つづきはまたあした

羽太

第1話

場違いだ。

くたびれたメモを片手に、伊佐(いさ)修(しゅう)はそう呟いた。

梅雨も間近い五月の末のことだった。

いかめしい煉瓦門のまえに立つ、そのかたわらを何人もの少女たちが過ぎていく。もの珍しいのか、ひそひそと囁きあい、ときにはきゃあと笑い声をあげていくのに伊佐はちいさく肩をすくめた。

門柱に嵌めこまれた銅版は緑青に覆われている。そこにある、鹿ノ子女子大学という文字をぼんやりと眺めた。

門からは石畳がまっすぐにのびている。その先には教会があり、赤や緑のステンドグラスが初夏の陽射しに輝いていた。教会を中心に校舎がコの字型に建っている。二階建ての洋館建築だった。薄緑色に塗られた壁、飾り窓の向こうにはレースのカーテンがそよぎ、二階にはバルコニーもある。教会とそれぞれの校舎とは石畳でつながり、地面には玉砂利が敷きつめられている。

門の脇にはそこばかり妙に現代的なプレハブの守衛所があった。文学部キャンパスと書かれたガラス窓越し、初老の警備員がふたりこちらを鋭い目で睨んでいた。

メモをジーンズのポケットにつっこむ。近隣に名高い令嬢の園といえ、それなりの社会経験を積んできた二十五歳の男としてはさほどに臆することもない。とはいえTシャツにジーンズという恰好は失敗だったと反省する。せめてスーツでも着てきたなら業者のふりをして溶けこむこともできただろうが、あいにくのこと持ち合わせがない。

ま、いいかとひとりごちた。

守衛所に歩み寄り、いまだ眼光鈍ることのない警備員に声をかける。

「白羽(しらは)准教授のところに行きたいんですけど」

 警備員たちは顔を見合わせ、ああ、と納得したように頷いた。

「それなら聖明館の二階に研究室がありますから」

 地図をとりだし、コの字型の校舎の、門から見て右手の棟を指さす。伊佐は指示されるままに来客者名簿を記入し、入構証を受けとった。

「白羽先生のとこねえ、ま、きみなら若いし大丈夫だろう。がんばってね」

そう声をかけられて少し不安になる。とはいえ先入観を抱くのもつまらないので、その先を問うことはやめにした。どうも、と会釈して守衛所を離れる。

構内は緑に溢れている。教会のそばには樹齢百年に近いだろう欅が立っていた。その向こうには楡、楠と、そのいずれもが新緑を風にそよがせている。

ついでにと渡された学校案内に目を落とす。いわく、鹿ノ子女子大学は明治期に創設された女子修道院を基礎としている。教会は当時の趣を多分に残し、校舎もふくめ国の重要文化財に指定されていた。現在当地は文学部キャンパスとなっており、県内にはほかに社会学部、法学部、家政学部など三つのキャンパスがある。

ふうん、と伊佐は鼻を鳴らした。

 教会の裏手に校舎の玄関があった。石畳から五段ほどの階段をあがったさきは自動ドアになっている。階段の脇には洋風建築の趣を損なうことなくスロープがつけられていた。

近代的なロビーには来客用のソファとテーブル、その奥にエレベーターと階段がある。壁にかかった時計は一時五十五分をさしていた。シャンデリアを模した電灯がリノリウムの床をオレンジ色に染めている。

背の高いスーツ姿の男がひとり、大きな荷物を抱えて階段を降りてくるところだった。すれ違ってもこちらに目をくれることなく足早に去っていく。何とはなしその背を見送っていると、男と入れ変わりに女子学生が三人玄関から入ってきた。こちらを見て、揃って訝しげな顔をする。目ひき袖ひき去っていくのに伊佐は首筋を掻く。TPOはよくわからない。

二階は薄暗く静かだった。階段をのぼった左手には印刷室があり、その脇には資財室、英米文学科合同研究室がある。右側の廊下には木製のドアが並んでいた。あたりを見まわし、伊佐は右の道を進んだ。

 ドアにはそれぞれプラスチックのプレートがついていた。加藤、鈴木、奥村と見ていくうち、白羽圭一郎(けいいちろう)と書かれたところにゆきあたる。メモをポケットからひっぱりだし、そこにある名を確かめた。ノックしてしばらくののち、はい、と低い声がした。

「失礼します」

 大学の研究室などというところに伊佐はついぞ足を踏み入れたこともなかった。いくぶん緊張しながらドアを開ける。

 コーヒーの匂いが鼻をかすめた。

 室内は整然としていた。左右の壁には本棚が設えられていて、そのいずれにもぎっしりと本が詰めこまれている。日除けのおろされた窓辺にはおおきなデスクがあった。そのかたわらには茶器とポットが置いてある。

八畳ほどの、室内にはほかにこれといってものもない。扉の裏に貼られた美術館や研究会のポスターが、殺風景ななかにあってわずかな彩りを添えていた。

 床に刻まれた何本かの轍が薄陽に白く浮きあがっている。敷居の手前には黒いゴムのスロープが据えられていた。

 部屋の主は窓を背に、デスクに向かっていた。

「はじめまして。きみが田所(たどころ)さんの紹介してくれたひとかな」

 そういう声には深みがある。伊佐はメモをポケットにしまい、頭をさげた。

「はい、伊佐です」

 ぶん、と鈍い音がした。デスクをまわり、白羽はゆっくりとこちらにやってくる。間近で見るとずいぶんと大きな男だった。立てば百八十センチは超えているだろうか。体格もよく、シャツにジャケットを羽織っただけのなりが様になっている。

予想外のことに伊佐は驚く。とはいえそもそもあまり顔には出ないたちなので、相手に伝わったかはわからなかった。

 モーター音が止まる。白羽がこちらを見あげた。三十四と聞いていたがそれよりはいくぶん若く見えた。目鼻だちのはっきりとした、端正な顔立ちをしている。

「白羽圭一郎です。どうぞよろしく」

 ひとの手を借りることに慣れた、律儀なもの言いだった。

電動車椅子の右側に書類ラックとペン立てがついていた。見ればバッテリーの下、膝掛け毛布に隠れたあたりにも収納スペースがある。便利だなとおもって眺めていると、白羽は照れたように笑った。

「体に合う車椅子がなくてね。特注ついでにつくってもらったんだ」

 そう言いながら、ラックから履歴書を一枚取りだす。折り目がついたそれには見覚えがあった。われながらけしてうまいとはいえない文字を、白羽は丁寧に辿ってゆく。

「伊佐修くん、二十五歳。介護福祉士。田所さんとは元同僚だったね」

「はい、聞いてらっしゃいますか」

 訊ねれば、白羽は軽く頷いた。

「多少は」

 先月、伊佐は二年勤めた高齢者療養施設を解雇された。女子従業員へのセクシャルハラスメントをくりかえす入居者を怒鳴りつけたのがその理由で、とりたてて悔いはなかったものの、さて今後どうするかと考えていた矢先に施設で同僚だった田所から白羽のことを紹介された。

 詳細を問う気はないのか、白羽はそのまま書類をラックにしまう。

「田所さんから聞いているかな。私はこの大学で児童文学を研究していてね。九月にここで大きな学会があるので、それまでのサポートをお願いしたい」

 伊佐は首を傾げた。

「ヘルパーさんは頼んでないんですか」

 介護保険の範囲内で、と訊ねれば、白羽はちいさくかぶりをふった。

「私はうまれつきの下半身不随でね。こどもの頃は支援を受けたりもしたけど、いまは基本的にひとりでやるようにしている。さいわい職場もバリアフリーだし、自宅も近くだから生活に支障はない。学会準備のサポートとなるとコピーとりやお使いといった雑務が出てくるだろう。それはヘルパーさんの仕事の範囲外になってしまうからね。それなら介護経験のあるアルバイトのほうがいい。ついでに言うと、私は重いから男性の介護士さんのほうが気は楽なんだ。もちろんプロなんだから女性だって文句は言わないだろうけどね」

「わかりました。白羽先生、体がしっかりされてますけど何か運動でも?」

「リハビリを兼ねて上体トレーニングを少々。日常の買い物や移動なんかでも腕力はものを言うからねえ」

 なかなか斬新な表現だなとおもいつつ、伊佐はあたりを見渡した。

「俺、文学とか全然知らないんですけど」

 棚に並ぶ本の背を眺めても、児童文学というものが何なのかまったくもってわからない。白雪姫やアンデルセンくらいなら聞いた覚えもあるが、では内容はと問われたなら答えることはできそうもなかった。そもそも伊佐はこの歳になるまで自分から教科書以外の本を開いたことがない。

伊佐の言葉に、白羽は口の端をあげた。

「大丈夫、それは私の仕事だからね。もし何かわからないことがあれば聞いてほしい。田所さんもきみのことをほめていたし、特に心配はしていないよ」

 こちらが納得したのを見てとってか、白羽は右手をさしのべてくる。

「では伊佐くん、これから四ヶ月、どうぞよろしくお願いします」

 その手を伊佐は握りかえす。おおきな、あたたかいてのひらだった。



 赤や黄色、緑といったとりどりの色画用紙がテーブルのうえ一面に広がっている。

 いったいどうしてこうなった、そう胸中で呟きつつも、伊佐ははさみで茶色の画用紙を犬のかたちに切り抜いた。手足はちいさく、耳がぴんとのびている。

目の高さに掲げ、チワワらしく見えるよう微調整していく。何度かはさみを入れたのち黒目をサインペンで描いている、と、かたわらで笹岡(ささおか)ゆずきがううんと唸り声をあげた。その手元には無残にも切り刻まれた色画用紙がある。

