我が友は仮想世界の猫である

篠也マシン

1話

 私は幼いころから引っ込み思案で、友達を作ることができなかった。はじめて友達と呼べる存在ができたのは中学生のときだった。


さきちゃん、一緒に帰ろう」


 放課後、彼女から呼びかけられるのが嬉しく、わざとゆっくりと帰り支度をすることもあった。


 ある日の授業中、私は先生に教科書を読むように言われた。いつも出席番号順であてられるのだが、この日は順不同だった。私は心の準備ができておらず、いつも以上に緊張してしまった。

 ぼそぼそと小声で教科書を読んでいると、あるクラスメイトが言った。


「先生、聞こえません」


 その声がきっかけとなり、教室にクスクスと笑いが起きた。私はとても恥ずかしくなり、それ以上読み続けることができなくなった。


「次はもう少し大きな声で読むように」


 先生は別のクラスメイトへ続きを読むように指示した。教室を見渡すと、友達の女の子が笑っている顔が見えた。

 瞬間、私の心は氷のように冷えていった。


 きっと私が彼女の立場だったら、同じように笑ってしまっただろう。だが私の感情は行き場をなくし、彼女と疎遠になっていった。そもそも私のような人間が友達を作ったのが間違いだったのだ。

 もう誰かに傷つけられるのは嫌だ。一人で強く生きると心に決めた。


 高校生になると、自ら強固な壁を築き、他人を寄せつけないようにした。クラスメイトからは、クールで群れるのが嫌いな女の子と思われていた。

 友達は一人もできなかったが、誰かに傷つけられることはなかった。


 大学は故郷から遠く離れた場所を選んだ。家族とは良好な関係だったが、いつまでも頼るわけにはいかない。この先一人で生きていくため、学生のうちに一人暮らしに慣れておきたかったのだ。

 幸い勉強する時間は腐るほどあったので、希望の大学へ進学できた。


 新しい住処は、学生向けの小さなマンションにした。家族に手伝ってもらい、引っ越しを終えた。


「何かあったら遠慮なく帰っておいで」


 母の去り際の言葉に、私は小さくうなずいた。

 小さな部屋に一人残されると、世界には私以外の人間が存在しないように感じた。私は息苦しくなり、家を飛び出した。

 街には多くの人間が存在していたが、彼らは私に気づかずに通り過ぎていく。そこには私と関係のない人しか存在せず、私が孤独であることには変わりなかった。


 陰鬱な気持ちで街を歩いていると、携帯ショップの前を通りかかった。ずっと古い機種を使っていたので、そろそろ買い替えが必要なことを思い出した。


「いらっしゃいませ、何をお探しですか?」


 店員の明るい声が私を迎えた。

 私は口ごもりながら、機種変更したいと伝えた。私が持つスマートフォンを見せると店員は驚いた。もう物理的なディスプレイを持つ機種を使っている人はいないそうだ。


「今は聴覚用のイヤホン型デバイスと、視覚用のレンズ型デバイスの二つを組み合わせたものが主流です」


 そういえば、最近学校や街でスマートフォンを使っている人を見たことがない。両親も私と同じ機種を使用していたので、我が家だけ時代から取り残されていたらしい。


「レンズ型デバイスは、メガネとコンタクトレンズの二種類から選べます。邪魔にならないコンタクトレンズが人気ですね」

「使い方は難しいんですか?」

「いえ、とても簡単です。AIアシスタントが全て案内してくれますよ」


 店員はニコリと笑った。

 店頭には様々な機種が並んでいたが、どれが良いか判断できなかった。ふと一番端に置かれた機種に目を惹かれた。黒色のつるりとした質感のイヤホンとコンタクトレンズの組み合わせで、価格は他より随分と安い。


「この機種はなんでこんなに安いんですか?」

「大手でないメーカーが作った機種でして、売れ残ってるものなんです。それにメーカーの方が言うには、AIがおかしな学習をすることがあるようで――」


 おかしな学習? 私が眉をひそめると、店員は慌てる。


「もちろん、何か問題あるわけではありません。安心してお使いになれますよ」


 安さの誘惑に負け、名も知らないメーカーの機種を買った。

 家に戻ると、早速新しい携帯を取り出した。私は黒色のイヤホンを両耳につけ、コンタクトレンズを装着した。コンタクトレンズは常時装着していて良いらしい。イヤホンに内蔵されたマイクに話しかけると、デバイスが起動した。


「AIアシスタントの設定を開始します」


 目の前の何もない空間に案内メッセージが表示された。視界のすべてがディスプレイの代わりになっており、操作は音声や手の動きで行えるようだ。

 なるほど、物理的なディスプレイを持つ機種が廃れるわけだ。


 AIには独自のアバターを設定できるようだ。いつか飼いたいと思っていた猫を選んだ。短い灰色の毛並みに青い瞳が特徴で、アオと名づけた。

 すると一匹の猫が部屋に現れた。レンズを通した仮想空間上の存在だが、目に前にいるように見えた。


「あなたのことはなんとお呼びすればよいですか?」

「咲と呼んで」

「咲さんですね。承知しました。これから咲さんが快適な毎日を過ごせるようにお手伝いします」


 私はアオの案内に従って初期設定を進めた。音声や手の動きでの操作にも少しずつ慣れてきた。


「自動フィルタリングを行いますか?」


 何の機能だろう。アオに聞くと、仮想上の猫は私の膝の上に座った。重さは感じない。


「自動フィルタリングとは、咲さんの聞こえる音や見えたものを自動的にブロックする機能です」


 アオが使用例をあげる。

 工事現場の騒音を聞こえなくしたり、街に溢れる興味のない広告を見えなくすることができるようだ。

 そのとき、隣の部屋から大きな物音が聞こえた。隣は空き部屋だったが、引っ越しをしているらしい。私はフィルタリング機能を使ってみることにした。


「自動フィルタリングを有効にしました。不快なものがあれば私に教えてください」

「隣の部屋の物音をブロックして」


 アオはこくりとうなずく。


「承知しました」


 すると物音がスッと聞こえなくなった。イヤホンを外すと物音は変わらず聞こえる。

「すごい」と私がつぶやくと、アオは嬉しそうにのどを鳴らした。

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