2-12.アガルスタの岸辺

 草木の乏しい黄色い大地の上を、岩場のような体皮をした巨大な剣歯象がゆったりと歩む。

 上に跨った子供たちが腕を振り、笑顔を浮かべている。


 停泊中の輝く海の女神号の舷側を吹き抜ける生暖かい熱波の中、退屈極まりなく生あくびをかみ殺していた”シャロン”は乙女らしく表情を作り直して手を振り返した。


 アガルスタ神王国……この国の、年中ぬるくて焦げた匂いのする大気には人のやる気や思考力をまどろませる何かが漂っている。


 内陸部は急峻な地形と密林に覆われたアガルスタだが、テシス内海沿岸部は総じて真っ平らな沙漠である。

 日干しレンガの掘っ建て小屋くらいしか存在しない、鄙びたという表現すら上品に過ぎる田舎臭い港に停泊した真白き帆船は、地元民たちには地平線に浮かぶ宮殿みたいに見えているだろう。現に、見物人がひっきりなしだ。

 ウィンドルン港を出て十日ほどが過ぎ、船はすでに中央海峡を目前にしたアガルスタ神王国の中央領域に到達している。


 レオノラ御一行様は先週船上で華やかに開催された”乙女の宵”のあと、定められた通りファーロベア公国の有産階級御用達の保養地で降りていった。 

 レオノラは最後まで“シャロン”に向かって千切れんばかりに手を振り続け、他の娘たちも別れを惜しんで涙ぐんでさえいた。

 皆、いい女友達になれただろう、今のアルメリカが本当の彼女であれば。


『杞憂だったようだな』

 世の中には船室に籠もっているのが良いという理由で船旅を好む男がたまにいるが、グレンはその典型だった。 

 普段ほとんど船室に引き篭もっている彼が珍しく出てきて、離れゆくファーロベアの岸辺を"シャロン"と並んで見送った。

『以前、私はウィレムにも言ったのだ。貴女は夜会の類は好かない、と』

『……楽しかったわ。乙女会の皆もいい子だし、夜会って出る前は気が重くても始まると楽しいものだと思うの。それにわたしが自由でいられるのも今のうち……でしょう?』

『……貴女が楽しかったのなら、それでよい』

 グレンはそれだけを言い残し、背を向けて離れていった。


(で……おれは結局、こんなところで何をやっているんだ……)

“シャロン”は少女でいることが死ぬほど嫌、というわけではない近頃の自分に戸惑っていた。

 なにせ体が軽いし、子供にかえったような心地がする。皆ちやほやしてくれるしヴェガはいいヤツだし、アルメリカの姿をどんどん可愛らしくしていくのも楽しい。


(……とはいえ、そろそろだらだらしてないで覚悟を決めないとならないよ、な)

 アガルスタの中央海峡を抜けてしまえば、あとは大南海。マンドラ島まで一直線だ。

 大南海に出る前にこの船を脱しよう、と薄々考え始めていた。

 陸路でもなんでもとにかくマーカリアに引き返し、なんとしてでも本物のアルメリカにこの身体を返す……

 アルメリカを守り、マンドラの残虐王を避けるにはそれしかない。

 グレンとヴェガは深く傷つくだろう。特にヴェガには何の恨みもないので申し訳ない気持ちがする。

 しかし、自分が乗り移った不完全なアルメリカをマンドラ島に至らせ、彼女の将来を台無しにするつもりは"シャロン"にはもう、なかった。


 ちょうどその時、もやい綱の横に渡された橋を渡って船に乗り込んでくるアガルスタ人たちの極彩色の衣装の鮮烈さが目に飛び込んできた。

 アガルスタ沿岸を通る外国船は「ヴァーミ」という船舶案内人を迎えねばならない。彼らはアガルスタの神官王に臣従しつつ独特の自治を行っている砂漠の遊牧民出身の祭司で、「海の魔を祓い、航海者を守るため」に祈りにくるのだ。

 もしも外国船がヴァーミの乗船と”礼金”の支払いを拒めば、彼らは直ちに神の化身である神王に上告する。すると神殿から神官兵が飛んできて神罰避けの莫大なお布施を強要されるか、拘束の憂き目に遭うことになる。