「伊佐さんめっちゃうまい! いやだもう、なんでそんなにうまいの?」

「プロなんで」

 以前に勤めていた施設で伊佐は館内の掲示係を担当していた。三月には雛人形、六月なら蛙と紫陽花といった紙飾りを月ごとにロビーの掲示板や作業室の壁に貼りつけるのが主な仕事だった。入居者や職員にも好評で、ときにはリクエストを受け即興でチューリップやちょうちょをつくったこともある。いまとなっては発揮しどころもない特技だとばかりおもっていたのに人生とはわからないものだとしばし感慨に耽る。とはいうものの、なぜ自分がこんなことをする羽目に陥っているのかはやはりよくわからない。

 鹿ノ子女子大学文学部児童文学科の合同研究室に伊佐はいた。

聖明館の一階、ちょうど白羽の研究室の真下にあたる部屋だった。壁は本棚に埋められ、窓辺にはデスクがふたつ並んでいる。入り口の横には流し台とキャビネットがあった。扉にポスターがべたべたと貼ってあるところは白羽の部屋と変わらない。ただ、華やかな装いの女子学生が出入りする合同研究室にあってはポスターはむしろくすんで見えた。

白羽が顧問をつとめる児童文化研究会の会員四名と伊佐はテーブルを囲んでいる。こんど紙人形劇をやるんだけど手が足りないそうなんだ、そう言った白羽の笑顔をおもいだす。知らず眉間に皺が寄っていたようで、笹岡がやっぱりチワワ難しいですよねと見当違いの相槌を打つ。

アルバイトをはじめて二週間、伊佐はすでにこの仕事に倦んでいた。労働環境が過酷なのでも、賃金の不払いがあるわけでもない。ただ高齢者介護に慣れていた伊佐にとって白羽の行動力は想定外だった。自助自活をモットーとするだけあって目を離すとすぐにどこかに消えてしまう。いまも当の本人はというと電車で五駅ほど先にある私立高校の児童教育研究会にひとりで出席しているので、伊佐としては自分の存在意義に疑問を抱かざるを得ない。初日に警備員から受けた励ましがいまとなっては身に染みる。

「器用なのすごい羨ましい」

 ぶつぶつ言いながらも笹岡は諦めることなく色画用紙に挑戦している。その向かいで模造紙に絵を描いていた島木(しまき)洋子(ようこ)が呆れたように肩をすくめた。

「紙の無駄」

「だって難しいんだよ」

 言い合う島木と笹岡は、けれどそれほど仲が悪いようでもない。島木の隣でノートに何やら書きつけているのは須山(すやま)美登里(みどり)、そのさらに向こうにいるのが香川(かがわ)梓(あずさ)だった。みなそれぞれに可愛らしいものの、いくぶん年が離れているせいか、それとも学生とあってどこかこどもめいているせいか、心はさほど浮き立たない。

 浮き立ったらまずいんだけどなという言葉は胸のうちにとどめておく。

 伊佐が白羽の介助員として出入りすることについては当初学内で反発があったという。最終的には許可がおりたものの、いまでもときおり事務方などから妙な目つきで見られることがある。我が校の清廉を汚す不逞の輩とでもいうつもりか、実際のところ学生の興味はおおよそ白羽に向いているので、伊佐としては勝手にしてくれと言うよりほかない。 

 紙人形の裏側に割り箸を貼りつける。ふと目をやれば、笹岡もチワワらしきものをつくろうとしているところだった。しかしながら不器用なせいか、ぎざぎざの茶色のかたまりにしか見えない。

 もとより伊佐は物語の類には詳しくない。言われるままに紙人形をつくっているものの、彼女たちが何をしようとしているのか見当もつかなかった。それにしてもチワワが多すぎだろう、と首をひねっていると、笹岡がきまじめな顔でしゃきんとはさみを鳴らした。

「サトクリフの『小犬のピピン』です。チワワのピピンと飼い主の愛の奇跡の物語です」

「はあ」

愛の奇跡とは、と問うのも何とはなしに憚られ、伊佐はただ相槌を打つ。島木があれ、と首を傾げた。

「サトクリフは白羽先生のご専門です。伊佐さん、ご存知ないんですか?」

「俺、本読まないんで」

 途端きいろい悲鳴がいくつもあがるのに伊佐はたじろぐ。

「白羽先生って児童文学研究の世界じゃ有名なんですよ、新進気鋭の若手って。それに新聞とか雑誌にもいっぱい書かれてるし」

「ゼミに入るのも倍率すごい高いんですよ。なのに伊佐さんたら、いったい何のためにここにいるんですか」

「介助のためです」

 宝の持ち腐れだのもったいないのとなおも騒ぐ面々を無視し、チワワの製作に没頭する。こちらに取り合う気がないと悟ったか、話題はやがて別のところへと移っていった。

「新聞って言ったら、こないだのパレードで社会学部の子たち取材受けたって」

「えっ、いいなー。めっちゃ盛りあがってたもんね、よかった」

完成したチワワを目の高さに掲げてみる。ためつすがめつしていると、女子学生たちがわーすごーいと無邪気な拍手を送ってきた。面映さをまぎらせるべく伊佐は席を立つ。

「できたのはどうすればいいですか」

「ドアのとこに箱がありますから、そこにお願いします」

 島木の指示どおり、段ボール箱に紙人形を入れる。箱のなかにはほかにも折り畳まれた模造紙や小物がいくつかしまわれていた。

 細かい作業を続けたせいか肩がこっている。首をぐるりとまわしたところで、扉に貼られたポスターにふと気づく。

ドレッドヘアの若い女性が弾けんばかりの笑顔を見せている。右頬にハート、左頬には虹のペイントがそれぞれ施されていた。彼女を取り巻く人びともみなにこやかに、その背景にはLGBT週間という文字がある。下部にはちいさい字でいくつかのイベントの告知と、鹿ノ子女子大学社会学部という名が記されていた。

そういえば白羽の研究室にもおなじポスターがあった、そんなことをおもいだす。

「それですよ、パレード。先月十七日の日曜日に県庁前でやったんです。うちの社会学部の子たちや先生が実行委員として参加してて、わたしも友達に誘われていきました」

 伊佐の視線に気づいたか島木が言う。笹岡がはーいとおおきく両手をあげた。

「あたしも行ったー。LGBT当事者だけじゃなくて家族とか支援者とか、みんなで歩いたんです。ちゃんと権利を主張しなければ、みたいなお堅いとこは規約も厳しかったりするみたいですけど、うちのはわりとゆるくて、顔出したくないけど歩いてみたいっていうので紙袋かぶったりお面つけたりしてるひともいて」

「LGBTのシンボルマークっていうのかな、そういうのついたお揃いのTシャツ着たの」

 楽しかったです、と須山がおっとりと笑む。香川も頷いた。

「Lはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシャル、Tはトランスジェンダーでしたっけ」

 指を折って記憶を確かめていると、何がおかしいのか笹岡が声をたてて笑った。

「伊佐さんまじめですねえ」

 なぜそんなことを言われたのかわからず首を傾げれば、それがおかしいといっそうのこと笑われる。げに女子学生は難しい。肩をすくめ、ふたたび作業に戻ろうとしたところでふいに須山が口を開いた。

「先生と伊佐さんってそうなんですか」

 そうって何ですか、と訊ねようとするよりさき、笹岡がひゃあと珍妙な声をあげた。

「えっ、あっ、そうなんですか?」

「だからそうって」

 どうしてもこちらに問いを続けさせないつもりか、島木がぐいと身を乗りだす。

「確かにみんな気にしてます。先生あんなにかっこいいし、平等だし贔屓しないし、うちの学校美人いっぱいいるのにだれとも噂になったことないし、なのにいきなり伊佐さん連れてくるし、あのひとはいったい何だって」

「介護福祉士です」

 さきほどGのところで折ったひとさし指を眺めつつ伊佐は答える。女子学生の性的少数者に対する姿勢が矛盾しているのか、単にみな恋愛絡みの話が好きなだけなのか、それとも白羽への恋心のとばっちりを受けているのか、こちらにははかりようもない。

 視線が体に刺さるようだった。いずれにせよ歓迎したいものではないと、伊佐は深いため息をつく。

「俺は自分がゲイだとおもったことはないです。先生のことは知りません」

「えっ、先生それっぽいとこあるんですか?」

「だって先生このあいだミス鹿ノ子の先輩の誘い断ってたし!」

「それいつの話?」

「やっぱりカミングアウトって難しいのかな、パレードでも沿道からつっかかってくるのたまにいたじゃん」

「あれねー。ほんと最悪だった。そんなことになったら先生の身はあたしが守るよ」

 率直に答えたつもりがよけいに事態を紛糾させることとなり伊佐はたじろぐ。どうしたものかと思案に暮れているところに、ジーンズの尻ポケットでスマートフォンが震えた。画面には件の主の名前が表示されている。タイミングがいいのか悪いのか、とりあえずこの場をしのぐことはできそうだと、伊佐はすばやく敷居をまたいだ。

「先生帰ってきたんで」

 やっぱり、という女子学生たちの声を背にして研究室へと向かう。

 階段をのぼる途中スーツ姿の男とすれ違った。初日にも見かけた、男はやはりこちらに目もくれず小走りに玄関を出ていく。忙しいのか、ずいぶんと暗い顔をしていた。舌打ちしたくなるのを、さすがにおとなげないとこらえる。

