3-15.東南風
恐怖はなかった。声の主は、”アルメリカ“に助けを求めている。夢中で、索から身をいっぱいに乗り出す。
少しでも、声の主に近づきたくて。
(どうしてわたしを呼ぶ? なぜそんなに悲しんでいる? 貴方は、どこにいるんだ!)
白に黒に、赤から青に明滅し続ける荒天へと腕を差し伸べる。雷を掴もうとしているみたいだ。
とうとうハルが”アルメリカ“の腰帯を引っ張って何事か怒鳴った。が、轟音のあまり何も聞こえない。でも口の形で分かった。
”ちょっと、この期に及んで頭が変になっちまったんですか!“
「違うよハル! わたしは正気だ……わたしを必死に呼んでいるひとがいる、せめて、わたしはここにいると、伝えたいんだ!」
夢中で心を嵐の向こうに飛ばそうとする。
だが、身体は熱くなっても血はそれ以上たぎってはくれず、分厚い闇が再び目の前を塞いだ。
「……王子、王子!」
ようやく、ハルのほうを振り返る。彼はほっとしたように腕から力を抜き、指さした。
「ごらんなさいまし、あれを!」
眼下の海中、光る海面のお蔭でうごめく海底山脈と見紛うほど巨大な海竜の背びれが見て取れた。
聖なる囚人号が“仲間”であるかのように甘え、すり寄ろうとしている。もちろんそれは、この小さな船にとっては破滅を意味した。
「いけない……! 回避しないと!」
高所から起死回生の針路をつかんだ“アルメリカ”とハルは死に物狂いの速度で共に甲板に戻った。
未だ、大嵐と大波の中で主戦場のような有様の甲板上では誰もが狂気すれすれの作業に挑んでいる。
指示を叫びながら“アルメリカ”が走り回っていたその時。
「ああ、おうじ……そこに居……!」
呼び止められ、振り向いた先。
急に近づいてきたミルザーが前のめりに倒れこんだ。
咄嗟に、彼を受け止める。
手に海水に似た香りのする、ぬるっとした生暖かいものが触れた。ミルザーの肩口にナイフの柄が生えている。
轟々となり響く甲板上で、”アルメリカ“の感覚の全てが凍りついた。
視界の先では、暴風雨の中、イアルが……ミルザーを抱きとめたままの“アルメリカ”を見て薄笑いを浮かべていた。
押し殺した声。
「もっと喜んでよ、王子様? これで邪魔者は消えたでしょ? こいつの血じゃ海竜は満足してくれないかな? ねえ、おれは貴方を、この船を助けるためにこうしてるんです。お願いだから、おれを嫌いにならないで……!」
「下がってくだせえ」
据えたような目つきになったハルが、迅速に“アルメリカ”の前に回り込んだ。
他の乗組員も状況を察し、気の触れた仲間を捕らえようと身構えたその時、凄まじい重量を持つ巨大な何かが、船体にぶちあたった……
しびれを切らした海竜が。
針路変更は、間に合わなかった。
バリバリバリ! と雷を十本ぐらい束ねたような音がして後方のマストがへし折れた。
風に煽られ、材木と恐怖が奮闘する乗組員たちのなけなしの気力を挫くように降り注ぐ中で、 “アルメリカ”は誰かに強く突き飛ばされた。
ミルザーの身体と一緒くたになって舷側にぶつかり、頭から倒れこむ。
吼える海から恐るべき咆哮が絶え間なく鳴り響き、かえって意識を繋ぎとめてくれた。
舷側に向かって必死に身体を引き上げ、海面を睨みつけた。
明滅する妖光が暴き出す……巨大な首を擡げた真の海の竜王の影絵を。
これが、母親だ。子供の注意を引くために船に体当たりをし、今までびくともしなかった後檣(ミズンマスト)を易々とへし折ったのだ。
母親竜に叱られて拗ねたらしい仔は、山脈のような波を立てて聖なる囚人号に巨大な尾の一振りを見せつけてから、明滅しつづける緑色の波を追い立てるように戻っていった。
背びれなのか、あるいは海の一部なのか……それすら見極めるのが困難なほど巨大な母親竜は、聖なる囚人号にはそれ以上、目もくれなかった。
海竜の親子が遠ざかっていくや否や、雨脚が次第に弱まり、轟々たる風だけがぐんぐんと勢いを増していった。伸し掛かっていた黒雲の合間に星さえもが煌めき始める。
もしかしたら、大海竜たちには天候を司る力すらあるのかも知れない。
(ああ良かった! 行ってくれた! 嵐も、海竜たちも!)
