第零感〜ゼロセンス〜
佐藤 田楽
虧月
その晩の怪異は二つ。
どちらの衝撃も唐突で未知を凝縮したような体験だった。
なにも特別な覚えの無いつまらぬ人生にいきなり異変を与えるのはこれ以上にない理不尽だ。と、森羅万象に訴えかけたくなるが、残念ながら俺が特異を感じたのはその後の話。後日談。
その刹那、数刻でこの身が感受したのは既視感と違和感だった。
そう、既視感と違和感。それだけ。
揃えても一翻付かないような、そんなありふれた感情如きに、俺の無意義だった『平凡な日常』は20年共にしたこの身から別れを告げたのだ。
それこそ、なんとも厄介で奇っ怪な話である。
*―――――――――――――――――――*
「・・・ったく、無理矢理付き合わせた挙句こんな時間になるまで連れまわしやがって」
文句を垂れながらスマホのスリープを解除すると画面には『2:27』の数字。
24時制を採用しているこのスマートフォンのオンライン時計機能がそう表示する意味は即ち、日付はとっくに跨いでおり、なんなら日が昇るまでの時間のほうが短いという事を示している。
つまりはド深夜、百鬼夜行の丑三つ時である。
こんな
友人に誘われ頭数合わせで参加した合コンが盛りに盛り上がり強制的にはしごさせられた挙句この時間にようやく解放された、というのが俺、
別にみんなでわいわいするのは嫌いじゃないし、正直今回の
だが何がいけないって、俺はほとんど酒を呑まないのに男子側が奢りの上きっちり割り勘だった事と、そんな俺が居るのにカラオケに行くでもなく延々と居酒屋巡りに引っ張り回した事と、そしてなにより重要なのは、女の娘を一人もお持ち帰り出来ていないという事だ。
嫌々とは言え多少は期待してしまっていたのは仕方が無いではないか。だって童貞だし。
なんなら相手側からはそれなりに好印象ぽかったし。勘違いとかじゃなければ。
それなのに連絡先もらってねぇし。俺等側がただ奢っただけだったし。ただの冴えない男子大学生を誑かすタダ飯喰らいの悪女だったし。
そんな訳で不満たらたら、未練もたらたら帰路を進むわけなのだ。
そもそも合コンという我欲剥き出しの若造が個人情報を賭け
「――ぁ」
前触れの無い身体の異常を感じ、反射的に声が挙がる。
くだらない思考が
まず耳鳴り。それが耳の奥で鳴っているのか手前で鳴っているのか把握できない程に穴の中全体で跳ね続ける不快。
次に動悸。どんなに癖の強い独創的な音楽家でも刻んだ事がないであろう
そして冴える視界。視力が上がるわけでも視野が広がるわけでもない、ただ見えている世界を隈なく見逃させまいと強制してくる不穏。
なんて事はないが、ただ事ではない現象。
しかしこの不気味な症状には何度も覚えがあり、俺はいつもこの現象を『前兆』と呼ぶ。これそのものが前触れなのである。
だから
この『前兆』が引き起こす事象を一度たりとも快く思ったことは無いし、慣れることも生涯ないだろう。
住宅街に居るはずなのに急に人気が感じられなくなり、辺りにくぐもった靄が立ち込める。そう錯覚する。
そしてただ一度も同じ事例なんてなかった『アレ』が始まる。
それはそれは不思議な話である。
ずっと凝視させられていたにも関わらず、最初から居た事に気付けなかったかのように、あるいは時間をスッと抜き取られたかのように突然で、それなのに違和感なく不自然に、目の前に、道の真ん中に現れたのだ。
日本人形が。
いつからか典型的な霊現象の代表格とも云われてきた『呪われた日本人形の怪異』。
誰が決めたか心霊番組の王道が、実際に目の前に存在しているというのは聞くだけ聞けばちゃんちゃら笑える話だが体験する身としては冗談じゃない。
『前兆』が予告するのはそんな洒落にならない心霊現象の数々である。
物心憑いた辺りからこれまでの人生ずっと悩まされてきた。
恐らく先天的な体質なんだろうが、幽霊ってのはどれだけ見ても慣れないどころか日に日に恐怖が増し増していくモンで、その恐怖を掻き立てる
こういう体験を何度も経験した事がある者なら分かってくれるであろう。
心霊現象というのは定石を基準に似たり寄ったりのものばかりだがしかし、どれ一つとして同じ事象はなく、さらに云えばいつもあらぬ方向から心の隙間に恐怖を捻じ込んでくるのである。
いいかげん回りくどいので具体的に。
この
俺の身長が170cm前半なので彼女(?)は大方130cmあるかどうか。
そんなサイズの日本人形は今まで見たことないし、例え日本人形の名産地がマスコットに作っていたとしても公道のど真ん中にこんなのを置くような事はないだろう。
毎度毎度こんな感じ。無人自転車の影が壁に照らされ向かってきていると思ったら実は運転手の影が後輪にしがみついて轢きづられていたり、夜中の山道を車で走らせていて、ふとバックミラーを覗くと後部座席に半透明のピエロが座っていたり、そんな意味不明な現象に理解不能な状況を重ねてしまうという怪奇側のナンセンスなミスチョイスが以外にもその場の、そしてその後の恐怖を掻き立てるのだ。
と言っても、恐ろしいのは道理の通らない事象に対してであって
一度たりとも手を出してきた
いい加減パニックから醒めてきた。いつも通り無視して、横を通り抜け――――
「――――っ!」
止まった。
瞬きも、躍動も、視線も、そして呼吸も。
それは金縛りのようで金縛りとはどうも思えなく、しかし一種の金縛りであることを否定は出来ない現象であった。
直立のまま微動だにできないのだ。
眼球が意に反して向きを変える。まるで『我に怯えろ』と云うかのごとく視界一杯に元凶が映るように眼球がズレる。
元凶であろう
苦しい。
息が出来ないのは苦しい。
内蔵まで固められたのか、とも思ったが徐々に高鳴る心臓の鼓動と、それに呼応して大きく畝り蠢く両肺の主張を認識することが出来た。
しかしそれ以上に強く主張してくる我が身の一部分が安堵を許さない。
喉が。首の肉越しに気道が。不可視の力に強く押しつぶされている。
ということはまぁつまり俺は今、首を締められているっつう
浮遊感と共に視界が徐々に、俯瞰的に上がっていく。しかし奴の姿は遠退く一方で一向に自分の姿見えてこないという事は即ち、俺がぽっくり逝って幽体離脱をはじめた訳ではなく、奴が何らかの
確実に殺しに来ているらしい。
全感覚を暴力的に掌握されている状況ゆえにそれすらにも気付くのに時間が掛かる。
チッ。他人に握られた不自由ってのはこんなに腹立たしいもんかね。
極限の窮地に靄がかかり始めた意識下だと、そんなしょうもないことしか浮かばない。
(まぁ、どっちかなんて…今に分かる事だしな…。)
息ができないことの苦しみすら麻痺してきた。
(ってかこいつ…人じゃねぇな……。)