 白羽はすでに部屋に戻ってきていた。デスクには何冊かの絵本が積まれている。山吹女子高等学校と書かれたクリーム色の角2形封筒がその脇にあった。黒いペン字で「児童教育研究会」と表書きされている。

「さっき生徒さんに先生ってゲイなんですかって聞かれました」

 インスタントコーヒーの瓶を手にとりつつ言う。へえ、と白羽は小首を傾げた。職業柄か、おおきいなりをしてふるまいはどこかこどもじみている。さきほどつくった紙人形のチワワがちらりと脳裏をよぎった。チワワというよりはゴールデンレトリバーだな、と考えたことは口にはせずにおく。

「ひとさまに手間をかけてしまうことが多いから、恋愛はハードルが高いかな」

「先生、返しが重いです」

 指摘すると、白羽は目をまるくした。

「そうなのか」

「そうですね」

 デスクの前にまわり、黄色のマグカップを白羽に、何かの景品らしい星柄の湯呑みを自分の手元に置く。白羽は砂糖もクリームも使わないから、何とはなし伊佐もそれにならっている。そのかわりラムネとビスケットをかたわらに添えた。

コーヒーの香りが鼻をくすぐる。

デスク越し、白羽の向かいにある丸椅子に腰をかけた。

「うちの大学は社会的少数者やその周辺環境のサポートに積極的に取り組んでいるし、社会学部にも専門のゼミがあるくらいだから、たとえば私がゲイだとしてそれをおおっぴらにしてもそんなに支障はないかな。ただ裏を返せばLGBT問題に関心のある学生が多いということだから、カミングアウトした暁には質問がいま以上に増えるだろうね」

「……がんばってください」

「しかしいまでも学生たちの向学心に負けそうなのに、私に対応できるだろうか」

 白羽は真顔で問うてくる。それはほんとうに向学心なのかとは口にせず、伊佐はゆっくりコーヒーを啜った。粉の量をまちがえたか、すこし苦味がきつかった。

「というかそもそもカミングアウトする予定があるんですか」

「いや、いまのところはないな」

 しかし可能性とはいついかなる場合も排除してはならないものだろう、とまじめくさって続けるのに、伊佐は気のない相槌を打つ。二週間ほどが経ち、白羽のひととなりもすこしは飲みこめてきていた。悪人ではないがどうにもピントがずれている。

 ブラインドは巻きあげられていた。六月のなかばとあって、校舎に沿う木々の緑は濃い。電動車椅子の金属レバーが陽の光に鈍く輝いている。

「ところで準備は進んでいるかな」

 白羽の問いに伊佐は頷いた。

「はい。そうだ、先生のそばにいるのに児童文学を知らないなんてと怒られました」

「興味の方向性はひとそれぞれだろう」

 白羽はにっこりとする。役者にでもしたいような男ぶりを、けれどその手近に置かれた黒いナップザックが台なしにしていた。小学生のときこんなの持ってるやついたな、と伊佐は遠い昔に思いを馳せる。

「先生、私物ださいですよね。その鞄とか」

 服はまともなのに、とつけ加えると、白羽はおおきく目をまるくした。

「ださいかな」

「はい」

「気に入ってるんだけどなあ。……機能性重視なのがいけないのかな」

しかし伊佐くんははっきりとものを言うね、そういう声はなぜか嬉しそうだったから、謝るのもおかしいかと伊佐は黙ってコーヒーを飲む。

重ねられた絵本の一番上に『小犬のピピン』があった。表紙にはソファにちょこんと座った一匹のチワワが描かれている。ローズマリ・サトクリフという著者の名には聞き覚えもなかった。そもそも伊佐の読書に関する知識は小学校の国語の時間で止まっている。

「先生はなんで児童文学をやろうとおもったんですか」

 何の気なしに問えば、白羽はすうと目を細める。

「似合わないかな」

「いや、興味の方向性はそれぞれでしょう」

 そう返すと声をたてて笑われた。

 なかば開いた窓の向こう、鳥の鳴き声がする。六月の、すこし水をふくんだ風が喉元をかすめていく。白羽はデスクに頬杖をついた。その手元ではコーヒーがうっすらと湯気をたてている。伊佐もまた無言でビスケットをかじった。

 しばらくして、穏やかな声が耳にした。

「私はものごころついたときから車椅子生活をしていてね。特に小中学生のときは、上半身と下半身の骨の成長するタイミングが合わなかったから、手術とリハビリで入退院をくりかえしていた。そうそう、田所さんとはその頃に出会ったんだ」

 節の立った長い指が、愛しむようにすうと絵本の表紙を撫でる。

「学校にもほとんど行けずじまいだったから、ひとりで本を読むことが多くてね。小学校六年生のとき、病院文庫でサトクリフの『第九軍団のワシ』を読んだ。足の悪い男が主人公でね、読んでいるうちにこれは自分のための物語じゃないかとおもえてきた。書き手の視点が、ほかの、いわゆる健常者の書いた作品とはまったく違っていた。いつも自分の見ているのとおなじ景色がそこにあった。作品の舞台は二千年前のローマン・ブリテンで、作者は戦前のイギリスに生まれた女性だというのにね。それからというものサトクリフの作品を手に入るかぎり片っ端から読んだ。彼女が二歳のときにスティル病を発症し、生涯車椅子生活を送ったひとだと知ったのはずいぶんとあとになってからのことだったよ。サトクリフへの興味から、次第に障害を持つ書き手がどのように文学に向き合ったか、障害者がどのように文学のなかに描かれてきたかを知りたいと思うようになった。そして、ひとが人生のはじめに触れるだろう児童文学においてこそ、そのかかわりや描写は重要なものではないかと考えるようになった」

 マグカップを手にとり、白羽は言葉を重ねていく。

「たとえば障害という言葉ひとつでも、最近では害という字を平仮名に開いたり、別の字をあてたりする。私自身はそのことにあまり意味はないとおもっている。昔からある施設の看板に障害という単語が書かれていたとして、その害の字をお役所仕事で仮名に変えていくくらいなら、その時間と予算でスロープの一本でもつくったほうが建設的だろう。ただ、表記が与えるイメージは大きい。そんなことを色々と考えるのは面白いよ」

 ひと区切りついたというように白羽はこちらに目を向ける。

「君はどうして介護の道に?」

 伊佐は肩をすくめた。

「先生みたいに立派なもんじゃないです。この仕事なら食いっぱぐれないってそれだけで」

そうか、と白羽は頷いた。それきり何を言うこともない。やがてぱりぱりとラムネの包装を剥がす音があたりに響いた。

伊佐は湯呑みに口をつける。コーヒーの苦味が舌のうえに長く残った。



 こどもの頃、幼稚園は公立に通っていた。すぐ近くにミッション系の幼稚園があり、通園路を同じくしていたので互いによく道で行き会った。臙脂色の二本線が肩に入った半袖シャツに同色の半ズボンといったこちらに比べて、紺のフェルト帽に薄緑のスモッグを身につけた彼らはずいぶんと上品に見えた。自分たちがチューリップを合唱しながら帰るとき彼らは賛美歌を高らかに歌いあげていたし、園の名がおおきく書かれたバスに乗りこむこどもたちが半ズボンのポケットにしのばせていたのは小石ではなく綺麗にアイロンのかかったハンカチだった。

 多分にひがみもあったのだろう、彼らのことをお高くとまったつまらない連中だと決めつけていた当時に思いを馳せつつ、伊佐は群れるこどもたちを眺めた。いずれもこちらの腰くらいしかないのが、ちょこまかと駆けまわるさまは可愛らしいといえなくもない。保護者の心遣いを表すように整えられた髪も切り揃えられた爪も構うことなく取っ組みあい、遊具のてっぺんで放送禁止用語を誇らしげに叫ぶ、彼らはいずれも品のいい灰色のスモッグに身を包んでいる。

「元気だねえ」

 白羽が目を細めた。その車椅子の肘掛けにも背もたれにも、ちいさなこどもがまろびついている。なんで座ってるのー、毛布かわいいねー、とあちらこちらから声がかけられるのに、いちいち律儀に対応しているのがおかしい。

 白羽とふたり、伊佐は児童文化研究会の催しに招かれていた。

月曜日の午前中は白羽も、研究会の面々も講義がない。そのため毎月第三月曜日は学外活動にあてられているのだという。普段は大学近隣の児童施設を訪問し、読み聞かせやパネルシアターなどを行っている。今回は大学の姉妹校系列の幼稚園で人形劇をするとのことで、劇への興味はさておき園をはじめて訪問する白羽のため伊佐も付き添っている。

サトクリフをこどもがどう受け止めるかお知りになりたいかなって、そう言いながら頬を染めていた笹岡をおもいだす。人気者で結構なことですと、呟けば白羽は小首を傾げた。

「きみのほうが人気みたいだよ」

 白羽の言葉に勢いづくように、いまどき珍しい毬栗頭の男の子がうしろから飛びついてくる。背にかけていたボディバッグがその衝撃で吹き飛びそうになった。続いて膝に、足の甲にと柔らかな灰色の塊がへばりつくのに、伊佐は深いため息をついた。

