幕間 2
外来者
燃える炎の色の紗の被衣(ヴェール)を取り払った彼女が、森の神気を深く吸いこむ。
朝雲の向こうから太陽が顔を出したとしても、これほど眩しくはないに違いない。糖蜜色の肌に琥珀の如き瞳、むき出しの肩にまとわりついた被衣は女神の光輝に照らされた金色の霧のようだった。
長い黒髪は動きやすいように細かく三つ編みにされ、それをさらに高く金銀の髪飾りで結い上げている。
が…… 彼女と共に古い石畳の坂道を登りながら、グレン・フレイアスは戸惑ってもいた。自分の骨ばった青白い手の先に手を重ねている絢爛な美貌の女の横顔が存外にあどけないことに気づいたからだ。
もちろん、もう少女という年齢ではない。一歩一歩重く踏みしめるような足取りと、銀のゆったりした長衣の下の大きな丸みを帯びた腹は成熟した女性のそれ。少女と女、それに今は赤子までもが、一つの肉体に窮屈そうに同居している……
そこまで考えた瞬間不敬だと気づき、慌てて、歳月を経て磨かれたように光る石畳に視線を落とす。
古来、遠くは東玻の地からも巡礼たちが辿ってきた道だ。
夕立の時にはさぞかし滑りやすかろう。臨月を控えた身重の女は王妃だろうと平民だろうと本来こんな坂を上るべきではない。
なのに、当初彼女は一緒にイルライ山の頂上まで行くといって聞かなかった。貴女の身と御子に何かあれば、は彼女には禁句であった。
一歩間違えれば国際問題になりかねず、マーカリア人、すなわち自分が島に滞在出来なくなる……グレン本人が言説を弄して説得し、王妃もようやく折れてくれた。
『ただし……二人で門まで出向く。付き人どもは呼ぶまで下がりおれや』
王妃の機嫌を損なうことはマンドラの慣例を破ることより何倍も恐ろしい。王宮の重鎮や僧侶たちも『輿入れ以来、妃殿下が笑うのは貴殿といる時だけでしてな……』と驚愕を通り越し、グレンにまで畏れをなしている。
島の中央部、断崖からなる聖峰イルライへの登山口は“神魔の森”と呼ばれる底知れない深みを持つ常緑熱帯樹林に埋もれた山の裾野と山肌の際にある。
この奥に進もうとする外来人……特に白い肌の人間はグレンが初めてだった。
今日は銀糸の縫い取りのある黒い礼服に大げさな羽根飾りのついた帽子、片かけのビロードのマントに帯剣と、親善使節さながらの正装で臨んでいる。全くもって熱帯向きとは言えない恰好だが、グレンにとってはありふれた式典以上に、重要な日だった。
ポルテ=サスラの商館には一週間の有給休暇の申請以外、何も言っていない。週明けは何事も無かったかのように出社したかった。
たとえ入山許可を得た身であっても元大神女であり今は王妃であるセリカの手に異教徒が触れるなどありえない。だからグレンはおとといジンハ教に改宗したばかりだった。
空の輿を担いだ担ぎ手たちや十指にあまる女官たちが隠しきれない好奇心もあらわに坂の下から見つめている。
が、二人でいると雑談ばかりに花が咲き、次第にまわりの視線などどうでもよくなる。
『貴公ら西方人は船さえ自在に繰れば世界の海を我が物に出来ると考えているが、バカげた考えだ。海も陸も、たまさか地上に見えているものに過ぎぬよ。ところで……そなた、男盛りだというのになぜ妻帯せぬのだ』
ところで、からの繋がりに眉をひそめながらもグレンはぼそぼそと答えた。
『それは……その必要を感じることがないからでございます』
渋面の連れあいを見て、大輪の美貌がいっそ小気味よさそうにほころぶ。
この王妃は朴念仁として知れ渡っているこの自分との会話を楽しむという才能を持っていた。
自分もまた、単調な駐在生活の刺激物として、まるで蜜に惹かれる昆虫のように彼女の放つ強烈な魅力と聡明さから逃れらないでいる自覚はある―――が。
『そちは本来働かねばならぬ身分でもないのであろう? 変わっておるよのうマーカリア人は。だが周りをみよ、ここにはぬしの愛する花と木とうつむいたシダたち、そして岩だけだ。この島の森羅万象には神(こころ)が宿っているが今はわららを畏れて息を潜めておるし、もちろん間者の気配もない。さあ本心をさらしてみよ』
