第6話 初恋は海辺の街で

海辺の街で僕らは待ち合わせをした。

君とは初恋だった。僕が君に抱いていたのは、恋というより憧れに近い感情だったかもしれない。でもそれは恋にも似ていたし、愛でもあった。僕は君を愛していたよ。君はどうだった? 今となってはもうわからないけれど、少なくともあの頃の僕は君を心から信頼していたし、尊敬もしていた。僕の人生を照らす光だと思っていた。

君と過ごした日々のことを思いだすたびに胸の奥が痛くなる。あれほど幸せな時間はなかったと断言できる。君にとってもそうであればいいと思う。いや、そうであってほしい。

君との出会いについて話す前に、まず僕自身のことを話しておきたい。

僕は子供の頃からずっと身体が弱くてね。しょっちゅう熱を出して寝込んでいた。学校なんてろくに通った記憶がない。勉強は家庭教師が教えてくれたけど、友達と呼べる相手はいなかったな。両親は一人息子の僕を心配してくれていたんだろうけど、正直言ってあまり構われすぎるのも鬱陶しいものでさ。だからひとりで過ごす時間は多かった。

そんなわけで、子供のころの記憶にはいつもひとりぼっちのイメージがある。家の中か庭にいることが多かったかな。本を読んだり絵を描いたりしていることが多かった気がする。両親が買ってくれた絵本なんかもあったはずだけど、よく覚えていない。両親とも忙しかったみたいだし、家の中に誰かがいるってこと自体が珍しいことだったんだよ。

ああ、そうだ。思い出した。一度だけ両親に連れられて旅行に行ったことがある。行き先はよく覚えていないんだけど、海沿いの街だったことは確かだ。うん、あの頃はまだ元気だった祖父ちゃんの家に遊びに行って、そのまま泊まりになったんだったかな。

その日はとても暑い夏の夜で、扇風機の風に吹かれながら縁側に腰かけて涼んでいたことははっきりと憶えている。そして――。

「こんなところで何やってるの?」

突然声をかけられて驚いた。誰もいないと思って油断していたところへ不意打ちを食らった感じでさ。思わず飛び上がってしまったよ。振り返るとそこには女の子がいた。年は同じくらいだろう。おかっぱ頭がよく似合う可愛らしい子だった。

その子は不思議そうな顔をしてこっちを見つめていて、僕は返事をするタイミングを完全に逸してしまった。何か言わないと変に思われてしまう。慌てて口を開いた。

「お月見」

我ながら間抜けな答えだと思う。でも他に言いようがなかったんだよね。すると彼女は少し笑って言った。

「あたしも一緒に座ってもいい?」

断る理由もなかったし、断る気もしなかった。ただ、急に隣に座られると緊張してしまう。落ち着かない気分のまま黙っていると、彼女は勝手に横座りをして空を仰いだ。それからぽつりと言った。

「綺麗なお月様ね」

彼女の言う通り満月だった。雲ひとつない空に浮かんでいる丸い光を見ると、なんだか不思議な気持ちになる。自分が世界に受け入れられているような安心感があった。同時に、自分は世界の一部なのだという実感が湧いた。

いつの間にか彼女と言葉を交わすようになっていた。きっかけは彼女が僕と同じようにひとりでいるところを見かけたことだと聞いている。

「ねえ、どうしてひとりでここにいるの?」

僕は素直に答えることができなかった。両親のことや病弱なことを話すのは恥ずかしかったし、子供っぽいと思われるのも嫌だったからだ。それに本当のことを言えばきっと心配をかけてしまう。僕にとっては両親よりも祖父母の方が身近な存在で、彼らにとっての孫である僕の存在は家族と同じくらい大切なものだったから。

「内緒」

そう言ってごまかすと、彼女もそれ以上は何も訊かなかった。その代わり、

「また会えるといいね」

と笑った。僕は嬉しくなって大きくうなずき返した。それを見た彼女は目を細めて微笑むと、「じゃあね」と言って駆けていってしまった。それが彼女と交わした最後の会話だ。それ以来、僕は彼女を一度も見かけることはなかった。

君と出会った翌日、僕は熱を出した。いつものように身体が重くて頭が痛くて、咳も出始めた。ベッドの上で苦しんでいて、ふと思い浮かべたのは昨日の彼女のことだった。もしあの子が見舞いに来てくれたら嬉しいのにと思った。

ところが昼を過ぎても両親は帰って来なかった。結局、夕食を食べ終えた頃にようやく帰宅したのだけれど、その時はもうすっかり疲れ果ててしまっていて、すぐに眠りに落ちてしまった。目が覚めた時はすでに深夜になっていた。