安堵の余り、"アルメリカ"は笑顔になって振り返った。
そして初めて、甲板上の船員たちが凍りつき、波音も風音も遠ざかるほどの沈黙に覆われていることに気が付いた。
うねり、激しく上下する視界の中にあるものを、とっさに理解出来ない。
「ハ……ハル? どうし――――」
彼の胸の真ん中から、背中へと、鮮血色をした折れたマストの材木が貫通している。
恐ろしい姿で片膝をついていたハルの顔には血の気が無かったが、いつもの無表情に変化はない。
何かの演目でも見ているのかと錯覚しかけるほどだ。
「しくじりました、真の敵を見誤っちまいまして。まさか、木っ端だったとはねぇ」
狂乱していたイアルはハルの凄絶な姿を見てすっかり声を失い、凝固したまま立ち尽くしている。
ミルザーも、自分の肩口の怪我がかすり傷であるかのように絶句し、策具といまだに格闘している乗組員たちも蒼ざめて声を失っていた。
先ほど、誰かが“アルメリカ”を突き飛ばした……突き飛ばしてくれたから、自分はいま生きている。
よっこらせ、と言って、ハルが立ち上がる。船員たちは超然たる気配を漂わせ始めるミアンゴ人から後退った。
"アルメリカ"だけが微動だに出来ずにいた。
暴風が吹きつけ、好天へ向かっていることを感じさせる舷側に、貫かれたままの姿でハルがひょいと飛びあがった。
その動きからは地上のモノには備わっているべき重さが感じられない。
飛び立つ方角を知ろうとする鳥のように一度空模様を確かめ、ふっと、面目無さそうに視線を戻す――――彼がただ一人、頭を垂れることを喜びとしていた者へと。
「やあ、まことにいい風じゃございませんか。人は所詮風に吹かれるもの、されどもその風に帆を立てて進む方向を変えられるのもまた、人間だけだってぇことです。ようございますね? 王子はもう手前で帆を操れる立派な男にお成りなんですからね?」
「早くそこから降りろ、すぐに手当てをする、これは命令だ!」
「はは……貴方あっしに命令するなんて、実の所初めてじゃございませんか? こんな粗忽ものを、心の底から信じてくださった、貴方は……」
手を差し上げながら、ついに“アルメリカ”は全身をも震わせ、吐き出すように叫ぶ。
「違う、悪いのはわたしなんだ、罰を受けるべきはわたしなんだ! わたしは王子なんかじゃない、記憶の無いフリをしてずっと、ずっと、貴方を騙してきたんだから!」
「ご冗談でしょう?」
ハルが破顔した。いかにも不慣れな形をした口角から新たな血の筋が垂れる。
「……いえね、この際だから言ってしまいますと、あっしも、貴方様を騙していたんです。貴方が王子かそうでないかなんて、あっしには初めから些細なことでした。なのに最期まで調子に乗って王子、王子と……お互い様でさあ」
「どうして? ハルは本当にそれで良かったのか? だって、わたしは……!」
"アルメリカ"の言葉をハルがまた不似合いな、でも懸命な笑顔で流した。
「言わぬが吉、という言葉は西方にはございませんで? 貴方に何が起こったのか、手前なりに色々考えては見ましたが、新しい貴方は新しい世界へ乗り出す帆と風を下さった。これまで幾千通りもの悲惨な終わりを想像して参りやしたが、こんなものはまったく初めてでさあ。貴方のような方に見送られて同胞たちの元へ逝けるなんざ……勿体ないほどです。貴方はもう、本当に、本物以上の」
その時、急に喋り疲れたようにハルは口を閉じた。雷光の照り返しの中で彼の黒目ががいま何を見ているのかすら定かではない。
索具を掴んでいる片手も離し、腰帯に差していたものをおもむろに引っ張り出す。
「やれやれ……今日は身体が重とうございます。差し出がましいようですがどうかこれを代わりに持って行って頂けませんか? どこかで誰かがそれを見て貴方様を引き留めるかも……その時はどうぞ、よしなに。この先は無事風と波が貴方様をマンドラまで運びますよう、心正しき世界の王子にして最も偉大なる航海者の申し子、シャ―――」
突如、背後からせりあがってきた顎(あぎと)のごとき大波が牙を剥き、彼の小柄な身体が錘に引かれるように倒れ込んだ。
奔流が砕け散ったあとの舷側には何も無い。
寸前に投じられた宮護刀だけが“アルメリカ”の足元に正確に滑り込む。
「ハル、ハル……どこに、行った……? こんなの、嫌――――いやだあああああ!」
スタイフェルが、バックスが、そしてアンセルまでもが後追いをしかける"アルメリカ"の身体をつかみ、甲板に押さえ込む。
「帆を御覧なさい船長、左舷からの東南風です、貴方の意思が見事に掴まえたんです、アルヴァーロ・ナルディアスが見つけ、あの男でさえ尻込みした大風を、です!」
暴風の中、慟哭に身をよじり続ける“アルメリカ”を三人の男たちが押さえつける。
だが、その彼らもやがて、王子と共に肩を震わせ嗚咽を始めた。
そこに他の乗組員たちの啜り泣き、そして轟々たる風の嘆きも加わった。
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