『女性に限らず、私は誰とも気が合いませんので……』
『嘘をつけ、妙なマーカリア人が茶畑にひどくご執心だと噂になっているものだから、わらわが初めて出向いてみた時、茶摘み女たちがそなたを見ている目ときたら……』
『妃殿下のご理解と祝福無くしては私の事業も日の目を見ることはございませんでした。それに皆、私とお話し下さった貴女様の輝くばかりの御美しさに見とれていたのでは』
『本気で言うておるのか? まあそなたであれば、そうなのであろうな。でもあの時、そなたが淹れてくれた茶より美味なものがわらわの喉を潤したことはないわ……』
『その……私の罪深い好奇心をご理解下さったのも、妃殿下ただお一人でございました』
『“貴方がたが神と崇めているこの島の植物を学術的な目で見ることをお許し願いたい”……などと。寺に立ち向かうものがついに上陸したのかと、嬉しゅうなったわ』
恐れ入ります、というグレンの即答に王妃はまた笑い声を立て、そのまぎれもない喜びは手をつたう振動となってグレンの身体にも伝わってきた。
『じゃが、そなたが改宗したのはわらわの手を取って歩きたかったから……であろ』
『なるほど、思ってもみませんでした。人にそう云えば歓ばれるでしょう、ですが勿体ないので誰にも言わずにおくことに致します』
『一度でいいから、誰かと魂を……身体を交換してみたいものよ。島の外に出て行ける男の身体……そなたのように風と富と弁舌とで世界を渡る者と。どうだ、身重の王妃になってみたい、などと少しでも思うか?』
『妃殿下はお疲れでいらっしゃるご様子、その苦労を、不肖の私も含め世の男どもが思い知るにはそれしかありますまいな』
『で、あろ? 誰がなりたいものか。この世は誰が何と言おうと女には不等だ。レグロナの今の王も女だそうだが夫君をいっこうに迎えぬらしいな
話題逸らしに失敗し続けているグレンの耳に、王妃は淡々と言い聞かせていく。
『入れ替わりがだめならわらわがマーカリアに至り……女王として迎えられぬだろうか』
それまで回りに満ちていた鳥のさえずりや蜂の羽音までもが遠のいていく……否。
血の気を失いそうにながら聞き入っているのは自分自身だ。
『そして……そなたも隣に並べた玉座につくのだ。わらわは、そなたのように賢くも牙を隠し持つ獣を愛してやまぬのだからな』
『……………』
『聞けばそなたはかのレグロナ王家にも連なる血筋だとか。それをもって布告すればかならずや我らの旗のもとに集う者たちが……』
『おそれながら……着いたようです。お見送り、まことに感謝致します妃殿下』
いつしか自分の指にしっとり絡みついていた金色に塗られた爪からするりと手を抜き、そのまま恭しく一礼した……早すぎないように、遅すぎないように。
『何を願う? そなたが、茶畑の次は霊草(ディーヴィー)農園でも始めていよいよ世界を支配しようと目論んでいるのではと危惧する輩もおる』
『私は冗談には疎い人間です、どうかお手柔らかに。たとえ冥蘭の花を見かけようとも、魔香素材にしようなどとは考えておりません』
『われわは知っておるぞ、そちは単なる好奇心の塊になれる……植物の前でだけはな』
『いえ、祈ります。この島が今後も、列強の艦隊に平穏を乱されたりしないようにと』
『こんな時に社交辞令とは……』
『本心でございます、妃殿下。マンドラの安定こそが沿岸諸国に富をもたらします』
すると、王妃は小さく笑い声を立ててこれを喜んだ。
『我が夫よりも島思いじゃの、そなたは。まったく、腹にこんなものをしょいこんでいなければ一緒に登り、共に四方の海を眺めたのに……まこと口惜しい』
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