喉が渇いていたので水を飲もうとしてキッチンへ向かった。冷蔵庫を開けると、そこには朝食用のパンやジュースが入っていて、ラップに包まれた皿の上にメモ用紙が置いてあった。

『お父さんとお母さんはこれから大事な用事があるから出かけます』

それだけ書いてある。どういう意味なのかわからなかったけど、特に気にすることなく部屋に戻った。そのあとすぐ眠くなってきたので、もう一度寝ることにした。

次の朝、起きた時にはすでに両親は出掛けた後だった。いつもなら僕が起きるまで傍にいるのに、今日はやけに早い。不思議に思ったものの、あまり深く考えずに学校へ行く支度をした。着替えを終えて居間に顔を出すと、テーブルの上に紙が一枚置かれていた。

『おじいちゃんが亡くなったのでお葬式に行きます。帰りは夕方になります。お腹空いたら自分で作って食べて下さい。お留守番よろしくお願いします。パパより』

どうやら祖父は亡くなったようだ。まだ信じられない気持ちだったけど、いつまでもぼんやりしているわけにはいかない。とりあえず学校に行かなければと思って玄関に向かったところで、靴箱の上に置いてある写真立てに気づいた。そこに写っていたのは祖父と両親だった。祖父は車椅子に乗って楽しげに笑い、母はその横で優しく微笑んでいた。

そうだ。祖父が死んだということは、つまり両親が僕の面倒を見なければならないということになるじゃないか。僕は初めてそのことに気づいた。そして自分の迂闊さを呪った。なぜもっと早く気づかなかったのかと自分を責め続けた。でも今さら悔やんだって遅いんだ。両親に頼ることができない以上、僕自身が何とかしなければならない。まず真っ先に思いついたのは、両親の帰りを待つこと。だがそれは諦めざるを得なかった。なぜなら祖父の葬式に行ったはずの二人が、予定を変更して帰ってくるとは思えなかったからだ。

そこで次に考えたのは近所の人の助けを借りることだった。幸いなことに僕は近所では評判の子供だったらしい。皆快く助けてくれるだろう。でも問題はその後だ。ずっと世話になることはできない。いずれは自立していかなければいけないんだ。でも僕はまだ子供だしお金もない。だからといってこのまま両親の庇護を受け続けるなんてことは絶対にできない。何しろ彼らは親なのだから。子供の面倒をみる義務があるんだ。

そう考えると何もかも嫌になった。僕は本当にひとりぼっちになってしまったんだと思うと涙が出てきた。そして同時にこうも思う。どうして祖父だけが死んでしまったのか。他の親戚たちはどこへ行ったのだろうか。そんなことを考えているうちに、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまって、気がつくと家を出て走り始めていた。行くあてなんかどこにもなかったはずなのに。

気がつけば僕は海にいた。波打ち際に立って、寄せてくる白い泡を見つめている。ここは静かでいい場所だなと思った。少なくともここならば誰もいない。僕はひとりきりなんだ。少しほっとしたような気持ちになっている自分がいた。

それからしばらく砂浜に座っていると、遠くの方で声が聞こえてきた。僕は立ち上がって、ゆっくりと歩いていく。やがて前方に誰かの姿が見えてきた。それは昨日出会った女の子だった。彼女はこっちに気づくと驚いた顔をした。

「あなた、どうしてここに?」

「……わからない」

「えっ? それじゃあ、どうやってここまで来たの?」

「…………」

僕は答えられなかった。そもそも自分だって何故この場所に来たのかよくわかっていないのだ。黙っていると彼女は言った。

「もしかして迷子なの?」

「ちがう」

「じゃあ、なんでこんなところにいるのよ?」

「……」

僕は俯いて口を閉ざした。すると彼女が言う。

「ねえ、よかったら一緒に帰らない?」

その言葉を聞いて顔を上げた。彼女と視線が合う。僕は戸惑った。だけど彼女は微笑んで手を差し出してきた。まるで僕の心を読んだみたいに。

僕は彼女の手に自分の手を伸ばした。

それからしばらくの間、僕と彼女のふたりだけの時間が続いた。彼女はいつも笑顔を浮かべていて、何をするにも一緒だった。学校が終わると、すぐに彼女の家へと遊びに行くようになった。そこには祖父母がいたけれど、彼らのことも好きになれた。そして夜になると、彼女の部屋で眠ることが習慣となった。

ある日、ベッドの中で眠っていると、ふいに目が覚めた。窓の外を見ると真っ暗で、まだ真夜中だということはすぐにわかった。再び目を閉じて眠りにつくつもりだったけど、なかなか眠れない。何度か寝返りを打っているうちにあることに気がついた。

