2-11.雷鳴

 ウィンドルン銀行の特別金庫には、共和国の至宝が納められている。


 それは金や銀でも、世界最大の宝石でも、聖遺物の類でもない……端が少し焦げた、一枚の航海地図(ポルト=タブレ)。

 密かに《ナルディアス図》と呼ばれているそれには、赤道より下の世界が描かれている……描いてはいけない未完の《下半球》が。


 手元になくとも、ウィレム・スタイフェルの頭にはその航海地図のことなら傷一つに至るまで記憶されている。


 マーカリア共和国のある西方大陸の西の端を過ぎ、南方に広がる西南陸塊の大地の海岸線はさらに西へと続いている。船乗り達はその海岸線が尽きる果てを知っていた。

 そこは“帰らずの岬”と呼ばれ、その岬を回ろうとする命知らずは居なかった。

 ただ一人……アルヴァーロ・ナルディアスという生まれながらの海の申し子にして、親友の一人だった男を、除いて。


 元マーカリア交易公社の船長だったアルヴァーロは、文字通り海の一匹狼であった。

 航海に伴う様々な危険を回避するため各交易会社や商館は船団を組ませる。アルヴァーロは一番船足の遅い船に合わせるのをことのほか嫌った。

 そんな時、彼がよく使った手が嵐のドサクサに紛れて勝手に船団の航路を変えるというものだった。

 船長に継ぐ権限を持つ荷主代理人たちはアルヴァーロの船足を高く評価するものと、危険な航海法を訴え出るもので真っ二つに割れていた。

 当時、その非難をなだめる公社の事務方にはウィレムとグレンの若き姿もあった。アルヴァーロも自分が起こす苦情処理に奮闘する二人の親友には遠慮したと見え、やがて退社し単独の冒険商人になった。


 そんな彼がある時、嵐によって大幅に航路を外れた結果、帰らずの岬を越えた。それどころかそのまま南下し、“赤道境界の向こう、大地の尽きる所を見”、さらに“タルタデスの南の魔海に未知の東風が吹いている”のを見つけたと主張したのである。


