2話
ほどなく大学がはじまった。
講義中も携帯の着用が許可されているので、膝の上にアオを座らせていた。私がレンズで見たものやイヤホンで聞いたものはアオが記録してくれた。後から映像で見直すことができるので、ノートを取らなくても平気だった。
便利なものだ、と私はアオの背中を仮想的になでた。
大学ではホームルームもなく、教授が質問してくることも少ない。学園祭のようなイベントも有志だけの参加のようで、毎日を一人で気楽に過ごすことができた。
だがそんな穏やかな日々は長く続かなかった。
「今日はどこへ遊びに行く?」
講義が終わると、クラスメイトの声が聞こえる。いつの間にか仲の良いもの同士のグループが形成されていた。誰もが笑顔を浮かべており、大学生活を心から楽しんでいるように見えた。
思わず目をそらすと、窓ガラスに自分の顔が反射していた。そこには暗い表情をした一人の女の子が映っていた。
気分を変えようと、いつもと違う道で家へ帰ることにした。大通りを避けて歩くと、人気のない公園が見えた。
「実家の近くにある公園にそっくり……」
私は近くにあった自動販売機で温かい紅茶を買い、ブランコに座った。
紅茶を一口飲むと、気分が少しだけ軽くなったような気がした。体を前後に動かすと、ブランコがゆっくりと動き出した。懐かしい感覚だ。
これまで学校では孤独だったが、家に帰ると家族がいた。だが今は常に孤独であり、待っているのは暗くて寒い部屋だ。
「咲さん、もうすぐ日没です」
アオが言った。そういえば一人ではなかったか。私は仮想上の猫と公園を後にした。
部屋の前で鞄から鍵を探していると、隣の部屋のドアが開いた。
他の住人とは顔を合わせないようにしていたが、このタイミングでは隠れることができなかった。部屋から出てきたのは同年代の男の子だった。
「どうも」
彼は小さく頭を下げて言った。私は軽く会釈し、再び鍵を捜索した。焦っているからか、鍵が見つからない。
「あれ――君、同じ学科の子だよね。僕は
彼の顔を見ると、たしかに見覚えがあった。
「なんとなく」
久しぶりに誰かと会話したため、声が裏返りそうになった。ようやく鍵を見つけることができ、ドアを開けた。
「私は用事があるので」
「じゃあまた学校で」
私は会話を断ち切り、部屋に滑り込んだ。そして、彼の足音が遠ざかるのを待ち、ドアに鍵をかけた。
大きく息をはくと、アオが私の足元で首をかしげていた。
次の日、教室に入ると男子のグループに結城の姿を見つけた。一瞬目が合うと、彼は軽く手を挙げた。私は思わず顔をそむけた。
その様子に気づいた別の男子が冷やかした。
「結城のやつ、入学早々フラレたみたいだ」
「違うって」
昨日たまたま外で会ったから挨拶しただけ、と彼は答えた。しばらくその話題で盛り上がっていたため、私は目を閉じ、耳をふさいだ。私と彼らは住む世界が異なり、交わることはないのだ。
そのとき、アオの優しい声が私の耳に響く。
「咲さん、不快なものがあれば私に教えてください」
そうだ。私は一人で強く生きると決めた。このような不要なものはブロックしてしまえばいい。
「アオ、クラスメイト全員をブロックして」
「承知しました」
瞬間、教室の中に誰もいなくなり、物音一つ聞こえなくなった。私の心に小さな針が刺さった気がした。ゆっくりと深呼吸すると、その痛みはなくなった。
講義がはじまると、教室には教授と私と仮想上の猫だけが存在していた。教授があるクラスメイトへ質問すると、その子だけが見えるようになった。質問に答えると、再び見えなくなった。
「現在のフィルタリングレベルでは、咲さんに必要な情報がある場合、フィルタの一部を解除します」
よくできてる、と私は感心した。
クラスメイトが存在しなくなり、私の生活に再び平穏が訪れた。ただし、結城とだけはマンションで鉢合わせることがあった。
彼は私を見ると必ず話しかけてくるため、フィルタが解除されてしまう。会わないように注意したいのだが、同じ講義を受けていることもあり、行き帰りの時間が同じになってしまっている。
「あの講義は難しすぎると思わない?」
「そうね」
私は最低限の相槌をうち、そそくさとその場を去った。私はいつも冷たい表情をしているので、これまで話し相手を不快にさせることが多かった。
だが彼はいつも笑顔で私に話しかけてきた。
しばらくすると、彼を見かけなくなった。バイトやサークルなどで行き帰りの時間がずれたのかもしれない。
いや違う。私と関わるのを止めたのだ。
休日の昼、部屋で寝転がっていると、結城の部屋から小さな話し声が聞こえた。ブロックしているはずなのに、と私は不思議に思った。
耳をすますと、結城ではない男子の声だった。クラスメイトでない友達なのだろう。
アオの力により結城の声は聞こえないが、友達の声のトーンから彼らが楽しんでいる様子が分かった。隣の部屋からの声をすべてブロックして、とアオへ頼んだ。
ようやく静かになったので、目を閉じて眠ろうとした。だが聞こえないはずの楽しそうな会話が頭の中に響いてきた。私は眠るのをあきらめ、家を出た。
大通りは平日よりにぎわっており、たくさんの人が私を通り過ぎていった。友達とふざける子供たち、笑顔で語り合う若い男女、手を取り合って歩く老夫婦――休日らしい温かな光景だ。
私は彼らから目をそらした。この温かな世界で、どうして私はこんなにも凍えているのだろう。
「もし世界から全ての人を消したら楽になるのかな」
私はぽつりとつぶやいた。するとアオが答えた。
「承知しました」
「――え?」
大通りを歩いていた人は、忽然と姿を消した。車道には車が走っているが、運転席に人の姿はない。
呆然としていると、足元にいる仮想上の猫が小さな鳴き声を上げた。
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