色覚に掛かる靄が黒ずみはじめる。そろそろ終わりらしい。
俺がこの霊に何をしたのかは知らないが、自分より強者の恨みを買ってしまったのなら、まぁ、しょうがないかな。
(ほんと、見栄えしない生涯だったな…。)
意識は遠のき、あらゆる神経、感覚が鈍り始めた、たしかそのあたり。
“―――シャン”
淡い鈴の音が、強く響いた。
瞬間、最低の機能しか働かない視界に白く、そして紅い閃光が流れる。
「――!!」
全身が衝撃で揺れた。と共に映る景色が天を仰いだ。
「大丈夫か。青年」
「ぅ…ぁ…あぁ…」
堅い口調とは裏腹に高い聲が聞こえる。
反射的に返事をしようと声帯が精一杯の反応を見せた。
が、呼吸器全体に刺激が奔りまわり思わず咳き込んでしまった。
なるほど。理解が追いつく。
どうやら俺は不可視の絞首から解放され無気力に倒れているらしい。
「息はあるようだな。もし私の助けが間に合ったことが強運のおかげだというのなら、その命、卑しくももう一度しがみついてみせろ。」
先より鮮明に聞こえる聲の方に辛うじて顔を向けると、しかしその主は居らず、さらに奥の方で忌々しい日本人形と対峙する、えらく目立ち場違いな格好の人間が立っているのが観えた。
日本人形が居るのも十分場違いなのだがそれ以上に目を向く存在がこちらに背を向けているのだ。
巫女。そう呼ぶ他無い彼女が先の聲の主であり、朦朧する意識の中奔った閃光の正体だろう。
そこからは高速だった。
名も知らぬ彼女は、右手に持った御祓棒を俊敏な動きで四方八方向から日本人形に殴りつけ、日本人形は反応だけは追いつくも防御の指令は追いつかず、為す術無く打ちひしがれていった。
巫女は可憐に、そして淡々と、
この間ほんの数秒。体感はもっと短い。
直前まで
うつぶせに倒れた日本人形は、その後反応もなく蒸発していった。
巫女はその様子をしっかり見届けてから裾を揺らして振り向いた。
そうしてようやく見えた彼女の
栗毛色をしたボブカットに包まれた表情のパーツは群無く整っており、しかし仮面とまではいかないが充分に彷彿とさせうる程に冷めた表情は輪郭をボヤけさせるように不安定で、脆かった。
「悪い。助かった」
「青年、霊障に逢うのは初めてか?」
俺の言葉を無視して巫女は無表情のままそう問うた。
「い、いや。幽霊を見ることはしょっちゅうだが――」
「そうか。ならばこんな夜更けに出歩くのはもう自制するといい。恐らく今回の一件で奴等に目を憑けられただろう。恰好の獲物としてな」
抑揚を小さく淡々とそう忠告する彼女の瞳は嫌に暗く、底が覗けぬような不安を掻き立てる。
「そうするよ。さすがにこいつは懲り懲りだ」
巫女はうむ、と返事をすると「まだ往かなければならない」と云い残して去ってしまった。
嵐の後の静けさは違和感を残し、解放的にさせる。
今はそんな事を気にさせないほどの疲弊感が全身に乗っ掛かっているが、余韻に浸るだけの余裕はあった。
(・・・・・)
整理するには何処を切り取り思い出せばいいのか、判らないくらい濃密な数刻は漠然としていた。
「とりあえず…帰るか」
凭れかかった外壁から起き上がったのは、そう呟いて5分ほど経ってからだった。
*――――――――――――――――――*
「――んでそれに返したRecheのリリックもライムも完璧でよぉ。っておい、聞いてんのかよ」
「聞いてる訳無ぇだろ結局何時に寝たと思ってんだ」
学食で席についてからボケッとストローを噛んだまま視線すら動かない俺に遼が見かねてツッコミを入れるが、そもそもこいつ、俺の少ない友人の一人であり昨晩の合コンの主催者である
「悪かったって。まさかお前が今日の1限から入ってるなんて思わなかったんだよ」
「バカタレが。お前がどうしてもって言うから参加したのに散々連れ回した挙句収穫ゼロってどうなってんだよ」
「しゃあねぇだろ合コンなんてそんなもんだって。ほら、今日の昼飯代奢ってやっからそう
「要らん。あとお前明日の分も奢れ」
軽い会話でようやっと頭が覚めてきたので、とりあえず注文してから一口も食べてないハンバーガーに齧り付く。冷めてても充分食べやすいが、まだ味覚が起きていないようで味がしない。食感だけでも美味しいのがこの
さて、思考が冴えたところで頭の中を満たしていったのはやはり昨日の怪異及び奇異についてだった。
というかそれ以外のことなど考えられるはずもなかった。当然だ。
幸い、あの瀕死体験がトラウマにはなっていないようで、忘れてしまいたいという思いは沸かず、逆に要らぬ記憶の脚色が付いてしまう前に鮮明に解決してしまいたいという念が強い。
しかしそれは危険且つ無意味なようで、あの情景を思い返そうとするとまともな推理には行き着かず、理解不能な現象に説明など出来るはずもないので、思考の先へ踏み出そうとした足は一歩で深く沈み、引っ張られて頭が可笑しくなりそうだった。ゲシュタルト崩壊一歩手前。たった二歩先にそれが待っていたようだ。
そんなわけなので遼の軽薄な与太話なんぞはまったく聞いていないし、聞く気もない。
俺はラップバトルより音源の方が好きなんだよ。
“―――シャン”
「ん?」
「おっ」
覚えのある幻聴を遠くに感じ反射的に振り向いたのと同時に、遼は俺の後方に知人を見つけ手を大きく振りながら立ち上がった。
「サノちゃーん!」
「あっ、リョーサーン!」
ビンゴ。彼女だ。
俺と遼が視線を向けたのは同じ、並んで歩く二人の女子。
細かく言えば俺がお目当てなのは遼が声を掛けた娘ではなくその片割れのほう。
少し距離があったので確かめづらかったが遼の呼びかけに正面を向いたので確信を得た。
「遼さん昨日はありがとうございました~。早速オススメされた曲、聴いてみましたよ!」
「よかったっしょ?あの後家まで送ってあげられなくてゴメンね~。大丈夫だった?」
異性の先輩にも気さくに話しかけるこの
昨日の合コンに参加していた、たしか
黒髪をウェーブがかったツインテールで束ね、クール系の服装に軽めのメイクで整えた容姿は正直“可愛らしい”という感想が良く似合い、昨日の会では一番のお気に入りだったりする。そのせいか、俺はこの娘に対してだけは昨日の面子のなかで唯一「悪女」というレッテルを貼っていない。贔屓ではない。
それほどに好印象であった。
「航進先輩も、ありがとうございました!お酒呑めないのに付き合ってもらっちゃって、退屈じゃなかったですか?」
「えっ!?あっ、うん大丈夫楽しかったよ。っていうかよく俺のこと覚えてたね。昨日あんまり会話してなかったと思うんだけど」
「そんな、ちゃんと覚えてますよぉ。お料理取り分けてくれたり注文取ってくれたとこ、ちゃんと見てましたよ?」
…!