 アルヴァーロは無邪気と爛漫さを隠すそぶりもなく、自分の“戦果”を二人の親友に嬉々として伝えた。

 だが、すでに国策に関わるようになっていたグレンはアルヴァーロに厳然と命じた……公表するな、と。


 もしも南回り航路が“可能”ならばそれはマーカリアを西方世界のくびきから開放する決定的なものになる。

 現行のテシス内海航路ではウィンドルンとマンドラ島のポルテ=サスラ航路は一カ月以上はかかる。

 だがアルヴァーロが見つけた風を使い、海竜にも襲われずに生きながらえたとすれば三週間で行けるのだ。

 強国の海軍や海賊ひしめく内海を通らずに大南海に至れるし、中央海峡通過に伴う莫大な通行税も無用になる。 

 その価値は、計り知れなかった。


 マーカリアが航路を確立し、タルタデスの好戦的な首長達から交易権を得るまで決して他国に知られてはならない、グレンはそう結論付けた。 


『お前達は、変わった。何故いつも眉間に皺を寄せるようになってしまったんだ? おれは、海の上で誰にも指図されるつもりはない!』


 グレンの態度に猛反発したアルヴァーロは少々事態を甘くみていたと言わざるを得ない。

 彼はマーカリアを見限ると、レグロナ帝国に探検航海計画を持ち込み、地図を献上するというあてつけでは済まない重大な裏切りを行おうとした。


 敵が嗅ぎつけるより速くグレンが謀略を巡らせ、ウィレムが実行した。

 まず、つまらない余罪によってアルヴァーロの船長資格を停止した。

 彼の船に乗っていた忠実な船乗りたちを買収し、あるいは風聞を流し、各地で干されるようにした。

 得体の知れない“力”によって全てを失い、舞い戻ったアルヴァーロは酒びたりになった。

 ナルディアス、という姓名自体も公社の権力によって徐々に世間から消されていった。

 孤立したアルヴァーロはやがて同情から急接近したグレンの最愛の姉エレア――“ウィンドルンの白百合”と称されるほどの絶世の美女だった――と関係を持ってしまった。


 怒り心頭に発し、決闘を宣言したグレンから逃げ出したアルヴァーロは盗んだ船で出港し、デストリウス海峡の沖合上で沿岸警備艇に追いつめられた。

 ついにマストの突端まで登ると、皆の制止も聞かず海に飛び込んだ。


 彼はただ、無我夢中でひどい現実から逃げたかっただけなのだ。

 そのまま浮かんで来られなかったのは……ただの計算外だったのだ。

 エレアの身のうちに、誰にも望まれる見込みのない息子を残したことも知らぬまま。

        *

 少し、時化ている。

 この海域のうねり波に揉まれるたびに死ぬまで思い出すのだろう……聖なる囚人号の船底に身を潜めたままのスタイフェルは、嘆息した。


 自分はあの日、警備艇上から愕然と見つめていた。しなやかに弧を描いて落ちていったアルヴァーロの勇姿と、いつまでも浮かんでこなかった海面の冷たい色とを。

 死ぬつもりではなかった者が死んでいくのは、いつだって哀しいことだ。

 船体を叩く波の音が、船倉で眠れぬまま座り込み、過去を噛みしめていたスタイフェルを攻め立てる。

 この酷薄な海の底には一体幾人が沈んでいるのだろう―――― 

「フェリク……いっそ、私もお前を追いかけようか……はは」

 腕の先の壷を抱き締め、スタイフェルは息子の名を呼んで再び冷たい涙を流し始めた。

 同じ海の上だ、同じ海域……同じ航路。息子は死んだ時、たったの二十歳だった。

(……シャロン君も、生きていれば同じくらいか……)


 シャロン・ナルディアス――マーカリアの海と、自分たちの軋轢が生み出した裏切りの子。


 父親の悲劇ののちに生まれ、そしてその母エレアが夜明けを待たずに死んだ恐ろしい夜のことも忘れ難い。


 産み落とされたばかりの赤子が寝かされたゆりかごを見下ろすフレイアス一族の、黒々とした背中が囁いていた……

 ああ、自然に死んでくれれば一番いいのに、と誰かが口にした。流石にそれは……孤児院の前に置いてくるしかない、と言い直す者もいた。

 だが皆、本心は同じ―――北海よりも冷たい。


 突如グレンが『帰れ』と親戚たちに怒鳴りだし、ハエを追い払うかのように叩き出し始めた時は、唯一の部外者として隅に控えていたスタイフェルも、さすがに身が強張ったものだ。

 憤然とした親戚たちが立ち去ってもグレンは殺気立って部屋の中を歩き回り、頭をかきむしっていた。

 赤ん坊が泣き出した。成り行き上、お守り役になって赤子をあやしていたスタイフェルは、ゆりかごに近づいてくるグレンに気がついた。

 一瞬……ほんの一瞬だけ、赤子を腕に抱いた腕を強張らせ、グレンに言い放ってしまった。

『どうする気だ、この子も、体よく外に放り出すつもりか?!』


 グレンの反応に、スタイフェルは仰天した。

 彼は目を逸らすと、壁に向かって泣き出したのだ。


 言いすぎたような気がして胸を重くしたスタイフェルは、友の名前を呼んだ。するとグレンは泣くのを止めて、スタイフェルに向き直った。

『姉上はアルヴァーロの愛情に同意していた。全てを承知していたのだ……だからこの子供には……望まれて生を受ける権利はあるのだ』

 約款を読み上げているかのように言う。

 そして、すまんといって赤ん坊を……彼の甥シャロンを受け取った。

 グレンの腕に初めて収まった赤ん坊は不思議とすぐに泣き止んでいた……


 その時、空を裂く轟音が船体を震わせ、スタイフェルの回想を叩き割った。落雷だ。

 マーカリア語でアルヴァは“雷”の意味である。

(私をこんな戯けた罠で引き留め、ここまで連れてきたのは君か? アル! ……当然だな、私たちが君にしたことを考えれば)


 急にむかっ腹が立ってきた。

 スタイフェルはハルが並べていった鉈と金槌のうち、金槌を左手に取った。この世での対価が分からないほど貴重な茶壷に向かって、振り下ろした。

 自分の頭がかち割られたのかと思うほど、小気味よい音がした。

 金槌を放り出し、ため息をつく。破片を拾い集めて袋に入れ腰のベルトにしっかりと結わえた。

 と……無意識下に否定し続けていたある思いつきが、首をもたげる。


 シャオ王子の端麗にして鋭利な輪郭が、例えば絵付けの下絵の線画のようにアルヴァーロの面影に……精悍で男前そのものだった貌にも重なる瞬間がある、など。


(……いい加減にしろ、本当にどうかしているぞ、私は!) 


 が、水平線上の雲にも似た予感がスタイフェルの胸から去ることはついに、無かった。

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