクラスメイトをいつも遠くから見ていた。
ひょっとしたら、いつか僕も何かの才能に目覚めるかもしれない。そうしたらどんなに楽しいことだろう。自分の得意なことで人が喜んでくれるんだ。
「人を喜ばせるのが生き甲斐です」なんてこと、一度は言ってみたい。本気でそう思いたい。
そんな淡い願いを抱いて今まで生き続けてきた。しかし人生が好転するような気配は全く感じられなかった。
僕の周りの人はいつも困り顔でイライラしている。学生の時は勉強ができなくてもコミュニケーションが取れなくてもなんとなく自分の居場所は確保されていたが、社会人になるとそうはいかなかった。
「何をやっているんだ!」と注意され続ける毎日だ。
最初は、多分注意をたくさんされるのなんて当たり前だし、自分なりに真面目に頑張っていれば他の人と同様に仕事ができるようになると思っていた。
しかしいつまでたっても自分だけモタモタしていて注意され、やがて入ってきた後輩たちの方が仕事が上手くなった。
怒られてばかりの僕は、「才能が欲しい」と夢みたいなことばかり考えていた。現実逃避なのだろうが本気でそうなりたいと思っていた。
もっと本気で頑張ればいいじゃないかと思う人もあるだろう。現実逃避ではなく現実に本気になるべきだとは、僕も考えている。けれどこの現状が僕の本気の結果であり、精一杯やっているつもりである。
仕事ができず謝り続ける日々が過ぎ、友達もいないし毎日が全く楽しくなかった。生きる意味が見出だせない。僕は結婚したいとも家や車が欲しいとも思わないし、食事もそんなに好きじゃないし趣味も無い。楽しめる要素が見当たらなかった。
性格は悪いけれど人に嫌がられるのは好きじゃない。もし人に喜んでもらえる生き方が見つかったのなら、迷わずそちらへ向かうだろう。人の役に立つことをするだろう。
でも見つかりそうにないから僕は人が嫌いになった。自己嫌悪からくる八つ当たりだ。何もできないと自分を甘やかしているだけだ。だけどそれでも構わない。何をしようがどうせ心の底から叱ってくれる人などいないのだから。
そんなこんなで絶望した僕は、幽霊とか魔物とか、怪しげなものに興味を持った。
普通に幸せに暮らしている人なら、気味悪がってあまり近づかない分野だろう。けれど僕にはこちらの方が魅力的に思えた。
今、僕は失うと困るものなど何も無い。死んだって別にいい。というか、その方が楽だろう。何の役にも立っていないのだから。
悪魔や悪霊に取りつかれようがドラゴンに焼き殺されようが構わない。だから魔物が怖いとは思わず、心霊映像などを見てはあの世や異世界を想像して楽しんでいた。
だがそういったもので気を紛らわしても、現実という最大の恐怖は常に付きまとい、頭から離れることは無かった。
夢を見ようが魔界に思いを馳せようが毎日朝はやってきて、もう逃げ場は無いと悟った僕は死ぬことにした。
会社を辞め、少ない全財産をかばんに詰め僕はフラフラと旅に出た。空は青く風は心地よく、町の人は今日も変わらず行き交っている。学校に向かいランドセルを揺らしながら駆けていく子供たちを眺め、幼少期の自由な頃を思い出していた。
こうして何をするでもなく漂っていられれば僕は幸せだ。それだけで満足だ。他にこうなりたいとかああしたいとか思いはしない。
生きようと思えば食物や住みかが必要で、そのためにお金が必要で、お金が欲しければ働くしかない。蜘蛛の巣が中央から広がっていく様子のごとく、考えれば考えるほど必要な物は多く複雑な「生き方」の網が張り巡らされた。
生きてさえいなければこうはならないはずなのだ。死ねば消えられるだろうか。それともひょっとして、また同じような世界が目の前に広がるだけだろうか。分からないが、賭けるしかない。
僕は久々に自由に遊び回り死への時間を進めた。何も目的がなくしなければならないことも無いのは嬉しいことだ。死ぬのは苦しいかもしれないが高いところから飛び下りれば一瞬で終わるだろうし、消えてしまうのだから苦しみの記憶も何も残らないだろう。
自分の死を惜しむ人もおらず思い残すこともなく、自分が消えても世界は動き続けることが約束されている。なんと清々しい自殺日和だろう。
日が暮れ町が輝きを増し、電車には愛する家族の元へ帰る人々が乗っている。今日嫌なことがあった人も、楽しんでいた人も、家族とそのことで会話したりして新たな一日に備え眠りにつくだろう。
賑やかな町の片隅にはネコの腐った死骸があり、それも含め町は妙に美しかった。
世界には悪役や犠牲者がいる。物語において主人公の意思をより明確にする働きを持つ。僕らが誰かの目に止まることはないだろうが、それでも何らかの意味を持つと信じたい。
車にはねられたネコに野草の花を手向けた後、僕は目についた高い建物の階段に足をかけた。気持ちいい恐怖が込み上げ、しかし表は冷静に、たんたんと歩を進めた。
もうすぐそこに、憧れの死が迫っている。振り返る理由など何も無い。最上階にたどり着いた僕は、乱れる呼吸を整えることもせず昇りきった勢いのままそこから身を乗り出した。地上はぐんと遠く見え、鳥肌が立った。
僕は空を見上げ、光り始めた星々を一瞬眺めた後、目をつぶり体を前に傾けた。
フワッと天地が逆転し、体が浮いた。それは今までの人生で経験した恐怖を全て合わせたような感覚だった。大事な大事な書類を無くした瞬間とか、間違って人に傷を負わせてしまった時の様子が、白昼夢のように頭に浮かんだ。次の瞬間体は地面にぶつかるだろうと身構えたが、なぜか痛みは感じず、風をきって落ちてゆく感覚も途絶えた。
もう死んでしまったのだろうか? だとしたら案外簡単だった。こんなもんで済むのならまぁ、何度でも死ねそうだ。
いや死んだ後どうなるかの方が問題か。僕はおそるおそる、しかしワクワクしつつ目を開けた。
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