「ありがたいことですね」

 と、何をおもったか毬栗坊主が大声を張りあげた。

「ありがとうございます! やまぶきようちえんももぐみ、さとうゆうだいです!」

 ちいさな手がべたべたと頬を撫でてくる。甘ったるい匂いが鼻をついた。こどもの体温は高いから、気候と相まって背中に汗が滲んでくる。とはいうもののへたに幼児に手を出せば法に触れることも少なくはない昨今、対応にあぐねて伊佐はその場に立ちつくした。白羽はといえば呑気に少女たちと戯れている。

 腕時計を見れば十時を少し過ぎたところだった。

 空気はじっとりとして重い。空は灰色に垂れこめて、いまにも降りだしてきそうだった。

「先生、かっぱ持ってきました?」

「ああ、あるよ」

「俺まちがえて折り畳み傘持ってきちゃったんですけど先生がんばれますか」

「それはがんばってどうにかなる問題なんだろうか」

と、毬栗坊主が勢いよく背中から飛び降りた。つられて前のめりになる伊佐を、白羽が手をのばし支える。

「……介助ありがとうございます」

車椅子のハンドルを借りて身を起こす。見れば園児たちをかきわけて、女性がふたり園舎から出てくるところだった。赤とピンクのジャージが薄曇りのなか鮮やかに映えている。

「お待たせしました。白羽先生」

「先日はありがとうございました」

 顔見知りらしいのに伊佐は首を傾げる。研究会のときちょっとねという言葉に何とはなし納得した。以前白羽が持っていた封筒にはこの幼稚園と同系列の高校名が記されていた。

毬栗坊主は早くも赤いジャージの女性の袖にまとわりついている。

「いかり先生、おれね、おれね、いいこにしてるよ」

 その甘ったれた声を聞きつつ、いまだ頬に残るべたつきを拭う。伊佐の様子に気づいたか、碇と呼ばれた女性がぺこりとちいさく頭をさげた。

「すみません、ご迷惑をおかけしましたか」

問いに、伊佐はいいえとかぶりをふった。

「元気でいいとおもいます」

 すみません、と碇がふたたび頭をさげる。一人前に騎士のつもりか、毬栗坊主がその前に踏ん張って立ち、ぎろりとこちらを睨みつけてきた。

「みなさん、碇先生はお怪我なさってるんですからね。あんまりくっついちゃだめですよ」

 ピンクのジャージを着た女性が両手であたりを払うようにした。碇よりすこし年かさらしい、堂に入ったその仕草に、米山(よねやま)先生こわーいとこどもたちは賑やかな声をあげて散っていく。毬栗坊主もしばらくぐずぐずしていたが、米山に肩を押されてそのあとに続いた。

「どこかお悪いんですか」

 怪我というものの碇の様子に目立ったところはない。白羽の問いに、碇はにこりと笑みを浮かべる。こどもに人気があるのもわかるなと、伊佐はその儚げな美貌を眺めた。

「階段から落ちて足を折ってしまったんです。一ヶ月以上まえの話なので、痛みはあんまりないんですけど」

 そう言い、ジャージの上から左の足をなでる。

「あと二ヶ月くらいは怪我したことにしときなさい。そうじゃないとあの子たち、加減を知らないもの」

 あっけらかんとした米山のもの言いに、みなつられて口の端をゆるめる。碇も微笑みながら、ありがとうございますと頭をさげた。

「もうすぐ劇がはじまります。会場は講堂です」

 米山と碇の先導で園庭を進む。車椅子が珍しいのか、園児たちがそのあとをついてくる。

 園舎は大きかった。平屋造りで、赤く塗られた屋根の下にコンクリートの広縁がある。その奥に、ももやチューリップ、ひまわりなどの表札がかかった教室が並んでいた。園舎の隣には教会を模した講堂、潅木をあいだに挟んで飼育小屋とプールがある。

 ふと前を行く足が止まった。困惑したようにふたつの顔がふりかえってくるのに、白羽が苦笑する。

「これはたいへんだ」

 園舎と講堂は地面より一段高いコンクリートの渡り廊下でつながっている。講堂の入り口にはスロープがついているもののベニヤ製で、およそ電動車椅子の重量には耐えられそうもなかった。

「職員室に折り畳みの車椅子があったとおもいます」

 米山が園舎に駆けこんでいく。どうしたものかと伊佐は首筋に手をやった。

講堂といってもそう広くはない。隅に積み木があるところからして遊戯室も兼ねているようだった。ミッション系らしく壁には十字架がかかっている。観音開きのガラス戸を隔てたさき、笹岡や島木が忙しそうに立ち働いていた。上座には舞台が据えられており、気の早いこどもたちがそのそばに膝を抱えて座っている。園児たちの背後にはパイプ椅子が五脚並んでいて、それがどうやら大人用の観客席らしかった。

 米山の帰ってくる気配はない。スロープに近づき何やら検分していた白羽が途方に暮れたようにうなだれる。眉尻のさがった、その姿はやはり大型犬にそっくりで、伊佐は首筋をがりがりと掻いた。

「あそこまでですよね」

「あそこまでだね」

 ふたりの視線がパイプ椅子に注がれるのに、碇がえっと声をあげる。

「いけますか」

 いけるも何もという言葉は口にはせずに、伊佐は白羽のまえに背を向けて屈んだ。

「失礼します」

白羽の腕をとり、ゆっくりと背負いこむ。移動介助はこれまでにも何度かしたことがあったが、全体重を負担するとなるとまた勝手が違う。一歩踏みだしたところでよろめいてしまうのを、碇があわてて支えてくる。白羽との身長差は十センチほど、ともすれば足をひきずってしまいそうになるのを、手をのばしてどうにかこらえる。

「申し訳ない」

 しょげた声が耳元でする。ふりかえらずともどのような表情がそこにあるのかわかって、伊佐はちいさくため息をついた。

「なら先生筋トレやめましょう、軽くなりますよ」

「いや、それはそれで日常生活に支障が出る」

「自分より体格がいい男って腹立つんですよね、衰えましょうよ」

「そんなこと薦められたのははじめてだよ」

 やりとりがおかしかったのか碇が吹きだす。白羽とともに見やるそのさき、碇はまっかになり、場をとり繕うようにガラス戸を勢いよく開けた。こちらに気づいたらしい学生たちが揃って目をまるくする。こどもたちが立ちあがり、わっとまわりをとりかこんできた。

「おとなもおんぶしてもらえるの?」

「つぎはぼく!」

 騒ぎたてる園児を碇が追い立てる。と、そのとき凜とした声があたりに響いた。

「みなさん、失礼なことを申しあげるのではありません。白羽先生はお体がご不自由なのですから。元気なみなさんがいたわって差しあげなくてはなりませんよ」

 肩先にまわされた、腕がかすかに震えたことに伊佐は気づかないふりをした。声の主がゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。五十代のなかばくらいか、痩せて色の黒い、厳格を絵に描いたような女性だった。ジャージの教師たちのなかにあって、ただひとり黒いスーツを身にまとっている。

「白羽先生、ようこそいらっしゃいました。そちらは介護士さんでしょうか。本日の人形劇、こどもたちもとても楽しみにしております」

「園長先生、こちらこそきょうはどうぞよろしくお願いいたします」

 その声は普段と変わらずに穏やかだった。伊佐もぺこりと頭をさげて、パイプ椅子に白羽を座らせる。碇がその足に毛布をかけた。

「かわいい毛布ですね」

 赤いタータンチェック柄の毛布には隅に子猫の刺繍がある。白羽は照れたように笑った。

「中学の頃から使っているのでいまは似合いませんね。伊佐くんにはださいと言われます」

「毛布については言ってないですよ」

「じゃあこれはいけてるかな」

「いけてるって言葉を選ぶところがださいです」

 碇が声を立てて笑い、すみませんと言ってそっぽを向いた。その肩はなおも細かく震えている。よくわからないが受けたようなら何よりだとおもいつつ、伊佐はひざまずき白羽の足の角度を揃える。白羽は両手を座面の縁にかけ、上体を安定させた。

 いつの間にやってきていたのか、さきほどの毬栗坊主が碇のそばにくっついている。どうやらライバルと認定されたらしい、白羽と伊佐を順繰りに睨み、ふんと鼻を鳴らした。

「おれの先生なんだからな!」

 おまえのじゃないだろう、と率直に言いかけて、さすがにこの場ではまずいと口をつぐむ。白羽はこども好きらしく、嬉しそうに目を細めた。

「きみは先生がだいすきなんだね。きっといい先生なんだろうなあ」

「うん、おれ先生がだいすきだからさ、どこいても先生がいたらわかるしさ、きょうは先生おやすみだなーって日も朝おきたらすぐわかるよ」

「そうか、それはすごいね」

 雄大くんありがとう、と碇がはにかんで笑む。毬栗坊主はぴょんぴょんとはね、赤いジャージの腕にしがみついた。園長がごほんと咳払いする。

「雄大くん、碇先生にあまりご負担をかけないようになさい。また碇先生が長いことお休みしてしまうことになるかもしれませんよ。先生に会えないのはさびしいでしょう」

 毬栗坊主の動きが止まる。場の空気がどこか白けたものになるのを気にもとめず、園長はぱんぱんと手を打ち合わせた。

「さてみなさん、そろそろ劇がはじまりますからね」

「あ、はい。ほら雄大くん、みんなのところに行こうね。わたしちょっと米山先生見てきます。雨降りそうだし、車椅子は職員玄関に持っていきますね」

 そう言い置いて、碇は足早に講堂を出ていく。あ、と伊佐は声をあげた。

「しまった、車椅子の後始末忘れてた」

「私が手間をかけたからだよ、気にしなくていい」

「いや、すいません。以後気をつけます」

 そんな、という白羽の声を遮って、島木の呼び込みがあたりに響いた。

「人形劇はじまるよー」

こどもたちがわっと声をあげて舞台をとり囲んだ。園長がふたたび咳払いする。躾が厳しいのか、途端にみな行儀良く膝を抱えるのがおかしい。伊佐も白羽の隣に腰かけた。

 チワワのピピンと飼い主の別れ、そして奇跡の再会の物語を学生たちは一生懸命に演じた。チワワの紙人形は登場するや可愛いとの声援を浴びたので、伊佐としても満更ではなかった。途中、天使だの聖人だのが登場するくだりは伊佐にはぴんとこなかったものの、聖書の教えに親しんだ園児たちは素直に耳を傾けていた。