隣で寝ていたはずの彼女がいないのだ。不思議に思って起き上がり部屋の隅々まで探したが見当たらない。もしかするとトイレにでも行ったのかもしれないと思い、じっとして待ってみたが戻ってくる気配はなかった。僕は不安になった。この広い家にたった一人取り残されてしまったのではないかと考えると怖くてたまらなくなった。

いてもたってもいられなくなって、急いで服を着ると外へ飛び出していった。だがすぐに思い直すことになる。外は真っ暗闇だ。とてもじゃないが歩くことすらままならない。それでもどうにかして彼女を見つけ出そうと思った。

僕は玄関の鍵を開けて外に出ようとした。ところが扉は開かない。鍵をかけた覚えはないのに。不思議に思っていると背後から人の足音が聞こえてきた。振り向くと、そこには見知らぬ男が立っていた。彼はこちらに向かって話しかける。

「君、こんな時間にどこへ行くつもりだい?」

突然の出来事だったので、うまく返事ができない。男は続けて言った。

「早く戻りなさい。お父さんやお母さんが心配しているぞ」

その言葉で、彼が自分の父親だということがわかった。僕は戸惑いながらも答える。

「あの、ぼくは友達を探しに行きたいんです。どうしてもその子に会いたくて……」

父は僕の話を聞くと難しい表情になった。

「駄目だよ。もう遅いんだから明日にしようね。さあ、早く戻るんだ。家の中まで送ってあげるから」

そう言って父が歩き出したので、僕は慌ててついていくことにした。

家に戻る途中、僕は父に尋ねた。

「おじいさんはどうしたの?」

「……死んだんだよ」

父の口調はとても重たかった。僕はそれ以上何も聞けなかった。

玄関の前に着くと、父と別れることになった。「おやすみ」と言ってから、ゆっくりとドアノブに手をかける。そして回そうとした瞬間、何かが引っかかるような感触があった。見るとそこに鍵穴がある。僕は驚いて後ろを振り向いた。すると父が笑みを浮かべながら近づいてきた。

「ほら、やっぱりここにいたじゃないか」

そう言いながら父はポケットから小さな鍵を取り出した。そしてそれを鍵穴に差し込む。カチャリという音とともに、ドアが開いた。

「どうしてここの鍵を持ってるの?」

僕は驚きのあまり質問した。すると父が答えてくれる。

「おじいちゃんが亡くなる前にくれたんだ。もし私がいなくなったら、お前がこれを使ってくれってな。でもまさか本当に使う日が来るとは思わなかったよ」

父は懐かしそうな目をしながら部屋の中に入っていく。僕はその後をついていきながら聞いた。

「それで、どこにいるの? その子は」

「ああ、こっちだ」

父の後についていくと、そこは祖父の寝室だった。ベッドには誰もいない。もしかしたら夢だったのだろうかと思っていると、ふいに枕の下が光ったような気がした。僕はそこに近づくと、恐る恐る手を伸ばしてみる。すると指先に硬いものが触れた。それを取り出すと、それは一枚の写真だった。写真の中には幼い僕と女の子が写っていた。僕は彼女に見覚えがなかったけれど、彼女は僕を知っているようだった。彼女は笑顔を浮かべている。僕も笑っていて、そこには幸せだった頃の思い出があるように感じられた。

「それじゃあ、私は行くとするかな」

父が言った。僕は振り返って尋ねる。

「行くって、どこへ?」

「もちろん、あの部屋だよ」

「あそこって?」

「祖父さんの部屋さ。ずっと掃除していなかったんだけど、今朝になって急に綺麗になっていたんだ。きっと誰かが片づけてくれたんだろう。だから、もう一度行ってみることにしたんだ。君も来るかい?」