「おいおいあんま持ち上げてやんなって。コウの奴ってば
「うるせぇやい」
うるせぇやい。
「んで、隣のその
「さっすが遼さん耳が早い、そのもしかしてですよ。彼女が一年生ながら今年度ミス
はばね、りん。
やけに壮大な補足(確かに紛うことなき美人である)と共にそう紹介された彼女の愛想が欠けた無表情は、紛うことなく昨日の巫女であった。
昨晩の事をさらに思い出し身悶えしそうになったが、彼女の瞳にあの時のような底無しの畏怖を感じぬことに気付き、恐怖が不自然に収まっていった。
「なぁ、きの…」
「俺、二年の霜月遼って言うんだリンちゃんよろしくね~。結構チャラく見えるかも知れないけど全然怪しい奴じゃないから。あっ、せっかくだし連絡先交換しようよ。あとでみんなで遊びに行こ」
「も~先輩手出すの速すぎません?それじゃ充分怪しい人ですよ~」
遼がいつもの隙を与えぬ軽い調子で羽禰に話しかけたため遮られてしまった。
まぁ遼はともかく麻葉ちゃんが羽禰のあの事を知っているのかはわからないのでここは黙って引き下がることにしよう。
ってかなにさらっと連絡先交換しようとしてんだてめぇしばくぞ。
「いいぞ。やり方はわからないから先輩がやってくれ」
ええんかい。
「オッケー。ってリンちゃんスマホの使うの慣れてない?もしかして機械音痴?」
「龍は入学してから初めてスマホ買ったんですよ。お家が神社だったのであんまりそういうのに疎いみたいで、去年まではガラケーだったんです」
「へー!実家が神社の子って珍しいねぇ。お寺の子とかなら良く聞くけどね。あっ、はい、出来たよー」
なるほどな。だから巫女服だったのか。いや、昨日の事象を解決するには程遠いヒントだが。
「ありがとう。そっちの青年は登録しなくていいのか?」
「ん?ああ、こいつは別にしなくてもい――痛ぁ!?」
「じゃあせっかくだししとこうかな。俺は香良洲航進。遼と同じ二年部だ。よろしく」
勝手な事を口走ろうとした
正直まだしばき足りない。
「うむ。ん?なかなか珍しい姓をしているのだな」
「ああ、詳しい事はしらないけどどうやらどっかの地名らしい。珍しいカラスの人とでも覚えといてくれ」
父方の苗字だが父とは折り合いが悪かったため(こっちが一方的に嫌っていただけだが)由来以外はさっぱり知らない。
おかげで人から覚えてもらいやすいという利点があるためあまり不便は感じない。
「えっ、航進先輩ってそんな珍しい苗字でしたっけ、ってほんとだ。初見だと読めないですよこんなの」
麻葉ちゃんが羽禰の持つスマホの画面を覗きこんでそう言った。
その通りで、この苗字を一発で読める人はそう居らず初対面の人には十中八九間違えられる。とても不便だ。
「へー、これでカラスって読むんだ~。って、そういえば!私、航進先輩と連絡先交換してないじゃないですか!」
なんかおかしいと思ったんですよ~、なんて言いながら連絡先を交換できるQRコードを見せてくれたのでありがたく撮影させてもらった。
なんたる棚ぼた。
これで昨日の俺は報われた。
「そうだ。航進先輩。その~、今度一緒に―――」
「32番、月見うどんの方~」
「沙乃、32番呼ばれたぞ」
「あっ、うん。じゃ、じゃあ、私たちこれからお昼なんで。失礼しますね」
「うん、バイバーイ。また遊ぼうねー」
と、二人は厨房の方へ行ってしまった。
結局、羽禰龍は俺の事には気が付かず、俺は彼女にあの一件について聞き出す事は出来ず仕舞になってしまった。
「…お前、サノちゃんの番号もらえたじゃん。ついでにリンちゃんのも」
「…うん。」
「それで奢りの件なんですけども」
「……今日の分だけで勘弁してやるよ」
「うへぇ」
*―――――――――――――――――――*
ボロ屋のアパートでの熱帯夜はそれはそれは辛抱堪らんものであり、加えて隙間風がヒョイと吹けば最早そこは寒暖差の修羅場である。
そんなわけで香良洲航進は今夜、またしても思い通りに寝付けずに居た。
気力の失せる高温多湿と不快感を逆撫でする突飛な冷気の前ではスマホをいじる事すら億劫になってしまうので、黙って座り込んだまま眠くなるまで自分の気に入った音楽を流して眠気が沸いてくるのを待つことにした。
しかしジャンルはバラバラのごった煮ちゃんこ鍋、時折流れてくるHIPHOPやアップテンポなパンクロックによってその都度目が覚めてしまっているので眠りにつけるのは当分先になるでろう。
そんな覚醒と睡眠の狭間を行き来しながら、脳内を駆け巡るのはやはり昨晩の事だ。トラウマとは断じて違う、脳にこびり付いて離れないあの光景。
あの閃光。
あの巫女。
「……龍。羽禰龍......。はばねりん......。……ハバネリン。……リン」
頭が張り詰めていく感覚がして窮屈になってきた。
「……はぁ。本人が居ねぇのに考えたってしゃあねぇか」
耐えきれず一息。もうこれ以上考えてもなにも解らないのかもしれない。
そう思えば、全身を吊っていた糸が急に解けた気がした。
幸い、今の時刻は昨日ほど遅くない。まだ日付を跨いですぐだし、もうちょっとこの幽玄で陰気な雰囲気を嗜んで眠気を誘うのも悪くはないかもしれない。
「――ッチ」
しかし奴等からしてみればそんなのは関係なく、条件が整えば次第に活動を開始する。
"前兆”である。
今回は頭痛、吐き気、悪寒、そして必ず付いて周る耳鳴り。
毎度の事だがいい加減にしてもらいたい。
珍しく静謐な空気を邪魔されては癪に障るというもの。虫の居所が悪くなる。
しかも今回は強い不快感はない。つまり大したことがない霊ということだ。
霊に優劣をつける様になったのはいつからか、長年の感がそうしたとしか答えられない。
腹が立つ。
ここ最近のストレスか、それともこれまでの蓄積からか、もしくは
いつになく感情的。冷静を欠いている。
それ故か、反応してしまった。
拳骨は効果が無いとしても、説教の一つでも垂れてやりたい気分だった。
俺は音楽を止め立ち上がると、横を向く。
そこにあるのは木枠の引き戸。
今と廊下を仕切るためのそれ、その向こうに奴の霊気を感じる。
自分では解らないが、恐らく
木枠に囲われたすりガラスの向こうに見慣れぬ影が透けている。
やはり間違いは無い。
またしょうもない日常的非日常が向こうに待ってやがる。
力強めに戸を引いた。
「ったく、いい加減に――――」
怒りは消えなかった。
ただそれ以上に、恐怖が勝って覆いかぶさった。
―――俺は、唾を呑んだ。
そこに居たのは明らかな異形。今までのそれとは毛色が違う。
一言で形容するのは不可能だった。
真っ白で毛の一本も生えていない、言うなれば中年男性のような人型の何かが四足歩行で、ゆったりと、こちらを向いていた。
赤い瞳は好奇の目で俺の瞳を覗き込み、口元はニタリと涎を垂らしている。
喰われる。そう生物的本能を
あまりの衝撃に身体が硬直してしまった。金縛りとは違う、自身に
真っ直ぐ交わった視線同士がなんとか均衡を生んでいるが、こちらの油断か、向こうの気まぐれでこの身は瞬く間に食いちぎられてしまうだろう。
あまりにどうしようもない、後悔、焦燥、諦念。
状況を打破しようにも打つ手なし。
その瞬間、彼女の言葉を思い出した。
"恐らく今回の一件で奴等に目を憑けられただろう。恰好の獲物としてな”
(そういうことかよ)
正直舐めていたというか、すっかり忘れていたというか、どちらにせよ重要視していなかった結果が招いたことだった。
投了寸前。一か八か、奴の背にある玄関までなんとかたどり着いて後は全力疾走しかない。それしか思いつかない。
「やるしか…無ぇかな」
どうせトチッたら死ぬだろう。それならいっそ躊躇なく、思い立ったら雨天決行。
決死の作戦に思わず口元が緩む。なんて情けない。俺ってばこんなに思い切りがよかったんだな。
「要領は盗塁と一緒さ。現役の頃思い出せ」
リズムの主導は自分。相手に悟られるな。
3…
2……
バァアアアアン!!
・・・は?