パイプ椅子は安定が悪いのだろう、白羽はときおり上体をぐらつかせていた。背もたれ越し、腕をまわしてその脇腹あたりをつかむ。六月も末の雨もよい、空調の効かない講堂内にあって互いに密着したところがじんわりと熱を持つ。正直なところ暑苦しかったが、自分が下準備を怠ったために雇用主に不便をかけているのだと我慢する。

 物語はこどもたちの歓声とともに幕を閉じた。嬉しそうに頬を上気させた学生たちに、白羽が盛大な拍手を送る。そのたび上体がぐらぐらとするので、支える伊佐には賛辞を向ける余裕もない。ともあれ無事に終わってよかったと、ひと息ついたところで背後から声をかけられた。

「すみません、遅くなりました」

 見ればすぐそばに碇と米山が立っている。その手元には車椅子があった。

白羽の肩を軽く叩く。教え子たちに惜しみない拍手を送っていた白羽はそれでもしばらく気づかなかったが、先生、と耳元で呼ばわってやるとようやくのことふりかえった。

「ごめんなさい、ご不便でしたでしょう」

 ふたりからの謝罪を白羽はあわてて遮った。

「こちらこそ申し訳ない。先生方、劇を見られなかったんじゃないですか」

「いえ、上演中はこどもたちのそばにいましたから。そのせいでこちらにくるのが遅くなってしまって」

「ああ、それならよかった」

白羽はにこりと笑みを浮かべる。米山が瞬き、それからそっと目をそらした。その耳が薄赤く染まっているのに、伊佐は昔アニメかなにかで見たゴーゴンの伝説を思いだした。

「じゃ、移動しましょうか」

 伊佐は車椅子を白羽の前に寄せる。車椅子のうしろに立ち、ハンドルを握ったままストッパーをかけた。白羽は肘掛けに両手を置き、上体を乗りあげたかとおもうや体を回転させ、あっという間に移乗を済ませてしまう。ええ、と米山が驚嘆の声をあげた。

「うちのおばあちゃんも車椅子なんですけど、移動のときは家族や介護士さんが抱きかかないとむりなんです。白羽先生すごいですね」

 白羽が照れたように頭を掻く。車椅子のストッパーを外し、伊佐はぼそりと言った。

「先生はひとり移乗もお手のものですから。おかげで俺が通常の移乗手順を忘れそうです」

「私のかかりつけの病院から介護の教科書を借りてきてあげようか」

「要りません」

 ごほんという咳払いが耳に届く。ふりかえれば、園長がそこに立っていた。

「白羽先生、本日はほんとうにありがとうございました」

 こちらに向かって丁寧にお辞儀し、ところで、と園長は小脇に抱えたものを差しだした。

「ちょっと早いですけど、園児たちの描いた絵で来年のカレンダーをつくりましたの。よろしければおひとつお持ちください」

 白羽に、そして伊佐にとひとつずつ手渡し、では、と言って去っていく。黒いスーツの背がガラス戸の向こうに消えた途端、それまで神妙にしていたこどもたちがわっと声をあげて立ちあがった。学生たちをとり囲み質問攻めにするものもあれば、積み木によじのぼるものもあり、講堂はたちまち活気に満ちあふれる。

園長から渡されたのは卓上サイズのカレンダーだった。やまぶきようちえんと書かれた表紙に、米山がわあと歓声をあげた。

「もうできたんですね。見せてもらっていいですか?」

伊佐からカレンダーを受けとり、米山は嬉しそうに一枚ずつめくっていく。

「うちは年少さん年中さん年長さんでそれぞれ二クラスずつあるんです。先月の終わりくらいだったかな。それぞれの自画像と、先生の似顔絵をおおきな紙いっぱいに描いて」

「おれ、いかり先生かいたんだよ!」

 毬栗坊主が米山の腕にぶらさがった。続いてわらわらと園児たちが集まってくる。

「カレンダーできたの?」

「見せてー」

 とたん騒々しくなるあたりに白羽が苦笑する。自分の手元にあっては取られてしまうとおもったのか、カレンダーをこちらに渡してくる。受けとったそれを、伊佐はこどもたちの手の届かない頭上に掲げる。白羽にも見えるようにして表紙を開いた。

一月と二月はこどもたちの顔が色とりどりの花弁に縁どられた花畑、三月と四月は青空にかかる虹を背景に園児と先生が手をつないでいるところと、それぞれ創意工夫に富んでいる。さらにその次はと見れば、画面の中央を占める太陽のまわりを笑顔のこどもたちが取り囲んでいた。太陽の下にはよねやませんせいとたどたどしい字で書かれている。たしかに似ていないこともないと、伊佐は園児たちの絵心に感心した。

カラフルな色遣いは見る者の心を和ませる。模造紙にクレヨンで描いた絵を縮小したにしては、細部もはっきりとしていた。

「お花かいたのわたし!」

「わたしね、うさぎかいたの。どこでしょうかー」

「ぼく先生のだいすきなのかいたよ!」

「わたしも!」

「えー、たいようおかしいよ、よねやま先生もっとかわいいもん。にじもいろがへんてこだし、ちなちゃんもゆうだいくんもへんだよー」

「へんじゃないよ、ちゃんとしてるよ。さきちゃんすぐいじわるいうのよくないよ」

「みせてみせてー」

 団子になり、こちらの足にタックルしてくるこどもたちを碇があわてて追い立てる。

「みんな、そろそろ教室にもどりましょうね、ほらお兄さんたちにバイバイして」

「ばいばーい」

「さようならー」

 群れるのも早ければ去っていくのはそれ以上に迅速な園児たちを、伊佐は片手をあげて見送った。米山がカレンダーを白羽の膝のうえに置く。ありがとうございました、という礼もそこそこに園児たちのあとを追っていった。

「台風一過という感じだね。先生方はたいへんだ」

「そうですね」

片づけはすでに済んだらしかった。こどもの姿はもはやないのに、甘い匂いがあたりに漂っている。紙人形を入れた鞄を手に島木が駆け寄ってきた。そのうしろに続く笹岡や須山、香川もそれぞれおおきな荷物を抱えている。

「先生、きょうはありがとうございました。伊佐さんも」

 揃って頭をさげるのに、白羽はにっこりとする。

「こちらこそお招きありがとう。人形劇になるとまた印象が変わるものだね。楽しかった」

 ね、とうながされるのに伊佐も頷く。

「おもしろかったです」

言葉にかぶさるようにチャイムが鳴り響いた。

「もう行きましょうか」

 須山が言った。気の早い島木が、ガラス戸に足を向ける。

「わたしたち園長先生にご挨拶してから帰ります」

「ではこちらは先に出ようか」

白羽の言葉にふと目をやれば、扉の向こうは雨に濡れている。折り畳み傘では到底しのげないだろうその勢いに、伊佐はちいさく舌打ちした。

「タクシー呼びましょうか」

「ああ、四つ葉さんにお願いしてくれるかな」

白羽がタクシー業者の名をあげる。介護車両は原則として事前予約制だが、四つ葉会は長年懇意にしているというだけあって融通が利く。白羽も慣れたもので、車椅子での乗車に伊佐は手をだすこともない。

 スマートフォンをとりだし、講堂を出ようとしたところで碇と出くわした。

「ごめんなさい、車椅子の場所お伝えしてなかったですよね。ご案内します」

「ありがとうございます。あ、碇先生、クラスのほうは大丈夫なんですか」

「ちょうど園長先生が巡回にいらっしゃったので少しの時間だけお願いしてきました」

「じゃあ」

とりにいきますよと、言いかけた言葉は白羽によって遮られる。

「自分でいくよ。伊佐くん、四つ葉さんが無理そうならハートさんにかけてくれるかな」

伊佐は頷き、スマートフォンの電話帳を確認しつつ渡り廊下まで歩いた。

あたりはひっそりとしている。屋根の下にあってさえ、雨風が頬に吹きつけるようだった。白羽から指示されたタクシー業者の電話番号を呼びだす。

 雨の園庭は薄暗い。遊具も濡れそぼり、ジャングルジムの赤もブランコの黄色もどこかくすんでいる。ちょうど門から一台の車が出ていくところだった。白色のバンで、車体に仲村印刷と書いてある。

 背後を碇と白羽が過ぎていく。何やら共通の知人について話しているらしかった。研究会の資料お貸ししますね、という碇の声がふと耳をかすめた。

コール三回で相手が出る。

「すみません、いつもお世話になってます、白羽です。山吹幼稚園まで一台お願いしたいんですけど。はい、電動車椅子一台、成人男性です。付き添いもいます。……あ、ありがとうございます。よろしくお願いします」