僕は黙ってうなずいた。そして二人で部屋へと向かう。

扉を開けると、そこには大きな機械が置かれていて、部屋全体を照らしていた。その光景を見て、父が言った。

「あれはね、祖父の発明品なんだ。まだ小さかった私にも使い方を教えてくれて、よく遊ばせてもらったものだよ」

「どんなことができるの?」

「そうだな……。例えば、このボタンを押すと……」

父はそう言うと、おもむろに機械を操作した。すると天井から何かが落ちてきた。

「わっ!」

思わず声を上げる。落ちてきたものは人間の頭だったのだ。それはゆっくりと地面に着地すると、こちらを見上げてくる。

「やあ、こんにちは」

そう挨拶してきたので、僕も同じように返した。

「こ、こんにちは」

「驚かせちゃってごめんね。だけど大丈夫。これはただの人形で、中には何も入っていないんだ」

父はそう説明しながら、再びボタンを押した。すると今度はロボットのような姿の物が降りてきて、僕の目の前に立った。

「こいつは人型自動清掃機っていうもので、床に落ちたものを全て拾ってくれるんだ。ほら見てごらん。全部集めてくれるから」

父がそう言うと、まるで生きているかのように動き出した。僕はその様子を興味深く観察していた。

「すごいや。これなら部屋の隅々まできれいになるだろうね」

「ああ。祖父はこの技術を使って、たくさんの会社に勤めることができたんだよ」

父は誇らしげに言った。

「おじいさんは発明家だったんだ」

「うん。それにとても優しい人だった」

「……ねえ、お父さん」

「なんだい?」

「おじいさんはどうして死んじゃったの?」

「病気だよ。癌だ」

「そっか……」

僕は悲しくなった。どうしてそんなことを聞いてしまったんだろうと後悔した。

「すまないね。嫌なことを思い出しさせてしまったようだ」

「いいよ別に」

僕は気を取り直して、室内を眺めてみた。

部屋の中央にはテーブルがあり、その上には小さな機械が置かれていた。その隣にはノートやペン、それから紙の束が置かれている。どうやら日記帳らしい。その横には、少し大きめの箱のようなものがあった。大きさは縦四十センチくらいで、横幅は三十センチほどある。側面には取っ手がついており、どうやら開けられるようになっているようだった。

「あの箱は何?」

僕は不思議に思って尋ねた。

「祖父の遺品さ。鍵がかかっていて開かないんだよ。でも、きっと中には何かが入っているはずだ」

「……大切な物なのかな?」

「さあ、どうかな。おじいさんはあまり自分のことを話してくれなかったから」

そう言いながら父は、机の上に置かれていた鍵を手に取った。そして鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。カチャリという音が聞こえた。父は鍵を引き抜くと、そのまま箱の鍵穴に差し込んだ。すると鍵が開いたようで、父が蓋を開く。中に入っていたのは、一冊の本だった。

「何の本なんだろう?」

僕は疑問を口にする。すると父が答えた。

「わからないけど、表紙に名前が書いてあったよ。えっと確か……」

父がページをめくろうとした瞬間、突然本が光り始めた。僕は驚いてその場から離れる。そして目を閉じながら父を見た。

「お父さん! 大丈夫!?」

僕は叫んだ。しかし返事がない。

やがて光が収まったので、恐る恐る目を開いてみる。するとそこに父の姿が見えた。しかしその体は透けていて、向こう側の景色が見えるようになっていた。

「お、お父さん?」

戸惑っていると、彼が口を開いた。

「ああ、お前か。こんなところで何をしているんだい?」

「それは僕のセリフだよ。だって、体が半分消えてるじゃないか」

「ああ、そうだったね。私はもうすぐ消えるんだった。すっかり忘れていたよ」

彼はどこか他人事のように言った。僕は不安になりながらも質問をする。

「一体どういうことなの? さっき光った時に何かが起きたみたいだけど」

「あれはきっと、祖父の魔法だよ」

「魔法の力?」

「そう。この部屋の中には、不思議な力が宿っていたんだ。だから祖父はこの部屋の中でなら、好きなように姿を変えられた」

「じゃあ、今のお父さんは……」

「うん。この部屋の中にある祖父の魂が、形を持って現れたんだ」

「そんなことが……。じゃあ、この本に書かれている名前は?」

「それはもちろん、私の名だよ」

「それじゃあ、この日記は?」

「祖父さんの日記だね。ここに書かれた文字は、祖父さんの本当の名前なんだ。祖父の本名は、祖父さんにしか読めない」

「それって、どういう意味なの?」

「祖父さんは自分の本名を忘れていたんだ。それを私に教えてくれたのも祖父さんだった」

「どうして名前を忘れられていたの?」

「祖父さんはこの家に来る前の記憶を失っていたからね。私も詳しくは知らないけれど、恐らく事故に遭ったせいだと思う」

「そうだったのか……」

僕は納得したような表情を浮かべる。

「ねえ、一つ聞いてもいいかな?」父が遠慮がちに尋ねてきた。

「なに?」

「もし私がいなくなったら、この家はどうなると思う?」

「そうだなぁ……」

僕は考え込む。しばらく悩んだ後にこう言った。

「やっぱり寂しくなるんじゃないかな」

「そうか。そう思うかい」

「うん」

「わかったよ。ありがとう」

父はそう言うと、笑顔を見せた。それから日記帳へと視線を移す。「この日記帳には、色々な思い出が書かれているんだ。子供の頃から、ずっとね」

「そうなんだ」

「祖父さんは本当にたくさんのことをしてくれた。発明品を売ってお金を稼いでくれた。そしてこの家の管理をしてくれる人も雇ってくれた。おかげで私たちは不自由なく暮らせているんだ

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