【轢かれた猫】

第1話 腕の中のぬくもり


 腕に抱えた布の塊が力弱く動くたびに、東堂とうどうかおるの心臓は忙しなく鼓動する。破裂しないのは腕にある命を預かっているという使命感があるからに過ぎない。


「もう少し、もう少しだから」


 息も絶え絶えに語りかけながらも駆ける足を止めることはしない。普段、酷使することがない心臓が悲鳴をあげようが、おろしたてのパンプスが肉に食い込み、かかとにじんわりとした痛みが走ろうが気にする余裕はなかった。

 記憶だけを頼りに人気のない往来を走っていると照明が消えた看板が目に入る。微かな月明かりを頼りに看板の文字を読めば、そこには〝よつば動物病院〟と記されていた。

 目的地についてほっとしたのも束の間、病院の扉を締めようとする女性の姿が見えて薫ははっとした。


「待って! お願いします! 入れてください!!」


 急いで駆け寄り、扉の取手を掴みながら叫んだ。

 柔らかな面差しの女性は申し訳なさそうに眉根を寄せ、薫を不思議そうに見つめる。


「すみません。本日の診療はもう終了していまして、薬などは明日取りに来て——」


 女性は言葉を切ると薫の腕の中、布の塊へと視線を落とした。実際に見せたほうが早いと判断して布をめくる。ぴょこっと飛び出た、尖った耳。瞼は硬く閉じられているが寝ているわけではないのは誰だって分かる。ふさふさの毛から顔色は分からないはずなのに痛みを耐えているのは容易に想像がついた。

 布の中から現れた猫を見た女性はきっと目尻をつりあげた。


「中に入ってください」


 急に鋭い雰囲気に代わり、言われるままに待合室に入る。戸惑いながら周囲を見渡していると女性は一言「今、先生に連絡します」と告げて駆けていった。

 待合室に残され、どうすればいいのか分からず、また座って待っているのも不安でうろうろと同じ場所を行き来する。その間にも、腕のぬくもりは力なく動いている。時折聞こえるかすれた鳴き声に、死を感じ取っていると「こっちです」という声が聞こえた。

 声の主を探すべく周囲を見渡せば、〝1〟と書かれた診察室の中から二十代半ばの青年が手を振っている。


「先生が来るまでこちらの用紙にお名前やご住所など記入をお願いします。その間、猫ちゃんは体重とお熱を測りたいのでお預かりします」


 入室し、青年に布ごと猫を受け渡すと薫は用紙を受け取った。自分の名前や住所、電話番号を一通り記入し、次はペット欄へ差し掛かったところでペンを止める。


「あの、私、この子の飼い主ではないんです」

「保護されたんですか?」


 そうだ、と肯定しようとした時、診察室の扉が開いた。


「これは酷い」


 灰色のスウェットに、白衣を纏った中年男性は後頭部を掻きながら呟いた。白衣を着ているので獣医師なのだと理解し、薫は頭を下げる。


「事故?」


 視線は猫に固定したまま、男性は問いかける。


「その、多分ですが……帰り道に見つけて」

「君……、あー」


 男性はちらりと記入用紙を盗み見た。


「東堂さんの猫ではないの?」

「はい。私の子でもないし、首輪も着けてないので野良猫かなって……」


 先生は鼻を鳴らすと青年を向き「浅野くん、どう?」と首を捻った。


「体温は7.1分。体重は4.28」


 青年——浅野は、猫から視線を逸らさず答えた。

 その体温が猫にとって高いのか低いのか分からず、薫は頭上で疑問符を浮かべる。人間でいうと人によっては微熱にあたる体温だ。


「うん、低いね。ぱっと見だけど車にでもぶつかったのかな。多分、骨が折れてるし、時間もだいぶ経ってそうだね」


 淡々と先生は真実を告げる。

 想像した通りの予測に、薫は固まった。道路の脇にうずくまっていたので車と接触したことは分かっていた。抱きかかえたら、だらりとありえない方向に垂れた足に、弱々しい姿、一見すると死んでいるかのような無惨な様。まさか、自分が通りかかる随分前に轢かれたなんて……。


「しばらく入院する必要があるかな。今、看護師さんが点滴の準備してくれているから、その間に貧血とか調べるために血液検査、骨と臓器の状態を確認するためにレントゲンとエコー見よっか。その状態によって手術日を決めよう」

「では、猫ちゃんは一旦お預かりするので、しばらくこちらの部屋でお待ち下さい」


 浅野が布ごと猫を抱きかかえ、男性と共に退室する。

 それと入れ替わるように先程の女性が一枚の紙とペンを持ってきた。


「お預かりする際の注意事項が書かれているのでお読みください。よろしければサインと内金として一万をお預かりいたします」


 薫は用紙を受け取ると記されている四項目すべてに目を通した。預かる内容とおおよその期間について、逃走及び死亡した際に責任は取れないことについて、内金について。

 全て読み終え、サイン欄にペン先を乗せたところで疑問を口にする。


「治療費って私が払うんですか?」

「規則でお願いしています」

「……手術費込みでいくらになりますか?」

「今、確認しますね」


 女性が退室し、すぐにスマホで銀行のアプリを開いた。口座に預けている残高を確認し、これからかかるであろう食費や生活費、保険を含む一カ月に最低でも要る金額を計算する。

 計算結果がでたところで女性が戻ってきた。


「手術の内容と入院日数で金額は代わりますが、一週間の入院だと二十から三十万程度あれば大丈夫かと。退院してもしばらくは通院して貰う必要があります」

「三十万……」


 それは痛い出費だ。万年金欠の自分には即決できる額ではない。身内に借りようにも両親と祖父母は亡くなっているし、友達と金銭のやりとりは避けたい。両親らの遺産も税金を支払い残ったのは雀の涙ほど。

 その雀の涙で支払うことはできるが、そうすれば薫は生活ができない。悩ましげに眉を寄せると女性が心配そうな視線を送ってきた。


「お支払いは現金一括かカードなら分割もできます」


 こんなことならクレジットカードを作っておけばと後悔する。今作ろうとしても、薫はフリーターどころか就職先も決まってない無職。きっと審査で落とされる。


「……現金で。支払い日までに用意します」


 日雇いバイトをいくつかこなせば用意はできるはずだ。友達が働いているスナックは人手不足だと聞いている。就職活動は一旦中止し、資金繰りを優先しよう、と考え、承諾書にサインした。


「承知いたしました。では、先生を呼んできますね」


 承諾書を抱き抱えた女性はそう言い残すと扉の奥へと消えた。

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