4-猿の手

「――息子さんが交通事故に遭い、亡くなりました」


 急いで上司に事情を話し、仕事を切り上げて警察署に向かった。

 太田が警察署に着きロビーに入ると、先に来ていた実咲が俯いた状態で座っていた。


「実咲……!」


 もう説明を受けた後なのか、酷くやつれた顔で通路の奥を指差した。


美咲に泣いていた様子はなく、目に涙は出ていなかった。


 受付に詳しい場所を聞き、妻の指差した通路を進んでいくと警察官が立っていた。その警察官に小さな部屋に連れて行かれる。


「息子さんは交通事故に遭い、亡くなられました。交差点を渡る際、信号無視をした軽トラックにはねられたようです。軽トラックはその場から逃走。およそ七〇〇メートル先の赤信号を無視し、通過する車を避けようとハンドルを切った結果、歩道に乗り上げて電柱に衝突。車は大破し、運転していた四七歳の男、木嶋豊(きじまゆたか)は死亡。これが今のところ分かっている情報です」


 結果、太田は一人息子と引き換えに、三百万という保険金を手にすることができた。


 息子が死に、息子を殺した犯人も死んだ。


 一体この悲しみを誰にぶつければいいのだろうか。


 詳しい説明を受け、帰宅した時には夜になっていた。

 二人はリビングのソファに腰掛け、途方にくれる。


 咲登と最後に会話した内容はなんだっただろう。

 今朝は太田が先に家を出た。昨日のフリーマーケットは一緒に行っていない。


 一体いつから会話を交わしていないのか思い出すこともできない。


 ――頭に浮かぶのは、息子の不機嫌な顔ばかりだった。



 気がつくと日付は変わっていて、空も明るくなっていた。


 妻もソファで眠っていたようで太田が起きた気配を感じ取ったのか目を覚ました。時間を確認すると十時を回っていた。


 ――遅刻だ。


 このままでは会社に遅れてしまう。クビになったら借金どころの話ではない。


 太田はいつものスーツに着替えながら、今から弁当を入れようとする実咲を止める。


「お弁当は今日はもういいよ。お昼ご飯は我慢する。そんなことより、咲登を起こさないと!」


 その一言で、二人は現実に引き戻された。


 太田の手からスーツのジャケットが落ち、実咲は崩れ落ちる。

 昨日は直面しなかった現実。目を背けていた現実が二人を襲った。


 その日、二人は初めて息子の死に対して悲しみの涙を流した。


 安月給で借金を抱え、それでも太田が幸せだったのは妻と息子がいたからだった。たとえ会話がなかろうとも、息子がいる。ただそれだけで明日も頑張ろうと思えた。

 息子が帰ってきてくれれば。借金なんて返せなくとも、どれだけ仕事が大変だろうとも、頑張れる。

 この願いは、叶わないのだろうか。


「――この手に願い事をすれば三つだけ願いが叶うらしいんですよ」


 怪しい店主の声が、耳に蘇る。


 寝室のクローゼットに隠しておいた木箱から猿の手を取り出した。


 今思えば、一昨日願ったのは『三百万が欲しい』だった。

 息子を失ったとはいえ現実に太田は三百万もの大金を手に入れたのだ。


 ――あの怪しい店主が言っていた噂は本物かもしれない。


 お金が欲しいという願いは形は異形なれど叶った。叶ってしまった。


 きっと、願い方が悪かったんだろう。三百万が落ちているとすれば、警察に届けなければいけない。

 宝くじなんてものは買ってもいない。

 確実にきっちり三百万が手に入るのは、保険金以外に思いつかない。


 願い方を変えればもしかすると、いや、絶対にこの猿の手なら、叶えてくれる。


 三百万を願った時の代償は息子の死だった。

 人を生き返らせるとなると、さらに大きな代償を払うことになるかもしれない。それでも太田は願うしかなかった。


 そして太田は泣き疲れて眠る妻の横で、もう一度、猿の手に願った。



 ――妻も自分も殺さず、息子を生き返らせて欲しい……と。



 その夜、警察から『息子が生き返った』という連絡が来るのを携帯電話を片手にリビングに置いてある固定電話の前で待っていると、玄関の扉がノックされる音が聞こえた。


 時刻はもう二十三時を回っていたが、警察が来たのかもしれない。

 彼は扉の覗き穴から外を確認した。


 レンズの先には肌が焼けているのか、皮膚がただれた男なのか女なのかも判別できない人間が立っていた。


 あの状態で動いているモノを人間と表現していいのだろうか。太田は恐怖で扉から急いで離れた。慌てて後ろに下がったものだから、段差に足を引っ掛けて尻餅をついた。


 ふと、ノックの音以外にも音がするのに気がつく。


 その音は扉の向こう側から聞こえていた。しかしよく聞き取れない。

 気がつくと太田は、音に引き寄せられるように扉に耳を当てていた。


「……と…………ん……」


 その音はよく聞くと声のようなものだった。

 しかし、微かな音で、ノックの音にそのほとんどがかき消されてしまい聞き取りづらい。扉に当てた耳とは反対の耳を手で塞ぎ目をつむって声を聞く。


 太田はどうしてか聞き取らないといけないと思った。


「お……とう……さん………おか……さ……ん」


 耳を凝らして声を聞き取った彼は、寝室に走り涙を流しながら猿の手に願った。


「私は妻と息子と、もう一度一緒に居たかっただけなんだ。違うんだ、そうじゃないんだ。全て自分が悪かったから。もう許してくれ、息子を帰してやってくれ。私と美咲と咲登と、三人で幸せになりたかっただけなんだ」

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