 なんとも面倒な慣習だが、大神王様の御威光が領海沿岸隅々まで行き渡っているお蔭で外国船籍は“地元”の海賊に滅多なことでは襲われないという利点もあるにはある。


「アルメリカ、あれ!」

 大きな木のように存在を主張することもなく横に佇んでいたヴェガにとっては、着飾った人間たちなどより大地を踏みしめる剣歯象の群れの方が心惹かれるらしい。

 炎の色に似た瞳を輝かせている。

 “シャロン”はそんなヴェガの身体にごく親しげに寄り添った。

「あれは剣歯象っていうの、タルタデスにも猛獣は居たんではなくて?」

「居た。でも、あんな大人しい、違う」

「怒るととっても強いのよ、あの剣歯で山猫や虎の首だって突き刺しちゃうんだから。ヴェガってこっちに来るのは初めてだったかしら?」

「テシス海、ここまで来たこと、ない」

「せっかくだもの、降りて近づいてみたいわね。あれはきっと象使いよ。おじ様に頼んでみるわ!」


 しかしグレンは許可しなかった。


「現在この付近に、ガーラ教の聖地から神像を盗んだ一味が逃げ込んでいるそうだ」

 エルド教、ジンハ教に並び、ガーラ教は世界でも有力な宗教の一つだ。

「アガルスタの神像ってそんなに簡単に奪えるものじゃない……と何かで聞いたのだけれど」

 ”シャロン“の記憶では、人間の倍ぐらいの大きさで彫られた怪物じみた石像だったと思う。

「現地情報では、先だってアルナム太守や神殿の不正に対する叛乱が起こり打ちこわしが起こっている。神殿は損失分を外国人から搾り取るのに益々躍起であるようだな」

「下手に留まると高くつくってわけね。じゃあせめて、ヴァーミが来る所を見たいわ」

 グレンは旅先でも相変わらず好奇心旺盛な養女の頼みをこれ以上は拒まなかった。

        *

 ヴァーミの男はアガルスタ人らしく濃い髭面で、緋色を基調とした極彩色の布で飾り建てた皮鎧に、絹布を巻いた鉄の槍と魔除けの鈴を掲げ持ち、黒いターバンの端を垂らして肩飾りのようにしながら来賓室にやってきた。

 船長室の椅子に座り窓を背にしているグレン、起立した船長と主計長、それに”シャロン“とヴェガたちに一礼する。

 グレン以下、”シャロン“たちもしきたりに則って御辞儀をすると、ヴァーミが朗々と口上を述べ始めた。

「もっとも高貴なる比類なき血の神王、イラヴァール=ルーラヴァル大神王のご友人、フレイアス卿よ! よくぞ参られた。それがしはヴァーミ頭のラルカンと申し候……」

 かつてグレンはマーカリア通商代表団の一員としてアガルスタの宮廷に赴き、神王の懐を握る辣腕大臣を相手に関税の見直しを巡ってあわや流血沙汰という線まで競り合ったことがあるらしい。

 王直下のヴァーミ頭がわざわざやってきてグレンを“歓迎”している様子から、アガルスタ側にとっても彼との一戦は甘美な思い出というわけではなかったようだ。


「座ったままでまことに失礼を。タルタデスでケモノ竜めにつきまとわれまして、面倒なので一本、無償でくれてやりました。土産は苦痛と命の恩人だけでしたな」

 こんなセリフを真顔でうそぶくグレンの神経が、まずどうかしている。

 鉄甲板が見えている彼の左脚をジロジロ見つめていたヴァーミは反射的に、自分同等かそれ以上の異彩を放っている”恩人“のタルタデス人を見やった。

 視線に気がついたヴェガも、雄々しい貌に嘲笑を浮かべ挑発し返してみせる。

 彼も結構、物好きだ。

 ヴァーミから王宮への招待があると告げられると、グレンは丁重な感謝の意を伝え、

「まことに身に余る光栄にございます。なれど此度の船旅は私の家族内の私的なものであり、加えて私はこの体です。我が不作法のせめてもの詫びの証に、国王陛下への贈り物に替えさせて頂きたく存じます」


(なんだ、座っていたのは面倒よけか)


 ”シャロン“は横目でグレンを睨んだ。具合が悪いのかと余計な心配をしてしまった。

「それは残念。我が王も、貴殿には贈り物を……アガルスタの神兵は絶対服従。死ね、と言われればその場で三秒以内に自分の喉をかっ切り、果てます。我が王はそうやって血の噴水を吹き上げさせ、外国の大使を“感嘆”させるのが近頃特にお好みで」

 くつくつと、ヴァーミが喉の奥でわらう。

 王がそんなことにハマっているとは、アガルスタの宮廷も相変わらず尋常ではない。

「動脈から血の吹き出る速度と圧力の関係に以前から個人的興味があるのですが、マーカリアでは人体実験というわけにもいかず難儀しております。本当に残念な事です」

 不謹慎極まりない応酬にアガルスタ人すらも閉口した。

 勝負は五分五分だったようだ。


 ラルカンが鈴を打ちならし、鉄の槍を振って船から悪霊を切り払っていく儀式を始めた。

 この後、ヴァーミは一泊だけ船で歓待されるのがならわしだ。実は、彼らの旨味はこちらが主眼なのだ。

 グレンが持たせた贈り物を運ぶ人足が滞りなく下船する。船はまもなく離岸した。


 次の寄港地、アルナムでは入港せずに補給だけを行い、そのまま出帆する予定……だった。

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