玄関のドアが爆音を鳴らしてふっとび、巻き上げられた塵と共に人影が飛び込んできた。
(と同時に怒りやら恐怖やらはキレイさっぱり飛んでいった。)
塵が晴れる前にその人影は跳躍し、白い怪異が驚きで後ろに振り向いた瞬間に顔面を引っ叩いた。引くほどに躊躇いのない一発。えげつない。
その一撃で動けなくなった怪異を足元に、紅白の人影は立ち尽くす。
右手に握るはお払い棒、赤と白色巫女装束、揺れる髪これ栗毛色。
目に焼きついてしまったあの姿とまったく一緒。つまり
「大丈夫か。青年」
昨夜の巫女。羽禰龍だ。
「おかげさまで。昼ぶりだな、羽禰」
一瞬の出来事が逆に冷静を引き出したのか、軽い挨拶ができるぐらい余裕であった。
「む、なぜ私の名を…ん?もしや
羽禰は少し驚いた表情を見せながらこちらに振り向いた。
どうやらテッパンの自己紹介は効果覿面だったようだ。合コンでも使えばよかった。
「覚えてくれていたようでなによりだ。そう、昼に学食で会った香良洲航進だよ」
「なんと。奇遇だな。ということは昨日助けた青年も先輩だったのか?」
やっぱり気付いていなかったのか。
「そうだよ。連日どうもお世話になっております」
「そうだったのか。それならあの時言ってくれればよかっただろうに」
「いきなり言うのもどうかと思ってさ。麻葉ちゃんはともかく遼も居た訳だし」
「ああ、そうか。気を使ってくれたのか、すまないな。確かに沙乃にバレるのは不味い」
少し天然なのだろうか。
連絡先の件といい、後のことを考えるのが抜けているようだ。
「麻葉ちゃんには言ってないのか」
「ああ。こっちの世界を知らない人間を無闇に巻き込みたくはないからな。ましてや、沙乃は大事な友人だ。危険に晒すわけにはいかない」
「ふぅん。なるほどね」
(羽禰自身の危険はいいのか)
感情表現は薄いが義理堅いところがあるようだ。少し印象が変わったかもしれない。
「さて、私はもう少し巡邏をしなければならない。早く寝るのが聡明だぞ先輩。夜更かしは身体に悪いからな」
「物理的にな。というか夜更かししているのはお前もそうだろうが」
「私のは義務だからいいのだ」
なんだその
っと、また取り逃すところだった。
昨日の件について聞くチャンスをそう何度も逃すわけにはいかない。
俺はあれからあの情景が反復して頭が一杯だったんだ。なんなら今のそれで種が増えた。
「ではまた。明日も学校で会えればいいな」
「待て待て。昨日の事といい、一体何が起きているんだ?そして羽禰は何者で何が目的なんだ?」
颯爽と外へ出て行こうとする羽禰は俺のその問いに動きを止め、少し眉間に皺を集めた。
しばしの沈黙。さも俺の「やっぱりなんでもない」という言葉を要求しているかのような場の空気。だがここまできて慄くような
「…微塵の興味と微々の干渉で奇奇怪怪に首を突っ込もうとするものではない。私は知っている。されど先輩は知らない。ならばここは退くべきだ」
「なんだよそれ」
「事が落ち着くまでは私が助けに来るし、先輩は要らなく考える必要もない。それ以上はない。それだけだ」
「お、おい。待てよ!」
羽禰は行ってしまった。その目はあの時の深淵と化し、威圧は
「…ッチ。俺だって知る必要があるはずだぜ。でなきゃ――」
――でなきゃ今までの説明がつかない。一日二日のそれでは無く、今までの説明が。
「…はぁ。ったく…随分と寒いな。」
小夜風が嫌に身を撫でる。今夜は、どうやらそんな夜だったようだ。
*――――――――――――――――――*
あれからは一睡もすることはなく、そのまま朝を迎えた。
眠気は一切沸いて来ず、眠ってしまおうなんてそんな気分にはなれなかった。
昨日、いや、一昨日のあれのように自然と脳裏に焼きついて離れない。なんてことは無かったが、今回の事象は逆に、意識的に忘れまいとしようとしていたのかもしれない。
かと言って意味の無い考察をまとめていたというわけでもない。
むしろ空っぽ、さっぱりとした空白を心の中に作って黙っていたらそのまま時が過ぎていたと言った具合だ。
そんなわけで昼下がり、今日は学食ではなく中庭のベンチで日向ぼっこ。
当然、徹夜を果たした脳には今度こそ睡魔のシワ寄せがくるわけで、そんなときは精神衛生上非常によろしい日光に
本来、大学敷地内の中庭と言ったら恰好のデートスポットであり、恋愛経験がほとんどない俺からすればそんな魔窟には一切立ち寄ろうともしないのだが安息を求めるときは別。やはりここが一番なのでそれ相応の準備は怠らない。
ベンチはカップルなんぞが目に入らぬよう広場側を向いたものを確保、本来三人から四人用に作られているらしいがそのど真ん中に陣を置く。端に座っていると恥知らずバカップル共が堂々と相席してくるかもしれんからな。
瞼を降ろして耳にはイヤホンを装着、聴覚を占領しイチャついた猫なで声とか称される騒音を完全に遮断する。流してる曲はゆったりとしたメロディに抽象的な歌詞を乗せた電波系同人楽曲。これが案外心地いいのだ。
そこまでの準備を経て得た環境はまさに至福。脱力に次ぐ脱力で最早筋肉なんぞ機能していないといってもいい。周りの目なんて関係ない。そもそもみんな俺になんて興味ないはずだ。
「たまにはこういう時間も、必要だよなぁ。人間」
どうせ卒業して社会に出てしまったらこういうまとまった昼休みなんてのはそう取れないだろう。ならば学生のうち、存分に堪能しようではないか。
「社会に出たらどうのこうの」とかいう大人の話なんてしょうもない。だから大人になる前にやっておくのではないか。まったく、わかってない。
さて、どのくらいこうしていようかな。幸い、いつも喧しい遼は先生に呼ばれただかで当分戻ってこない。
(夕飯はどうしようかな。今日は久々に贅沢デーにしてもいいかもな)
「…む。先輩ではないか」
(そろそろ夏も中盤、焼き魚がいいかな。でもせっかくの贅沢だしな。身体に悪そうなジャンクフードやらラーメンやらを腹いっぱいおかわりするのもある意味乙だな)
「こんなところでだらけた恰好をしているとみっともないぞ。おーい」
(でもせっかく御馳走にするんなら白米がいいよなぁ。幸い実家から送られてきた分は残ってるし)
「イヤホンしているのか。音を周りに漏らさないための機器とはいえ周りの音が聞こえない程とはいかがなものか。おーい香良洲先輩」
(ってことはやはり焼き魚だな。この時期は鯵が好し。帰りはスーパーによって値段度外視の新鮮な奴にしよう)
「・・・」
(こいつは楽しみになってきた。久々にあのガスコンロが火を吹くときが―――)
「うおぉい!?」
ベンチから転げ落ちながら耳からイヤホンを引き千切る。
鼓膜に直接流し込んでいた音楽が急に爆音に変わったのだ。
「やぁ先輩。今日はいい天気だな」
「…!?」
目の前には真顔で佇む羽禰の姿。
こころなしか目が笑っているように見えた。
「おまっ、なにしやがんだ鼓膜破る気か!?」
「沙乃に「イヤホンをして気付かない奴にはこうしろ」と教わった。あと鼓膜は破れても 一週間程度で治るらしいから安心していいぞ」
淡々とおぞましい事を言いやがる。そういう問題じゃないっちゅうに。
「・・・お前わかっててやったろ。流れてる曲、ロックな般若心境に変わってるんだが」
「・・・沙乃に教わった」
「おう目逸らさないで言ってみろや」
羽禰の目は大いに泳いでいた。今夜の夕飯が鯵と知ってのことか。