電話を切ってから、カレンダーを脇に抱えたままだったことに気づく。手にとり、あらためて眺めた。楽しげなこどもたちの姿が、雨景色のなかにあってただひとつ明るかった。 

 


 暑い日だった。

 昨日の雨がうそのように空は晴れ渡っている。窓ガラスに遮られていてさえ気の早い蝉の声が耳についた。

児童文学科合同研究室で伊佐はひとり作業に没頭していた。空調が効いているにもかかわらず汗が頬をつたっていく。首にかけたタオルで拭うと、埃がついていたらしい、うっすらと黒い汚れが残った。

壁時計の針は十二時をすこし過ぎている。部屋のなかはがらんとしていた。さきほどまでは学生が三人ほどいたのだが、伊佐に鍵を預けて食事にいってしまった。

俺いちおう部外者なんだけどな、とひとりごちつつ、棚から本を抜いては机のうえに重ねていく。夢だのファンタジーだのといった、普段には馴染みもない言葉の羅列にだんだんと頭が痛くなってくる。とはいうもののこれも仕事と、眉間を揉みつつ先を進めた。

卓上に積まれた本が十冊を超えたところで、伊佐はうんとのびをした。

確認のため白羽から渡された本のリストと現物を引き合わせている、と、そのとき廊下からばたばたと足音がした。

 がたんと盛大に扉を開け、笹岡が飛びこんでくる。きょうもひらひらした恰好だな、とそんなことをおもいつつぼんやり眺めていると、こちらに気づいたらしい、笹岡は勢いよく駆け寄ってきた。その形相には鬼気迫るものがあり、伊佐は目をみひらく。可愛らしい容姿であるだけにいっそうの迫力がある。

「聞いてくださいよ伊佐さん! きのう山吹幼稚園いったじゃないですか、それでね、帰ったあとに園長から電話があって、カレンダーが盗まれたって」

「は、」

 突然のことに伊佐は驚いた。しかし表情にはあらわれなかったようで、笹岡は、もっとびっくりしてくださいよ、なんでそんな冷静なんですかとその場で地団太を踏む。

「終業式のときに配る予定だったとかで、いま大騒ぎだそうです」

「俺たち、きのうカレンダーもらいましたよ」

 伊佐は首を傾げる。

「あれは予備の分をくれたみたいです。あ、印刷物って指定部数のほかに予備が五部から十部くらいついてくるじゃないですか。山吹幼稚園では園児六十人と、先生たちや関係者に配る分をふくめて百部つくったそうなんですけど、その百部の包みがまるごとなくなっちゃったんですって。だからいま園にあるのは予備の数冊だけで」

 律儀に説明しながらまたも怒りがこみあげてきたらしい、笹岡は両腕をふりあげる。

「もー、あたしたちが疑われて最悪だったんですよ! カレンダー百部なんてどれだけ可愛くたって要らないし! 多いし! うちみんな心あたりないですって言ったらひきさがってくれましたけど、園長先生くどいし、白羽先生にも聞いてくれなんて言うんですよ、先生がそんなことするわけないじゃないですか、大体できるわけもないです紙包みなんてかさばるの、ああもうほんと気分わるい!」

 笹岡がやつあたりに机をばんばんと叩く。被害を避けるべく伊佐は本の山を抱えあげた。

「じゃ、俺仕事あるんで」

「えっ、えー、伊佐さん一緒に怒りましょうよ!」

 抗議の声を背に受けつつ、伊佐は白羽の研究室へと向かう。

 階段をのぼりかけたところでスーツの男とすれちがった。白羽の隣の研究室に出入りしているらしい、何度もみかけたその顔はいつにもまして暗い。手にさげた紙袋には仲村印刷とあり伊佐は眉をひそめる。視線に気づいたか、男があの、と声をかけてきた。

「白羽先生のところの方ですよね」

 頷けば、男はぺこりと頭をさげる。挨拶できるんだなと、そんなことをいじましくも考える自分に伊佐はこっそり肩をすくめた。

「きのう山吹幼稚園にきてたって伺いました。あの、カレンダー知りませんか」

 階段の途中で向かい合う。間近で見ると、その顔はいっそこどもめいていた。十八か十九か、おそらく二十は越えていない。名乗る余裕もないのか、男はぼそぼそとひとりごとのように続ける。

「きのう確かに職員室まで納品したのに、カレンダーと原画セットでちゃんと受け取りももらったのに、僕がなくしたんだろうって言うひともいて」

くびになるかも、とおもいつめたように言う。経験の浅さゆえか、今回の件がずいぶんとこたえているようだった。

「知りません。お役に立てず申し訳ないですが」

 答えるとその肩ががくりとうなだれる。男はそれきり何を言うこともなく去っていった。

 上の機嫌を損ねての失職はひとごとでもない。世知辛いなとため息をつきつつ研究室に入る。

白羽は不在だった。すぐに戻ってはくるらしい、コーヒーがデスクの上で湯気を立てている。

 本を机上に置こうとして、件のカレンダーがあるのに気づく。伊佐の分と合わせてふたつ、白羽が園から持ち帰った手提げ袋の上に重ねられていた。

 返したほうがいいのかな、そんなことをおもいつつ手をのばした。その拍子、手提げ袋ごとカレンダーがデスクから滑り落ちる。やれやれとぼやきながら伊佐は床に散らばったファイルや紙を拾い集めた。ファイルに研究会資料とタイトルがついているところからして碇の持ちものらしい。汚しては悪いと埃をはたき、ふたたび手提げ袋にしまう。デスクの上に元どおり置くと、カレンダーの重みでか袋がぺしゃんと潰れた。

 ほかに拾い残しはないかとあたりを見渡す、そのときふと目に映ったものがある。

「……あれ」

 呟いた、声に応える者はなかった。



 たこわさいっちょーう、と甲高い声が響いた。グラスのぶつかり合う音、煙草と揚げものの匂い、ひとびとのざわめきがあたりには満ちている。

 古きよき赤提灯を軒にぶらさげた飲み屋のカウンターに伊佐はいた。

枝豆をむいては口に放りこむ。隣では田所がビールジョッキを片手にとりとめもない話をしていた。五十の坂を越えたにしては髪も、その頬までを覆う髭も黒ぐろとしている。背はそれほど高くないもののがっしりとした体つきにつぶらな目をしているから、どこへいっても熊と呼ばれるのだと本人はよく嘆いていた。作業療法士としての仕事ぶりは誠実で、愛嬌のある外見と相まって患者にもその家族にも人気があった。

 今年五歳になる娘の寝相がいかに愛らしいかということについてひとしきり語ったあと、ところで、と田所はこちらに身を乗りだしてきた。もともと酒には強くないようで、その顔はすでに赤く染まっている。

「どうよ、白羽とは」

 伊佐は鼻の頭に皺を寄せた。

「気がついたらひとりでどこか行ってるんで、先生を探しにきた学生や事務のひとに俺がしょっちゅう怒られてます」

 所在を明らかにするのは社会人の鉄則だろうと、こぼせば田所は大声で笑った。

「あいつは昔から車椅子の名人だからなあ。ま、うまくやってるみたいで安心した」

「そうですかね、雇ってもらえたことには感謝してますけど。事務の連中なんか先生が出かけてるときに来て、今日中に書類を提出してもらいたいからはんこ押して出せとか言うんですよ。ひとの机勝手に漁るほど落ちぶれちゃいないっていうかそれ完全に文書偽造じゃないですか」

 レモン酎のグラスを空け、伊佐は通りかかった女性店員にハイボールを頼む。店員の注文確認にかぶせるように、田所がエビマヨひとつ、と続けた。

「コレステロールやばくないですか」

「やばいよ。だからここで食べるんだろ」

 道理の通らないことを言って、田所はさらにビールのジョッキも空ける。お代わりは、という店員に手をふってカウンターにつっぷす。

「気分悪いですか」

「いや、ちょっと休憩」

 背後の座敷でどっと笑い声がする。サラリーマンらしい一団がそれぞれジョッキを頭上に掲げ、上司に対する憤懣を叫んでいた。歓声とともに煙草のけむりが流れてくる。

「あいつとは俺が療法士になりたてのころに会ったんだ」

 伊佐は枝豆をむく手をとめた。田所は顔を伏せたまま、低い声が喧騒にまぎれて続く。

「最初に勤めた病院の入院患者だった。あいつは小五だったかな。うまれつきの下半身不随であれだけでかくなるってことは普通ないんだが、身長の伸びによって障害もきつくなるし。成長期に入って、うまいこと体の折り合いがつけられなくて、それでちょいちょい入院してた」

 伊佐は頷く。その話は以前白羽から聞いたことがあった。

料理場からのびてきた手にハイボールを渡される。礼を言ってすぐに口をつけた。あたりに漂う煙のせいか喉が痛かった。

「あいつ男前だろ」

 田所が身を起こす。酒臭い息を吹きつけられ、伊佐は顔をしかめた。

「……まあ」

「いまもあれだが、こどもの頃はそらもうめちゃくちゃ可愛くてな。天使みたいだって医者や看護師や患者や、まあ軒並みみんなのアイドルよ。いっつもにこにこしてていい子で、聞き分けもよくてな。俺も若かったし、健気なこどもには親切にしてやりたくなるのが人情ってもんだ。昼休憩のときによく屋上で一緒に将棋さしたりしてた」

