3-2.エクシャナス

「ガハハハ! まったく世間知らずのひ弱な王子とその家来サンってわけか? サンガラ人の噂をちっとも聞かねぇわけだぜ、滅びたのも当然だな、ほんとにタマついて――」


 瞬間、黒い影が皆の視界の隅をよぎった。

 見切った者は一人も居まい。

 巨漢が何かの仕掛けみたいに宙を横切り、カウンター壁面の酒棚のど真ん中に叩きつけられた。突然の破壊音と硝子と酒にまみれながら、棚が半壊した。

 カウンター内にいた給仕や船乗りたちが女みたいな悲鳴を上げて逃げ出す。雨水で屋根が崩落してきたと勘違いしたらしく、避難だ、避難しろ! と誰かがわめいた。


 竜巻が通ったようなその先に飄然と立っているのは、ハルだった。


 荒くれたちが激高し、一斉に東方人に殺到する。

 転がっていた酒瓶を無造作に拾い上げたハルの手首が動いた。顔面で瓶が破裂し、二人は悲鳴をあげて倒れこんだ。

 三人目が踊りかかる。振り返りもせずに避けたハルは今度は草履の先で木の椅子をひょいと蹴り上げ、宙で掴み振りかぶった。

 体勢を崩した男の顎が砕け散り、椅子の破片が舞う中で閃いた回し蹴りが後続の巨漢の腹のど真ん中に吸い込まれる。

 四人の男たちが”撃沈“するまでに、断じて五秒はかかっていない。


 唖然として見ている皆の前をすたすたと横切り、ハルは最後に倒した男……先ほどサンガラ人を侮辱した奴だ……そいつが首から下げていた金の鎖をひょいと捻った。

「やめ……離しやがれぇ……グエエ」

 まるで、黄金の首吊り紐だ。

 ハルは彼の体格の三倍はあろうかという男の体を易々と持ち上げると、カウンター上にこれから解体される動物のように乱暴に押し上げた。

 東方の刀が音もなく抜かれた。

 "アルメリカ"も、ハルがそれを抜くところを初めて目にしている。

 細い月影色の刀身の冷然たる強靭さは、それだけで辺りを払うようだ。

 巨漢の首から下が恐怖にのたうつ。


「ぐ……ぐあ……ぎ……ぐええ」

「息をしていいと、言いました?」


 もういい、やめてハル、お願い! ……本来の自分なら、そう叫んだだろう。

 しかしシャオ王子はどんな時でも臣下に、特に忠実なる従者のハルに恥をかかせるべきではなかった。

 だから、平静を装って、厳かに告げるのだ。


「そのあたりで十分でしょう、もう離してあげなさい、ハル」

 皆が“アルメリカ”に注目する。

 頬が燃え出しそうだ。

「我が祖国と我が仲間たちを侮辱するのならそれ相応のご覚悟を。今度は、我が従者に代わり、このわたしが受けて立ちます」


 無表情のまま獲物を見下していたハルが、"アルメリカ"の言葉が終わるのを待って刀を振り上げた。

 それを、首筋の皮一枚だけを掠めて捩じられた鎖に突き立てる。鎖が寸断された。その音で、自分の首を切られたと思ったのであろう巨漢は失禁し、ついで失神した。


「気持ちよく小便から戻ってきてみりゃ、この騒ぎはなんだ、くそったれ!」


 不意に、場に乱入してきた声がある。萎びてはいるが強健そうな手が、カウンターに突き立てられたままの刀を抜いた。

 なめし皮のように日焼けをした隻眼の老人は黒い眼帯越しに客人たちを見回すと、迷わず、小柄な東方人に刀を返した。

 柄を服の裾で執拗に拭いてから収めたハルが”アルメリカ“の隣の定位置にそっと戻る。

「請求書はこちらに回さないでくださいよ、くれぐれも。ええと、旦那は……?」

「この酒場をやってるエクシャナスだ。俺の店に何しにきやがった? お騒がせ王子様」

「船員を集めにに、です」

「はっ! 集め、にぃ?! それどころか何人もぶっ倒されてるじゃねえか!」

「このような騒動になったことはまことに遺憾でした」

「ああ? ……こんなもん、喧嘩の序の口の口ってとこだよ。で、あの船でか? あんたらが通ってきたテシス内海なんてのはなあ、この辺りの船乗りに言わせれば桶に張った水と同じだ。潮汐の荒っぽさがまず違う。人間を惑わすのは海だけじゃあねえ。北海じゃあ、昼と夜の長さだって変わるんだ」

「こんなぬるま湯みたいな空気に住んどるタルサオラ人に言われたかないですね」

 寒冷なウェスリア生まれのバックスが不満そうに”アルメリカ“に耳打ちした。今の騒ぎで少し距離を縮めてくれたらしい。

 微笑みながら”アルメリカ“は首を振る。

「“それ”は、我々も存じ上げております。でも北海航路を行くわけでは……」

「一体、どこへ行こうというんだね? あんたらは」

「……出来れば、マンドラ島へ」

「よくわからんね、タルサオラをわざわざ見に来て、で、またデストリウス海峡に出戻るってのかい? ああそうか、どうせだからこの世の西の果てを見ておきたかったとそういうわけですか? なんなら西の岬に銅像でも建てます、かい?」

 百戦錬磨の船乗りに鼻で笑われ、頬を赤らめて萎縮しそうになる。


 でも、引き下がったりはしない。いま、目の前で見た通りだ。

 海の男たちとのやりとりは、心がくじけた方が負けなのだ。


「ウィンドルンには戻れません、戻っている時間もありません。南の海を経由して、大南海に至れないかと考えているのですが」

 その、決して大きくはない声に店内に残っていた喧嘩の余熱が一気に引く。

 津波の前のような……恐ろしい何かを前にしてしん、と静まり返るほどに。

「……あー。あのな、ちょっとこっちに来な、”お嬢ちゃん”たち、特別招待するぜ」

 エクシャナスが放った冗談に、酒場が血の気を取り戻したみたいにどっと沸く。

 だが”アルメリカ”は、カウンターの奥へと案内するエクシャナスの背中にある種の厳粛さが生まれているのを見てとった。

        *

「こう見えてもオレぁな、昔、あんたみたいに無謀極まりない色男をここから送り出したことがあってな」

 エクシャナスは俺の部屋だと言いながら廊下の一番奥まったゴミ溜めのようなどん詰まりで振り返り、そう切り出した。

 今年の夏は妙に冷えやがる、と文句を言いながら調理用の小さな暖炉に火を入れる姿を見ていると彼が見かけよりも老年であることが知れた。

 椅子と呼ぶにはお粗末すぎる小ぶりな樽の上に“アルメリカ”だけが座り、あとの皆は立たされたままである。


「色男……と申されますと」

「元々海でも陸でも狂犬みたいな野郎だったが、南の海に乗り出していきやがってな。こりゃ死んだな、と確信したよ。でも、ああいうのを悪運に愛されてるってのかね、なんと戻ってきやがった。だがしばらくして会ったら今度は本当に頭がおかしくなっていやがった。仕舞にゃダチ公の姉貴に手ぇ出した挙句、海に突っ込んで行ったとさ。本当に哀れなもんだよ、昔は大層稼ぎまくってた一級船長だったのにな。こんなこと言うと不吉に思うかも知れんがあんたそいつの面差しにちょっと、似てやがるんだよ」


 それはどういうことなのか。サンガラ人の王子がこの辺り出身の船乗り……それもかなり破天荒な生き方をしていた人物に似ている、などということがあるのだろうか?

 "アルメリカ"は困惑するばかりだった。

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