「ったく。何の用だよ」
「たまたま見つけたので挨拶をしただけだ。ここに来るのは日課でな」
「ほぉ」
広場を散歩するのが日課とは、やっと可愛げがあるところが垣間見えた気がする。いや、しでかしたことはまったく可愛くないが。
「…」
「…」
と、ここで会話が途切れる。
あたりまえだ。昨日のあの剣幕があっては気まずくてそう簡単に話題は振れない。たとえ関係のない話であっても。
「…昨日の事は訊かないのだな」
「そりゃあな。あんな強く訊くなって言われたら食い下がるほかないだろ。ってかお前からその話すんのな」
「牽制の意を込めてだ。だが先輩がそこまで物分りがいい人ならこれは杞憂だったようだな」
まぁいい加減酸いも甘いも分別つく年頃だ。これは明らかに酸っぱいほう、というか苦いくらいに不味いだろう。
「なぁに、そこまで心配する必要は無ぇよ。言ったろ?幽霊を視るのなんざしょっちゅうだ。それが霊障?だかに変わったぐらい、じきに慣れるさ」
「うむ。いい心がけだ。先輩がこの地を離れるまでは私が面倒を見てやろう」
なんとも上からの物言いだが、実際、羽禰でないと霊障をなんとか出来ないのは確かだしそこに不快感は感じない。
餅は餅屋、なんて言葉使った試しは無かったが、今がその使い時だろう。
「よろしく頼むよ。じゃあ、俺は行くかな」
「む。まだここに来てからあまりくつろげていないのではないか?それとも私の悪戯によって気分を害したというのなら謝るが」
「そんなんじゃ無ぇよ。遼から連絡が来たから合流するだけ」
「そうか。それならさらばだ。夜には気をつけるんだぞ」
"夜に気をつけろ”とはなんとも壮大な注意喚起だ。
実際その通りだが。
「じゃあ、また。…あっ」
「?」
そういえば。
訊く事は無いと言った手前、言わなければならない事があった。
些細な話だが、割と大事な事。
「蹴破られたアパートの扉。あれどうすんの」
そう、昨日の戦闘で唯一でた物質的な被害。
演出かの如く吹っ飛んだ扉は今も玄関に放置されたままだ。
金具が外れただけなら日曜大工でなんとかなったかもしれないが、古かれどしっかり鉄で出来ているのにも関わらず扉はぐしゃりとひしゃげてしまっているときたもんだ。
どうにもならん。
「・・・まさかあんなボロアパートに人が住んでいるとは思わないではないか。」
「その言い訳だとまるで俺が人ではないみたいじゃないか。あと、たとえ空き家でも所有者がいる以上なにかブチ壊せば器物破損だぞ」
羽禰は無理矢理な言い分を並べてきたが顔からは見る見る血の気が引いていた。
幸いあのボロ屋は俺以外に住民が居らず大家さんは半ボケのおじいちゃんなのでいまだ誰にも気付かれてはいないのだが、かといっていつまでも放置しておくわけにもいかんだろう。
「いや、お前もまだ大学生な訳だし修理費を全額出してくれとは言わないがせめて半額くらいは…」
「・・・しっかり全額お支払いさせていただきます。貯金には余裕がありますので…」
「おっ、おう、そうか。悪いな…」
なぜかこっちが謝ってしまった。まさかそんなに焦るとは思わなかった。
しかしそれくらい羽禰は反省しているようだ。初めて俺に敬語を使ってみせるくらいに。
(しょうがない。三分の一は黙って俺が負担するとしよう)
手痛い出費にはなるが、まぁ見知った後輩のしでかした事だし、多少は面倒見てやろう。 面倒見てもらってるしな。
「じゃ、じゃあ後で額のほうは連絡するから」
「…」
「…」
ほぅら、だから言ったじゃないか。昨日の事に関わる話題になればどうせこんな空気になると。
*――――――――――――――――――*
「…ん」
不必要に目が覚めた。
連日の騒動で睡眠時間が足りていないのは明らかだった。
だから12時近くまで復習やらなんやらで時間を上手く潰し、今夜は何も起きそうにない事を確認してから十二分に余裕を持って寝付いたというのにどうやら脳はノンレム域には達してくれなかったようだ。
寝ぼけるほど時間は経っていないらしく、明瞭な意識を持ってスマホに表示させた時計を確認する。
『2:20』
最悪の時間帯。
辺りには深夜の堕ちた冷気がたちこめている。
(ダメだ)
俺はここ二日の事例から即座に二度寝に入ろうとした。
前兆が来てしまってからでは遅い。今夜は特にやばい気がする。澄んだ空気に刺激された第六感がそう直感の警報を鳴らしている。
「・・・」
しかし条件が芳しくなかった。
浅い睡眠で醒めた意識。直後に浴びたブルーライトの光線。段違いの冷気に冷やされた足。そして無意識に意識してしまった二度の怪異。
これら全てが阻害する。
どうやら眠れそうにない。
「…体内時計バグッたか」
俺は仕方なく起き上がると台所に向かった。
こういうときは暖かい飲み物(最良はホットミルク)を飲んでから壁の方を向いて擬似的な閉所空間を造り布団に入ると良く眠れる。
いつもの必勝法、そのために少し手間だが用意しよう。と、冷蔵庫の戸を開けた。
(牛乳は無し…か)
ならばと戸を閉め冷蔵庫の上に常備してある茶葉入れを見る。
「げ」
空っぽ。そういえば夕飯の焼き魚によく合うからと最後の一杯分を使い果たしてしまったのだった。
コーヒーは無い。あまり好き好んで飲まないからだ。
白湯、も考えたがあれを飲むとなぜか胃の調子が悪くなるので止めた。
(妥協するか?)
と思ったが台所をウロウロするうちに足だけでなく体中が冷え始め、余計生半可じゃあ眠れそうになかった。
「しゃあねぇ」
俺は靴下を履いて上着を羽織ると外にでた。
コンビニに行く事にしたのだ。
最寄の店舗は徒歩3分、それほど睡眠導入に影響はでないだろう距離。
そこで暖かいカフェオレかなんかを買って飲みながら帰宅。身体が温まっているうちに就寝で完璧だ。
――購入完了。
ついでに店内イートスペースでホットミルクを飲んできたので余念はないだろう。
後は動機が上がらない程度に急いで帰ってパパッと布団に―――
―――しまった。
鼓膜の表面だけを弄くり倒す、いつになく強烈な耳鳴り。
今回はそれだけ。しかし怪異のレベルはどれだけ症状が現れるかではない。どれだけこの耳鳴りが強いかだ。俺の場合はそれで決まる。
『前兆』だ。
俺はもし金縛りに会う前にスマホの時計を確認する。
『2:27』
迂闊だった。悔しくも一昨日の怪異と同じ時刻。不の数刻。腐の刻。
「――ッチ」
視線を上げると一思いに駆け出した。
一週間前の俺なら有り得ない選択肢。何事もなかったかのように無視していただろう。
だが今は訳が違う。置かれた立場が違う。
理由は二つ。
一つ目はコンビニがすぐそこにあること。
いくら深夜と言えど客の出入りがある。羽禰の論を借りるわけではないが無関係の一般人を巻き込む事は出来ない。(俺も一般人ではあるのだが)
直接関わるのはもちろん、ほんの少し視界に入ってしまうのでさえその人の今後の人生は秒針のイカれた時計のように狂ってしまうだろう。
それほどに危険な信号を感じ取っている。
二つ目は奴等の狙いが明確に俺であること。
ただ気まぐれに脅かしてきた前までとは違う、まだ尽きていないこの生命を狩り取ろうとしている。
なんにも太刀打ちできない以上、無力な俺がただ黙って立っているなんてのは無謀が過ぎる。ただ喰われるだけだ。
約束したとは言え必ず羽禰が来てくれるとは限らない。得体の知れないものは信用できないだろう?