「渋いですね」

 はいエビマヨ、と店主がカウンター越しに皿を差しだしてくる。受けとって田所のまえに置くと、髭面が笑みくずれた。

「これこれ。太るだのって最近食わせてもらえねえんだよな。……ああ、なんだっけ、白羽の話か。あいつと一緒にいるとな、みんなから声をかけられるんだ。見舞い客やら出入りの業者やらがみんなあいつを応援する。がんばってね、障害なんかに負けないでね、ほんとうは障害者も健常者もないのよ、ひとりひとりの個性があるだけなの、とかな」

 伊佐は眉をひそめる。田所は薄く笑った。

「よく聞く話だ。そらまあ、ある意味ではほんとのことだろうよ。ただ俺はいまだにあいつの言葉が忘れられない」

 ビールジョッキは空のままだった。田所はカウンターについた輪染みをお絞りで拭っている。薄暗い照明の下、なかば伏せたその顔にどのような色があるのかはわからなかった。

「将棋をさしながら、あるときあいつは俺に聞いた。もし障害者も健常者もこの世にはいないっていうんだったら、この世のなかにはいろんな個性を持ったいろんなひとたちがいるだけっていうんだったら、どうして障害者だからおまえは要らないっていうひとがいるの。どっちがほんとなの、てな」

 どこかで酔客の怒鳴り声がした。それもやがては酒場の喧騒にまぎれていく。伊佐はハイボールに口をつけた。冷房の効かない店内、溶けた氷とアルコールの苦味が混じりあい喉を過ぎていく。

「白羽はさ、小五から高三までで背が四十センチ伸びたんだ。そのぶん同じ障害名と診断される子より痛みだの手術の回数だのリハビリの長さだのはきつかったかもしれない。比較するもんでもないけどな。特徴はひとそれぞれなんて、だれに言われなくたってあの頃のあいつにはとっくに身に染みてたはずだ。そもそも『障害』ってくくりのなかには、体じゅうあらゆるところの不具合がぜんぶ入ってくる。目、耳、鼻、口、あっちこっちさ。たとえば視覚障害ひとつとっても、全盲や部分視野欠損やみんなばらばらだ。そんで視覚障害者がおんなじ『障害者』と呼ばれるからって車椅子ユーザーの気持ちがわかるかってったら、そりゃ難しいだろ。……多分だけどな」

俺はいま酔っぱらってる、そう言って田所はふたたびカウンターにつっぷす。

「何もかもまったくおなじ『障害』なんてほんとはきっとこの世にないはずなのに、『障害者』のくくりでひとつにされたうえ、知らないだれかのものさしで要るとか要らないとか勝手に決めつけられることがある。へたをすればそれを理由に命を脅かされることだってある。特に現代ではな。そんな事実に常に直面しているこどもに、『障害者も健常者もいない、あるのはそれぞれの個性だけ』なんて呑気な、いや呑気なんて言っちゃ怒られるかもしれねえけどよ、相手の切実さにはいまいち見合わないようなことを言えるかっていったら俺にはむりだ。自分のなかに偏見とやらがないからってこの世にはびこる差別から目をそむけていいってことにはならない。そこまではわかる。だけどな、それから先の答えが俺にはどうしてもみつけられないんだ。あれから二十年以上経ったっていうのにな」

 伏せたまま、自嘲の笑みを田所は洩らす。くくというその声は耳に長く残った。

「俺はまだあいつの問いに答えを返してやれてない。そうするより先にあいつはおとなになっちまった。いまはどうおもってるのか知らないし、答えをみつけたのかもわからない」

 ただな、そう言って田所は身を起こす。その顔を伊佐は黙って見つめた。少し茶みがかった、あたたかな目がそこにあった。

「おまえがあのじいさんに怒鳴ったろ。車椅子だか足がきかないだかそんなもんでてめえの助平根性がちゃらになるわけねえだろ、それとこれとは話がまったく別だろうが、免罪符になるとおもうなってな」

 解雇された当時の記憶が甦るのに、伊佐は顔をしかめる。

「……やめてください」

 田所は笑った。

「うちじゃすでに伝説だよ。女性陣からしたらヒーローだもんな。あれ以来うちじゃセクハラはなくなった。……あのとき、何もしてやれなくて悪かったとおもってる」

 田所が頭をさげようとするのを伊佐は制する。

「俺がやったことは俺の責任です。みなさんにも迷惑をかけましたし、威張れた話じゃありません。田所さんには俺が会社に入ったときからずっと、よくしていただいてます」

 エビマヨに箸をつける。マヨネーズの甘さが口のなかに広がった。舌に残った揚げにんにくをハイボールで流しこむ。

「田所さんにこれ食べさせたって知ったら俺が奥さんにつるしあげられませんか」

「頼む、骨は拾う」

「いやです」

仕事あがりらしい、スーツ姿の男たちがどやどやと店内に入ってくる。ビールの追加を頼んで、田所はふたたびこちらに向きなおった。

「ま、だからさ。おまえならあいつの助けになってやれるかとおもったんだよ」

 色素の薄い目がすうと細められる。その仕草をどこかで見たとおもい、気づいたことに伊佐はこっそり口の端をゆるめた。癖が移るほどに、盤上睨みあった昔があったのかもしれなかった。

「すきだろ、ひと助け」

「この仕事なら食いっぱぐれないかとおもっただけですよ」

 ぼそりと言えば、田所が声をたてて笑う。

「そんな甘かねえよ」

 伊佐は黙ってグラスをあおる。田所は笑みを浮かべたまま、エビマヨをふたつこちらの取り皿にほうりこんできた。

 


 室内は明るかった。ブラインド越しに射しこむ陽が床を白く染める。館内のほかの部屋よりここはいくぶん空調が弱い。部屋に染みついたコーヒーの匂いが、夏の気温と混じっていく。

 水曜日の午後のことだった。

 白羽はデスクに頬杖をついていた。なにやらおもいつめたように、扉が開いても顔をあげようともしない。

 伊佐はデスクに歩み寄った。先生、そう呼ぶと、しばらくしてなんだいと返事がある。こちらの姿が目に映っているのかいないのか、ぼんやりとした様子は常にないことだった。わかりやすすぎるだろう、と伊佐は首筋を掻く。

「いつ返しにいくつもりですか」

 え、と白羽が弾かれたように顔をあげる。実家の柴犬が鳩に襲われたときこんな顔をしていたと、そんなことをふとおもいだす。

「何のことかな」

 はぐらかし方もこどもじみている。これ見よがしにため息をついてやると、通用しないと察してか何やらまた別の話をひねりだそうとする。それも結局うまくはいかなかったようで、しばらくして静かになった。

落ち着かなげに上体をうろうろと動かす、そのかたわらに伊佐は立つ。

 白羽の足元には茶色い紙包みがあった。包装紙には100とサインペンで走り書きされている。伊佐はデスクの隅に置かれたカレンダーに目をやった。ちょうど五十部ずつを束にして横に並べれば、このくらいの厚みになるはずだった。

 見つめるそのさき、白羽は気まずげに目をそらす。

その横顔に視線を据えたまま、伊佐は窓に背を預ける。足を車椅子の前までのばし退路を断った。

「絶対に必要なのは終業式の日らしいですよ」

「え? いや、あの、なんで」

 慌てふためくさまがおかしい。思っていることがそのまま表情に出るのは美点かもしれないと、伊佐はみずからの頬をなでた。

「むしろなんでばれないとおもったんですか」

 真顔で問えば、白羽の目がこぼれんばかりにみひらかれる。逃亡のおそれはないようだった。伊佐は身を起こし、コーヒーを入れる準備をする。

 スプーンがインスタントコーヒーの瓶の縁にあたり、かちんと澄んだ音をたてた。

 マグカップを白羽の前に置き、伊佐は言う。

「碇先生ですね」

 カレンダーを手にとる。デスクの上、白羽に見えるように三月と四月のページを開いた。青空を背景に先生とこどもたちが手をつないで笑っている。伊佐は空にかかる虹を指でしめした。赤、橙、黄色、緑、青、紫、色の塗られた部分を順にさししめしていく。

「この虹は六色で描かれています。ふだん空にかかる虹は七色ですよね。といっても俺も虹は七色だってことを知ってるだけで、どんな色でできてるのかは正直よく覚えてませんでしたけど。確認してみたら青と紫のあいだに藍色があるってことなんで、もしかしたらこどもには描き分けが難しかっただけなのかもしれない。ただ間違えただけなのかもしれない。実際いろがへんてこだという意見もこどもたちのなかにはあった。だけどその指摘に対して虹を描いた子はこう言いました。へんじゃないよ、ちゃんとしてるよ。それからその子はこうも言ったんです。先生の大好きなの描いたよって」

 カレンダーをなぞった指を、扉の裏に貼られたポスターに向ける。そこには頬に虹のペイントをした女性が映っている。その虹もまた六色で描かれていた。

「五月十七日に県庁前でLGBTパレードがあったと聞きました。須山さんによると、みんなでLGBTシンボルのついたお揃いのTシャツを着たそうです。LGBTの象徴といえばいくつかありますがレインボーフラッグが有名でしょう。レインボーフラッグ、つまり六色の虹です」

 声は静かなあたりに響いた。

「先生がどこにいてもおれわかっちゃうんだ、そんなことを碇先生に言うこどもがいた。このあたりで一番の大通りで行われたLGBTパレードには日曜日ということもあってたくさんの参加者と見物客がいた。パレードには紙袋やお面をかぶって参加することも可能だった。パレードの沿道から『最悪』かつ『身を守らないといけない』程度の妨害をしてくる輩がいた。碇先生はすこし前に足を骨折した。こどもたちの絵は碇先生が休んでいるあいだに描かれた。原画は印刷屋にまわっていたから碇先生はカレンダーができあがる当日まで内容を確認できなかった。碇先生と先生はもともと知り合いだった。俺が電話しているあいだ、おふたりは一緒に職員玄関まで車椅子をとりにいった。園長をふくめた他の先生方はこどもたちと教室にいたし、園長に用のあった研究会のひとたちも職員室に来る様子はなかったから、碇先生が包みを持ちだすことはおそらく可能だった。ついでに言うと職員玄関っていうのはだいたい職員室のそばにあるんじゃないかってのは、これはまあ憶測ですが。それから、あの園長は考え方が古くて保守的だ。俺が知っているのはそんなところです」

 白羽はうつむいている。その足元、電動車椅子の座面の下にはバッテリーと充電器に隠れるようにして収納スペースがある。

「で、これは介護士としての俺の落ち度と言われればそれまでなんでちょっと自分から指摘するのも憚られるんですけど。先生は四つ葉さんのタクシーなら慣れてるとおもって俺は手伝わなかった。碇先生から借りた研究会資料を先生は車椅子に積んでいた。俺はひとさまの荷物を触るのは極力避けたい性分ですし、用がなければ引き出しどころかデスクの内側のスペースにだって立ち入りたくもない」

 湯飲みを片手に、伊佐は窓辺に戻る。デスクの隅にいまだ置かれている手提げ袋は、数枚のファイルや書類には見合わないほど大きかった。

 さらにもうひとつ、とは口には出さずリノリウムの床を眺める。車椅子の行き来によってついた轍がデスクの横あたりで少し薄くなっていた。布で拭いたような、その跡はおそらく白羽が移動したときについたものだった。電動車椅子から床に降りて収納スペースの包みを取り出し、匍匐前進してデスクの下にそれを隠し、ふたたび車椅子に座る。一連の行動をだれに見咎められることもなく成し遂げた白羽の気力に伊佐はあらためて驚嘆する。とはいうものの計画自体は杜撰きわまりない。その成功にあたっては自分の性格や仕事に対する姿勢にも一因があるのだとしばし反省した。少なくともあのとき自分が電動車椅子をとりにいっていたなら、このような事態にはなっていなかったのかもしれなかった。

「あの子は碇先生のために虹の絵を描いた。パレードに参加していた碇先生が、たぶん顔はお面だか紙袋だかに隠れて見えなかったでしょうが、虹に囲まれてとっても楽しそうだったから。だいすきな碇先生に、先生のだいすきなものを描いてあげたい。その気持ちはきっと純粋だった。だけどその絵は碇先生にとっては」

 いったん言葉を切り、伊佐はコーヒーに口をつける。

「頼まれたんですか」

そう問えば、しばらくののち、ああ、とかすれた声がした。

「一時的にでも隠したくなる、その気持ちは何となくわかったから」

 見あげてくる、そのおもてには薄い笑みがある。幼い頃からひとの心をやわらげてきたのだろう、その表情を伊佐は黙ってみつめた。ひとの心をやわらげなければ過ごせなかった歳月のことをすこし考えた。

「その場しのぎに意味なんてないって知っててもね」

 伊佐はポスターに目を向ける。レズビアン、バイセクシャル、ゲイ、トランスジェンダー、ひとつずつ口にはせずに確かめてゆく。碇の境遇を伊佐は知らない。ただ、自身の立場を主張したいと願うこと、それを日常と地続きにはできないためらいは、自分のどこかにもあるような気がした。

「言っときますけどあの印刷屋、職なくしそうです。……先生も碇先生も、そういうことしたいんじゃないですよね」

 白羽は黙って頷いた。おそらくは九つも年上の、しっかりした体格や立派な肩書きを持った、その姿はけれどいまこどものように頼りない。

伊佐はコーヒーをひと口啜り、湯呑みをデスクのうえに置いた。

「こないだ先生、なんで俺が介護福祉士になったかって聞きましたよね」

 え、と白羽が顔をあげる。話題が急に転じたことに戸惑ったようだった。

「俺、三歳からサッカーやってたんです。ゴールキーパーで。キーパーって人気ないっていうか、小学校の体育なんかじゃどんくさいやつがやらされるポジションってイメージが強いかもしれませんけど俺にとっては違って、最初からずっとキーパー一筋でした。自分で言うのもなんですけど向かうところ敵なしで、小中と全国行って、地元クラブのユースに入って、トップチームの選手を零封で抑えたこともあります」

白羽が目をまるくする。すごいね、という感嘆の声に伊佐は肩をすくめた。

「おかげさまで高校までめちゃめちゃもててたし取り巻きなんてのもいて、調子に乗って、我ながらいまにしておもえば笑えるくらい態度がでかくて」

 夏空に雲がよぎる。ふと室内が暗くなった。白羽がかすかに眉尻をさげる。自分がどのような表情を浮かべているのか、伊佐にはわからなかった。

「でも、ま、背がのびなかった」

 目のあたりにてのひらを掲げてみる。

「いまの俺は百七十二センチです。そのへんの男なら、いや、サッカー選手でもほかのポジションなら別に珍しくもない。けどゴールキーパーは違う。何よりも身長と手足の長さがものを言う。いまの日本代表キーパーなんて、百九十センチが基準とまで言われてるくらいです。ま、ユースだって高一で百八十超えてないとあがれない時代なんだから、それを考えると当時の俺はまだついてたのかもしれませんが」

 ガラス越しに夏の熱が忍び寄る。背中がじんわりとぬくもっていく。雲間が切れて、ふたたびあたりが明るくなった。

「高校卒業後、トップチームにあがれなくて、大学からもほかのクラブからも声なんて全然かからなくて、入団テストもぜんぶ門前払いで、……だから俺、先生の体がめちゃめちゃ羨ましいです」

 白羽がぽかんとした。

「はじめて言われた」

「いや、ほんとめっちゃくちゃ羨ましいです。百八十以上ある男は全員羨ましい。俺にその身長がなんでまわってこなかったんだろうっていまでも考えるとはらわた煮えくりかえります。ひとそれぞれの特徴とか事情なんて配慮してられないくらいに、体格いい男には脊髄反射レベルでむかつく。みみっちい話ですけどね」

 きみは、と白羽が呟く。

「ほんとうにサッカーが好きなんだね」 

 伊佐は口の端をあげる。過去の物語と決めつけない白羽の誠実さが、いまはすこし心地よかった。 

「プロも大学もだめで、いくところがなくなって、荒れたんです。そうしたらまわりからひとがいなくなりました。家族も友達も彼女も綺麗さっぱりみんな。もう七年ちかく前のことですけど、いまでもひととの関わり方はよくわからない。いや、こどものときからそんなこと何ひとつわかっていなかったのかもしれない」

 だから、と伊佐は言う。

「一度ぜんぶだめにしたから、なんかひとつでもひとの役に立てるようになれたらって、この仕事を選びました」

 問題起こしてくびになってますけど、と肩をすくめれば、白羽はおおきくかぶりをふった。その眼差しの厳しさに伊佐は苦笑する。ずいぶんと面倒見がいいことだと、そんな場合でもないのにおかしくなった。

「先生も碇先生も、たぶんちょっと何かあったくらいじゃまわりからひといなくならないタイプだとおもいます」

 白羽の足元にかがみこむ。手をのばし、紙包みをひっぱりだした。

デスク越し、LGBT週間のポスターが目に映る。輝くような笑顔の女性とそのまわりのひとびとの姿は、けして絵物語のまやかしではないはずだった。この包み紙の下にあるものを、碇は恐れる必要などないのかもしれなかった。とはいえ碇の行動を愚かだときめつけることもまた伊佐にはできない。自分のなかに偏見とやらがないからってこの世にはびこる差別から目をそむけていいってことにはならない。田所の言葉がふいと脳裏をよぎった。

「自分の意志でどうこうできないことで、ひとに自分をはかられるのは悔しいです」

 口にした、声はわれながら妙にかすれていた。返事はなく、ただ背中にあたたかいものが一瞬触れてすぐに離れた。

紙包みに目を落とし、伊佐は先を続ける。

「島木さんに紹介してもらって、社会学部の先生にLGBTサポートについて聞いてきました。この件で万が一職場にいられなくなっても、支援してもらえる道があるのかどうか。具体的なことは説明してませんし、LGBTがどうというよりただの窃盗扱いになったらそれはまた全然別の話ですけど」

「そんなことまでしてくれたのか」

 白羽が驚いたような声をあげる。伊佐はうつむいたまま首筋をがりがりと掻いた。

「だから、わからないんですよ。どこまでがふつうで、どこまでがお節介で、どこまでが迷惑なのか」

 今後教えてもらえると助かります、立ちあがりざまにぼそりと言えば、白羽はおおきく目をみはった。きみは、と言いかけて、思いなおしたように微笑する。

「カレンダーを返しにいきたい。介助してもらえるかな」

「はい」

 白羽がデスクの引き出しからスマートフォンを取りだす。鹿ノ子女子大学の白羽ですが碇先生お願いします、そういう声を耳にしつつ、伊佐は窓辺を見やる。

 枝々の重なるその先には、夏の青い空が広がっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

つづきはまたあした 羽太 @hanecco3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る