「居るな。この先に」
住宅街の路地を無作為に進み続けた。
しかし進めば進むほど、曲がれば曲がるほどに胸騒ぎが高まってくる。
どう足掻いてもいずれそいつと邂逅する運命らしい。
構わない。どうせ逃れられないのなら俺から会いに行ってやる。
そして角を曲がった先に、居た。
黒い巨体、艶掛かった肉体は月光を反射させる。人よりも獣に似たソレの目は掛け軸の妖怪描画のように丸く、小さな黒目がこちらを向く。
顔だけ振り向いた二足歩行の化け物は口元をニタリと、滴る涎が品の無さを誇張した。
まるで黒鬼、だが今の俺は不思議と臆する事がなかった。
「・・・やっぱり逃げたほうが正解だったか?」
怖ぇもんは怖ぇけどな。
「それが懸命だったな。時すでに遅いが、死に急ぐのは良くないぞ?先輩」
背後から掛けられた声は耳の張り付いて離れない、期待通りの波長だった。
鳴る鈴の音は今度こそ幻聴なんかではなく、その補正分いっそう強い存在感を
「やぁ、羽禰。今回は有無を言わせぬ蹂躙では始まらないんだな」
今夜の羽禰龍も、巫女装束が良く似合う。
そんな夜更けでございます。
「ふむ、鬼か。これはまた随分と大きい獲物を釣り上げたな先輩。思っていたより良い竿を持っているらしい」
「怪異を魚に喩えるのは結構だが、人の霊感体質を釣り人のように言うのは止さないか」
「ああ、そうか。釣り上げて捌くのは私の役目で、先輩は鬼をおびき寄せた疑似餌のほうがしっくりくるというわけだな。これは一枚、上手を取られたようだ」
自分をさらに貶してまで上手を取るやつがあるかい。と、ツッコもうとしたが、羽禰は言い切ったと同時に駆け出したのでそれは叶わなかった。
羽禰龍は巫女に変わる。その瞬間こそ見せてはくれなかったが、空気の変貌がそれを
巫女は人であることさえ輪郭がおぼつかない程の速さで、迷いなく鬼との距離を詰めていた。
白より紅の目立つ閃光が鬼の寸前でぴたりと停まり、巫女に化ける。
その姿を視認できたのは一瞬、御祓棒を低く構え、溜めを作ったその一瞬だけだった。
ここからは辛うじて何が起きているのか、捉える事ができた。
巫女は矢のように跳躍し、猫背の身を起こした鬼の頭部を目掛ける。
3mはあろう巨体の首元辺りまで跳んだところで、巫女は身を捩り御祓棒を振り上げた。
これまでの加速を全て乗せた一撃は寸分の狂いなく顎に命中。
無駄のない一発に鬼は倒れ―――――なかった。
変化無し。
まるで木製の仁王像を殴ったかのように、微塵にも動かない。
羽禰が着地し見上げると、鬼は不敵に見下ろしていた。
余裕を見せ付けるかのような気持ちの悪い笑みを浮かべながら。
「ふむ」
鬼の反撃は間もなく。ゆったりと挙げた拳を無造作に地面に叩き付けた。
轟音。と共に形を崩すコンクリート。
羽禰は鬼の遅い動作を見切り悠々と飛び退いたが、あれが直撃すればどうなるかなんていうのは明らかだ。
羽禰はもう一歩後ろに跳んで、ただ立ちつくすだけの俺の隣に来た。
「先輩」
「あ?」
あまりの強烈な出来事に情けなく口を開けたまま返事をしてしまった。
まだ恥ずかしいと思えるだけの正常な部分が残っているようだ。
恥ずい。
「先輩も既に感じているだろうが、奴は尋常ではない。これを持っていてくれ」
羽禰が差し出したのは一枚の御神札。暗さも相まって何が書かれているのかを読む余裕はなかった。
「これには神の加護が篭っている。私は今から本気を出す。それでも何かあったなら、この神符が護ってくれるはずだ」
「何かって、お前なに言ってんだよ。もしやられそうなった時の事言ってんなら、一緒に逃げるしか選択肢はないだろうが!」
一拍、置いた。
「そういう訳にはいかない。これは使命だ。さぁ、受け取れ」
「・・・」
俺は羽禰と目を合わせることが出来なかった。
一瞬視界に映った彼女の瞳は、また、底が覗けるぐらいに失っていた。
目前の恐怖と、眼前の畏怖。
・・・それでも
(堪るかよ)
しっかりと目を見て、目と目を合わせて神札を引っ手繰った。
「こいつは受け取る。だが、お前がやられる時は俺も諸共だ。いいな」
羽禰の顔は
「馬鹿を言うんじゃない。私の死を安々と無駄にする気か」
「最初から負ける前提で考えんなたわけ。後輩が俺のために
羽禰の言い分は大いにもっともだ。俺だってきっと同じこと言う。
だが俺だけの為に誰かが死ぬなんてのは当然まっぴらだし、もう勘弁だ。
それで拾った人生なんて足かせが増えるだけ。途端に意味が死ぬ。
「・・・」
「なにも出来ない身で上から物言って申し訳ないが、こんなくだんねぇ理由で後輩が死んだってなれば、どうせ後で悔やんで腹斬るんだ。だったら今死ぬ。」
「…二人で死ぬか、二人共生きるか、そのような選択肢を強いられては後者を選ぶしかないではないか。まったく、『先輩』という存在はいつだって理不尽な生き物だ」
「そうだよ。よく分かってんじゃねぇの」
羽禰は諦めがついたようで、小さく笑った。恐らく納得はしていないのだろうが、互いの正しく機能したエゴイズムの偽善は、後を絶った俺の勝ち。
「理由が増えたな。…では行くとしよう。なに、勝てば全て意味の無い駆け引きだ」
どこか楽しそうに1歩前に出る。鬼は向かってくるが鈍足故未だアウトレンジ。
羽禰は目を閉じる。
「―――言霊、啓け」
巫女は宣言する。宣告する。
途端、強い"気流”が身を押して飲み込んだ。
「幽宮に神留まり坐す
伊邪那岐
又
黄泉に神留まり坐す
伊邪那美の命以て
皇御祖神
天照坐皇大御神」
独特なリズム、抑揚で巫女は唱え始める。
イザナギ、イザナミ、アマテラス。聞き取れたのはそれぐらい。
他は何を言っているのかさっぱりだったが、この呪文のような唱えごと不思議と心が落ち着いた。
こんなときなにを悠長な、とも思えるが何かちゃんとした理由と結末があるのだろう。
「高天原の天八湍河原に契約を契給ひし時に生れませる
信用の大神等」
この間にも黒鬼は着々と距離を詰めていた。
正直気が気では無い。
しかし、羽禰がここで、この場面で判断の失策を犯すとは到底思わなかった。来るか否かで悪態はついたが、目の前に居るってんなら信頼は絶大だ。
そう思えば、なに、ビックネームなテーマパークのB級アトラクションに乗っているような気分だ。
それを証明するように巫女を取り巻く気は凄みを増し、陽を錯覚する温かみが辺りに漂ってきた。
「諸諸の怨厄嫉欲を祓い賜へ鎮め賜へと 申す事の由を」
(まだ余裕はある)
と、手に汗握りながら焦りに苦笑しつつ鬼を睨みつけていると、視界の端に居た巫女に明らかな変化が(やっと)生まれた。
巫女の立っているコンクリートが光りを発しているのだ。まるで見たことのない、黄金色の光。それが下から、巫女の全身をやわらかく包んでいる。
「天津神
国津神
八百万の神等共に」
錯覚は確信に、温かみは熱に、明らかな陽の気に巫女の裾や髪が揺れている。
『神』を纏っている。そう表現しても
「聞食せと恐み恐み申す」
言い切りを、筆を払うように掠れずに窄めていった。
ゆっくりと目を開ける。確信を宿した目を。
途端、羽禰を取り巻く光がより一層輝きを増し、身に憑いた。
と同時に、巫女装束に龍が奔る。
下から上に向かって、紅い袴には白の、白衣には紅の色で一匹の龍が昇りながら柄になった。
「いいものを見られたな、先輩。これは中々珍しいものだぞ」
自慢げに言う羽禰の自信に満ちたしたり顔。これは必勝の演出か何か、堪らないぜ。
「これから見られるもんのほうがよっぽどレアだよ。頼むぜ巫女さん」
「フフッ。煽り文句すらも、今は不思議と心地良い」
充分に時間は消費され、鬼は己の攻撃範囲にまで近づいていた。
その太い肉の腕が充分に届く距離、しかしそれは、巫女にとっては快心の間合い。
鬼はあの地を揺らす強撃を、もう一度繰り出すべく左手を高く持ち上げる。
羽禰が狙っていたのはその瞬間。腕が最も開いたその瞬間に、強く地を蹴った。
視認は不可。混ざって桃色をした、最早矢と呼べる速さで跳ねた彼女はそのまま鬼の左肩に突き刺さる。
まるで衝突事故。弾けとぶ音を鳴らした鬼は不安定な体勢が余計して後方に大きくバランスを崩した。
衝撃を上に逃がし
身体を丸め、落下を加速。回転し遠心力で高まった威力が大外に置かれた御祓い棒に集まり、倒れる寸前をぶん殴った。先の一撃とは格段に威力が違う、力の奥に垣間見える人力ならざる神力の衝撃。
――ドァアアン!
大きな地響きを鳴らして打ち付けられた鬼は、コンクリートを砕き地面に減り込んでいる。
それは、直前に地を割った黒鬼の一発と、少なくとも同等以上の火力が出ていることを証明していた。
「いやめちゃくちゃだよ…。」
ドデカイ穴が二つも空いてしまった名も知らぬ住宅街の一角、朝になればどれ程の騒ぎになるのだろうか。
というかこんなに轟音を響かせて地を揺らしているのに一戸たりとも家の電気が点かないとはどういうことだ。皆さんお疲れか?
そんな不安をよそに、巫女と黒鬼の闘いは続いている。
一歩退いたところで隙を伺う羽禰は起き上がろうとする鬼をじっと見つめていた。
ゆっくりと身体を起こす黒鬼、ようやく見えた顔は右頬が大きく歪み
「見上げた根性だな。そこまで人の肉が恋しいか」
鬼は返事代わりにニヤリと笑って返し、しかしその不細工はすぐに驚きに変わってまた倒れてしまった。
左腕に重心を掛けて立ち上がろうとしたが、まったく力が入らなかったのだ。
鬼は不思議そうに投げ出された左手を見つめる。上手く拳が作れない。
「肩は砕いておいたぞ。左が利き手のようだったからな」
羽禰は淡々とそう言った。無感情に、さも当然に。
鬼はその瞬間、その非常感に気付いた瞬間、ようやっと恐怖を感じた。その恐れの背後に死が待っていることを悟った。
途端、余裕を無くして天敵のほうへ振り向いた鬼は、だが遅い。
ゴッ。
鈍い音を立てて紅い袴に包まれた膝が眉間に刺さった。
「ヌアアアァァァ!!」
鬼は眩み倒れて天を仰いだ。まるで息をつく暇が無い、その窮地に打開策は見つからない。
執拗に頭を狙ってくる。当然だ。殺しに来てるのだから。
弱肉強食のヒエラルキーは当に逆転している。
何とかしなければ、何とか、生きて逃げなければ。
「ぐっ…」
巫女は倒れて動かない鬼の喉を踏み潰した。
「おごりが祟ったな。結末の算段を立てられず優位を見誤る奴に、捕食者となる権利は無い。堕ちるといい」
「ぁ、ぁぁ…ぉ」
喘ぐ息が絶え絶えに小さくなってくる黒鬼は最期、目を白く向いて停止した。
「…終わったのか?」
「ああ」
最短の返事のみを返して小さく俯いた。
はぁ、と小さく息を吐く。すると、巫女装束に浮かんだ龍が身に纏っていた光と共にスッっと消えた。
と、直後、羽禰は大きく目を見開くや否や呼吸を荒げ身体を揺らした。
「羽禰!?」
俺は咄嗟に一歩踏み出して倒れそうになる羽禰を支える。
「おい大丈夫かよ」
「尋常ではないからな。器が無理した分の跳ね返りが来たようだ。なに一時的な貧血のようなものだ、すぐ治まる」
器がどうとか、よく分からないがどうやら相当無理してくれたという事だろう。
激しい悔恨の念に囚われる。俺にどうすることも出来ないのは分かっている、が、それでもただ傍観者でいたことが今になって、ひとたまりもなく悔しかった。
(いや)
だが優先順位はそうじゃない。
「一旦座って休もう。そうだ、なんか飲むか?パックのカフェオレとほうじ茶しか無いけど、どっちが良い?」
「あまり気を使わなくてもいいんだぞ」
「いいからいいから。とりま両方取ってくるわ」
戦闘の前に邪魔になるまいとだいぶ遠くにブン投げておいたビニール袋の元へ走った。
礼は後で、落ち着いたときに万全の準備をもって丁寧にさせてもらう。
今は出来ることを全身全霊で取り組む。贖罪でも、自己承認でもなく率直に羽禰のために。
「うわっ、ぬるくなってら」
どちらもホットを買ったはずだったが、いつの間にかそれほどの時間が経っていたようだ。
まぁ、このほうが飲みやすいだろうからいいか―――
刹那、異変に意識が逸れた。
――おかしい。
興奮せざるおえない体験に感覚が麻痺していたが、根本的な部分が解決していない。
こうなるに至った体内の警告灯がまだ赤く灯っている。まだ、強い霊感が、劈くような耳鳴りが止んでいない。
奴の亡骸がまだそこにあるから?いや、違う。
明らかに増長している。身を撫でる窮屈な不快感がどんどん膨らんでいく。
力が…増している…?
外したことのない嫌な予感が、これまでにないほど警鐘を響かせた。
「羽禰!!」
俺は声を張り上げて振り向き、血の気が引いた。
「?。どうした先輩。中身が零れてでもいたのか?」
こちらを向いて力なく座り込む羽禰。その背後には、気配を殺して歩み寄る鬼の姿が、鬼の故縁たる禍々しさと殺意をもって、月光に照っていた。
羽禰は力を使い果たした影響か、まだ奴に気付いていない。クソ、この距離じゃ間に合わねぇ…!
「じゃあ平気なほうでいいぞ。それとも両方零れているというのなら―――」
「後ろだ!!」
切羽詰まった形相で叫ばれた羽禰は目の色を変え振り返り―――
―――だが、あまりに遅すぎた。
すでに走り出していた俺がたどり着くより到底早く、黒鬼はその大きな手で羽禰の身体を掴み、その場からブン取ってしまった。
羽禰の細い身体は鬼の片手の内に容易に治まり、奴の顔の高さまで持ち上げられていた。
「クッ…」
羽禰は抵抗できずに苦悶の表情を浮かべている。あいつ、恨みそのままに羽禰を握りつぶす気だ。
(ぬかった…!)
鬼との距離はまだ遠い。俺が干渉できる所まで行ったとして、最悪手遅れ。
「だ…めだ…!」
「ッ!」
羽禰の目はこちらを向いていた。
「来るんじゃ…ない。に…げるん…だ」
なんとか搾り出したであろう言葉は、自身の窮地を差し置いてまで俺を優先したものであった。
羽禰の戦意を捨てた台詞に勝利を確信した鬼の顔は、これまで以上の満円の笑みで満ちていた。
「どうしようも…無いってのかよ」
絶望。
このまま走り続けて彼女が殺される前に間に合ったとして、果たして、打開できる
二人とも死ぬだけ。最悪の結末。
(それでも・・・)
「やるだけやって、だめなら諸共…!」
それは空元気でしかなかった。だが、そう約束した。羽禰からこの御神札を受け取ったその瞬間に。
もし結末に例外があるとしたら―――
(俺だけが、か。羽禰には酷やも知れんが、無い話じゃない)
ずっと握ったままだった御神札を見下ろす。
強く握られてぐしゃぐしゃになった御神札は、黄金色に発光していた。羽禰を包んでいたあの光のように。
"これには神の加護が篭っている”
羽禰がそう言っていたことを思い出す。
つまり、神様は今、眼前の危険から俺を護ろうとしている。というわけか。
光は一歩進むごとに輝きを増していた。奴との距離が縮まるほど、身に余る危険が近づくほど効力が増しているということだろうか?
(やっぱり、危険なんだな。
なにかを想う度に心が曇る。
それはそうだ。本当は死にたくない。このまま向かっていけば、きっと死ぬ。
それでも俺は走るのを止めなかった。しかしそれは、止まる間合を見失って止まれないだけだった。
自身の安息と道徳の価値観を贔屓のある天秤に掛けたらたまたま後者が、理想という中身の無い重し分
それを判ってしまったが途端、無理して昂ぶらせた威勢と空元気は消滅し、心の曇天が黒く厚みを増していくのだった。
「クソッ」
内面的な厄介を、外面上で振り払おうと嫌がるように首を振る。
この時点で香良洲航進がせねばならぬ事は決定していた。もう後戻りできない距離にまで達していたからだ。
だが、まだ決意が定まらぬ。これまでの人生で妥協してきた甘さ、体たらく、優柔不断のツケがここに収束する。
さっきまで猛烈に縮まってきていると感じていた残り十数メートルが、ひどく長い距離に思えてしかたがない。
やるしかない…のか?
ようやく思い切るには充分な常套句。だが余分に付け足されたその疑問符が、定まらぬ思考をさらに深みへと堕としていく。
"失敗、淘汰、焦燥、結果”
"逃走、結末、油断、実力、無才、自覚、本能、利己、犠牲、死”
"過去信頼醜態理解時間杞憂逆転想定外観念後悔懐疑失望弱点摂理最低限持久生命倫理消失”
"偶然の打開は有り得ないのか本来の対処法はなぞ存在するのか意味は成果はそもそも可能性はあるのか自分ごときにできるのか本当に立ち向かう事が正義なのかそれは無理な正当化ではないのか”
遠くに思えた鬼との距離は、それでも確実に近づいていた。
"正しいとはなんだ、千差ある倫理に正解などあるのか”
己らしからぬ、だが確かに脳裏の闇から投げられる一方的な問いかけ。
"そも、己の信念とはなんだ”
「…自分へ向けられた信頼に・・・全力を持って応えることだ」
しかし、この問いには不思議と、無意識に答えを呟いていた。
"信頼は必ずしも潔白であるのか”
「裏切られた事もある。それでも…貫いた先に、後悔はなかった。そうはさせなかったから」
続く自問自答。語りかける裏側のような彼は、きっと対等に思えた。
『では』
淡かった声は次第に明瞭となって耳を打つ。
「彼女はお前に、
強く響いた内の聲が、心臓を強く叩きつける。
一歩踏み込むたびに鼓動は加速し、やがて全身が熱を帯始めた。
俯いていた視線を上げた。
意に反し鬼へ立ち向かっていく俺に拒絶の視線を向ける羽禰の瞳、その奥に、純粋に透き通っているが故に終ぞ覗けた瞳の奥の底に、信頼の幽光がフッと視えた。
「助けて」と喘ぐ心が、儚く、されど強く、そう訴えかけていた。
(もう、後悔はしないって決めたんだ)
鬼との間はもう数歩。
地を踏み込む分をを除けば猶予は少ない。
(二度も破ったんだ。三度目の失敗なんぞ、あるわけない)
一歩、二歩、消費する。
覚悟が決まった。
今はただ、羽禰龍のことを思い出していた。
関係をもった期間は短くとも、人生という記録に強烈な焼き印を残した羽禰龍のことを思い出していた
まだ出会って間もない頃の羽禰龍のことを思い出していた。
魑魅魍魎を懲らしめる羽禰龍のことを思い出していた。
涼しい顔でとんでもない悪戯をする羽禰龍のことを思い出していた。
扉の件を訊かれ焦りに焦った羽禰龍のことを思い出していた。
踏み入ることを拒み、鋭い目つきを威嚇する羽禰龍のことを思い出していた。
さも当然のように俺を護らんと現れた羽禰龍のことを思い出していた。
そして一度だけ、ただ一度だけ魅せた羽禰龍の笑顔を思い出して、たった今の羽禰の姿と照らし合わせて俺は、この上ない怒りでまっさらになったのだ。
「穢ねぇ手で触ってんじゃねぇぞ、このクソ餓鬼がぁぁああああああああああああああああ!!」
血流で熱くなった体温が香良洲航進の本能を呼び起こす。
彼を人と形容するには、人間という生物は、あまりに脆弱であった。
このとき彼が何を想っていたのかはもう、思い出せない。
ただ怒りに任せ身を委ね、本能赴くままに身体が躍動したのだ。
ベストタイミングで地面を蹴り、高く、高く跳び上がった。
鬼の背を越す跳躍。現実離れしたそれに、だがそのときはなんの違和感も感じなかった。
意識は一直線に鬼へ。生まれて初めての本物の殺意は、それ以外考えられない程に魅惑に満ちていた。
視線は一切外さずに空中で振りかぶる。
(身体が軽い。筋肉に篭った力がこんなにも適合した事はこれまでにない)
黒鬼が迫り来る彼が餌ではなく敵だと認識を改めたのはこの瞬間だった。
雄叫びを挙げるほど新鮮な食材がまんまと食べられにやって来たと思っていたのに、今、目の前で鬼気迫るこいつはなんだ。
自分と同じ鬼じゃないか。
そう確信した黒鬼が反射的に防御の構えをとるも到底遅く、
夜の帳に包まれた中、彼は黄金に輝いた拳を振りぬいた。
ここで記憶が途切れている。
後から羽禰に聞いた話によれば俺が放った渾身は鬼の顔面を捉え、一発で吹き飛ばされた黒鬼はピクリともせずに消滅したらしい。
俺が意識を取り戻し記憶が繋がったのは、解放された羽禰のこの言葉を聞いた瞬間だった。
「先輩…。目が、瞳が、真っ赤だぞ」
俺の『平凡な日常』が真の意味で別れを告げたのは、きっと、この瞬間だったのだろう。
第零感〜ゼロセンス〜 佐藤 田楽 @dekisokonai
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